この度、「Web版 ヴァチカンの道」の編集者から、わたしが2010年9月に書いた「日本に於ける福音の宣教を省みる」という一文を「Web版ヴァチカンの道」に掲載しないかというお誘いを受け、喜んでお受けしました。
  この一文は、以前夙川教会で助任司祭として指導頂いたイタリア人の神父さまから、ご自分の友人で直接小教区の司牧に携わっていない同僚の神父が、日本の信徒が教会の現状をどのように見ているかを知りたいと言っているので、文章にまとめてくれないかとお頼みがあり、起草したものです。2010年9月当時の草稿をそのまま掲載させて頂きますが、二か所に注を新たに付けたことをお断りしておきます。(編集者注:原典は“イタリア人神父さま”のご意向で、「信徒でもわかることは、司祭、司教が理解できていない不思議」となっています)

2014年6月11日

 

 

日本における福音の宣教を省みる

2010年9月16日
夙川教会信徒
河 野 定 男


以下、日本のカトリック教会のあり方について、日頃、疑問に感じていることを綴ってみました。


1.主日のミサを大切にする

   「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉である」(典礼憲章10項)とあるように、あらゆる教会生活と宣教の源泉と頂点は感謝の祭儀(ミサ)にあることを教会は教えている。
   ベネディクト16世は使徒的勧告「愛の秘跡」で次のように主日の大切さを説いておられる。「・・シドノス参加司教は、すべての信者にとって主日のおきてが大事であることを再確認しました。主日は、『主の日』に記念したことを守って毎日の生活を生きることができるようになるための、真の自由の源泉だからです。実際、復活の勝利を記念する感謝の祭儀にあずかる望みを失うとき、信仰生活は危険にさらされます。・・(中略)・・日曜日は主の日であり、聖別された日です。この感覚の喪失は、キリスト信者の自由、すなわち神の子としての自由に関する本来の感覚を失ったことを示す徴候です。・・」(73項)
   日本の教会、特に大阪教区は、この主日のミサの重要性を信徒に教えるのにあまり熱心でないように私には思える。大阪教区に於ける福音の宣教に停滞してるなら、それはこのことと深く関連しているのではなかろうか。司祭の人数が減少し、すべての小教区に司祭を常駐させることが出来なくなるに伴い、司祭不在のときの集会祭儀が強調されるようになった。司祭が不在であるため主日のミサを行うことが出来ない場合には、信徒たちが集会祭儀を行い、主を賛美すること自体は大変すばらしいことであり、使徒的書簡「愛の秘跡」も75項でこれを薦めているのは確かである。しかし、大阪教区ではこれを安易に取扱い、信徒に誤解を与えてしまい、集会祭儀が主日のミサの代替となるという漠然とした観念が蔓延している。大阪教区の都市部でも常駐司祭のいない教会では一ヶ月に一回とか二ヶ月に1回は、主日のミサが行われず、集会祭儀が行われるのが常態化しているのは、少々異常な状態である。
   使徒的書簡が75項で教えているのは「たとえそれがある種の犠牲を求めることになっても」「信者は教区の中で、司祭がいることが保証されている教会に行って」ミサに与るべきであり、共同体として主日に集会祭儀を行うことが薦められるのは、「距離がきわめて遠いために主日の感謝の祭儀に参加することが物理的に不可能な場合」だけだ、ということである。ベネディクト16世のこの指針を真摯に受け止めるなら、大阪教区の信徒の大多数が住む大阪・神戸などを中心とする都市部では、優れた交通網が発達しているのであるから、主日のミサの代わりに集会祭儀に参加せざるを得ないという事態は起こりえないことになる。このことを司教、司祭、信徒ははっきりと認識すべきであろう。ミサ(感謝の祭儀)が教会生活と福音宣教の源泉と頂点であることを本当に信じるなら、主日のミサの重要性を教える信仰教育を徹底して行うべきである。司祭は、小教区の枠をこえ、主日には信徒はミサの行われる教会に行くべきことを繰り返し教え、主日を守って生きる喜びを伝えるべきである。
   ところで、使徒的書簡が指摘する「距離がきわめて遠い」「物理的に不可能」とは大阪教区では具体的にどのような地域に当てはまるかを良く研究する必要があると思う。また、ミサに与るために信徒に「ある種の犠牲を求める」とはどの程度ものかを考えることが特に大切である。もし仮に信徒たちが「日ごとの糧」を得るために払っている程度の「犠牲」(つまり通勤のために費やす程度の距離と時間)を主日のミサのために「求める」とすれば、大阪教区のカテドラルや神戸の中央教会など、足場の良い、大きい聖堂の教会(注1)を数カ所定め、それらの教会で主日には10回程度のミサを行うことにすれば、大阪教区の大多数の信徒は主日のミサに与ることができるということが、少なくとも理論的には成り立つのではなかろうか。そして信徒は主日にミサに行くために払うこの「犠牲」を、「神がみ心に従って聖なる司祭を送ってくださるよう祈るための貴重な機会」(「愛の秘跡」75項)と捉え、叙階の秘跡を受けた司祭の主日に果たす中心的役割を正しく認識する出発点としなければならない。

(1)2014年6月の時点では、2011年3月に完成したサクラファミリアの大阪梅田教会を加えておく。


2.「信条」の勝手な改変

   日本の司教団は2004年2月に新しい口語訳の信条を発表した。その「ニケア・コンスタンチノープル信条」を見ると、「われは一、聖、公、使徒継承の教会を信じ」となっていたところが「わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます」と改められている。この改変は口語にするための単なる翻訳上の問題ではなく、明らかに「内容」の変更にあたる。ニケア・コンスタンチノープル信条は公会議の公式文書でるから、一、聖、公、使徒継承という教会の特性を示す伝統的な順序を日本の司教団が勝手に変更することは許されることではない。司教団はこの改変の理由を何も説明していないから、その真意はわからないが、四つの特性のうち、一番目に掲げられていた「唯一」を四番目に変更するという行為は、常識的には、「唯一という特性は、今まで考えられてきたような重要性はなくなった」というシグナルが送ることになる。つまり、キリストの教会は一つであることにあまりこだわる必要はないという、誤った教会観を生じさせることになりかねない問題である。
   教会が唯一であるのは「教会の起源と原型が三位のペルソナにおける唯一の神の単一性にあるからです。設立者であり、頭であるキリストは、ただ一つのからだにおいてすべての民の一致を再建なさいます。・・」と「カトリック教会のカテキズム要約(以下『要約』と略)」161が教えている通り、教会の一番目の特性が「唯一」となるのは当然のことである。エキュメニズムとは、人間の犯した罪のために不幸にして分裂してしまった神の民が、再びキリストにおいて一つの(唯一の)民になりたいというキリスト教徒全体の願いのことである。


3.日本のカトリック教会にカトリックの聖書がない不思議(注2)

   現在の日本のカトリック教会ではミサの聖書朗読をはじめ、カトリック出版物の聖書引用なども、すべて新共同訳聖書が使われるようになった(例外はミサの答唱詩編で歌う詩編で、カトリック中央協議会の典礼委員会訳を使用)。これは大変すばらしいことで、カトリック、プロテスタントを問わず、神のことばを、同じ表現の日本語で聞き、読むことができる便宜ははかりしれない。啓示憲章も「分かたれた兄弟たちとの協力による訳が必要であり、教会当局の承認を得て行われるならば、すべてのキリスト者はそれを利用することができる。」(22項)と共同訳を推奨している。
   ところで、日本のカトリック教会が使用している「聖書―新共同訳 旧約聖書続編つき」であるが、この聖書の旧約は旧約聖書(39文書)と旧約聖書続編(13文書、ダニエル書補遺を一つの文書とみるなら11文書)に分かれており、合計52の文書から成っている。
   『要約』は「聖書は神ご自身が聖書の作者であり、霊感を受けたものといわれ、わたしたちの救いに必要な諸真理を誤りなく教える」と解説し(18項)、「使徒伝承によって教会が識別した、聖なる書物の完全なリスト、すなわち正典は旧約聖書では46文書である」と教えている(20項)。ので、続編つきの新共同訳聖書は、カトリック教会の聖書とは云えないことになる。聖書は聖伝と共にカトリック信仰の源泉であるから、この問題は大変重要である。
   一方、新共同訳聖書は、カトリックとプロテスタントの共同事業としてなされた日本のキリスト教にとって画期的な成果であることも事実である。そして、プロテスタントの諸教会も、続編つきの新共同訳聖書以外は使わないのであれば、エキュメニズムの観点から、カトリック教会の聖書とは云えない続編付聖書を、日本のカトリック教会が採用するのもやむを得ないと思う。しかし、実際には、プロテスタントの教会ではほとんど続編付聖書を使用してないのが実情である。この現実を踏まえるなら、新共同訳に基づいた、カトリック教会が当初から採用してきた伝統的な46文書から成る旧約聖書を早急に作成すべきだろう。

(注2)新共同訳によるカトリックの聖書がない、という意味である。口語のカトリック聖書としては1964年にドン・ボスコ社からバルバロ訳の聖書が出ているが、文書の表記が現在一般に使われている表記と異なっている(創世記→創世の書、申命記→第二法の書など)。また、2011年8月にはフランシスコ会聖書研究所訳が出版された。但し、これらのカトリック聖書はミサ典礼には使われていない。


4.インカルチュレーション(福音の文化内開花)への視点

   インカルチュレーションには「教会から世界へ」と「世界から教会へ」の二つの方向があるという(「カトリック教会の教え」181頁)。日本の教会は、後者の方向に沿って、日本の文化・伝統と教会の典礼を調和させた「葬儀」の儀式書を典礼のインカルチュレーションの第一歩として作成している。
   このような具体的成果とは別に、日本文化の特色の原点はどこにあるかを、日本の教会がよく理解し、それをインカルチュレーションに活かすように努力しなければならないと思う。
   日本文化の特色を探るに最も手っ取り早い方法は、第一に日本国憲法に何が書かれているか知ることであり、第二には日本の宗教事情はどうなのかを見ることであろう。
   日本の憲法の第一条に「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民の統合の象徴」とあり、日本は天皇を大切にする国であることが解る。事実、天皇にたいする日本人の敬愛の念は幅広く且つ奥深いものであり、毎年1月2日に行われる皇居の一般参賀に何万という人々が訪れるし、日本の色々な改憲論に皇室(天皇制)を廃止しようというものは皆無である。日本の皇室は2000年の伝統を持ち、しかも単一王朝(万世一系)で継承されている。このような国は世界で日本以外にはない。なぜ、このような国が現代世界に存在するのかを研究することが日本に於けるインカルチュレーションの第一歩だろう。
   日本の天皇の最大の特色は、「祭祀王」であることだと云う説があるが、私はこの説に注目したい。天皇陛下の日々のお務めに新嘗祭(11月)を初めとする宮中祭祀が重要な位置をしめている。日本の天皇は「国平らかに民安かれ」(国中が平和で、人民が安らかに暮らせる)を祈る祭り主としての任務を第一としてきたと云われている。この天皇の国民に対する日々の祈りを、キリスト者はどう受け取るべきか。天皇の存在と日本人の天皇に対する敬愛の念を、日本の福音宣教上、どのように位置づけるのが適切なのか、考えなければならない。
   第二の日本の宗教事情に著しい特色がある。文部科学省の2006年の宗教統計調査によると、日本の人口が約127百万であるのに、宗教人口は208百万人であり、その内訳は神道系106百万、仏教系89百万、キリスト教系3百万、諸教系10百万となっている。つまり、大多数の日本人は仏教徒であると同時に、神道の信者(神社の氏子)であるということである。神道は体系的な教義もないし、宣教(布教)もしないので、異なる宗派の信仰をもつ個人個人を共同体として一つの儀礼・儀式に参加させるには、神道の形式によるのがもっとも摩擦が少ない。このことに着目して、すべての日本の戦没者を慰霊するために設立されたのが靖国神社である。人間は本質的に宗教的存在であるから、国や公共団体が慰霊などの儀礼を行う際、何らかの宗教色を伴うことは当然で、日本の場合は神道の国であるから、神道による儀礼となるのは自然である。アメリカの大統領就任式がキリスト教の形式に則って行われるのと同様である。
   日本の司教団は、1980年頃から信教の自由を守る立場から厳格は政教分離の原則を貫くことを政府に要求しはじめ、首相や閣僚の靖国神社参拝反対を表明してきた。最近では(2009年)、正月の恒例である首相の伊勢神宮参拝に対し、カトリック正義と平和協議会が抗議文を出すまでに至っている。これはどう見ても異常ではなかろうか。日本の首相や政府の高官が神社に参拝したからといって信教の自由が侵されるわけでは決してない。日本は信教の自由が完全に保証された国であり、これが危険に曝されるような事態は殆ど予測しがたい。それにもかかわらず、なぜ、厳格な政教分離を要求するのか、人間の本源的な宗教性を否定することにならないだろうか。日本のカトリック教会が憲法20条の厳格な適用の主張(これは宗教否定論者の主張につながる)を見直さないかぎり、日本の天皇制度をも否定することになりかねず、これではインカルチュレーションどころか、日本文化の破壊となってしまうのではないか。

以上

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