鹿児島とザビエル(1) 2018年8月 青 山 玄
聖フランシスコ・ザビエルの鹿児島滞在については、その四百年記念に当たる昭和24年前後に、新聞、ラジオ、小冊子、単行本などを通して既に紹介されて尽したので、あらためて史料をほり返す必要もないようだ。しかし、あの頃におそらく急いで書かれたと思われる著作を吟味してみると日本側史料の研究にうとくて、信憑性のうすい外国側史料に頼り過ぎたり、史料を総合的に考察していなかったりしていて、疑問を残しているものが少なくない。 もともと国分説は、ザビエル時代に書かれた外国側史料に基づくものではなく、1903年に英語で書かれたマードックの著書に初めて見られるもので、それが1925年以来、有名なザビエル研究家シュールハンメル師の著書に取り入れられ、間もなく日本人の著作にも受け入れられるようになったのである。このあたり、従来のザビエル関係著作には、外国側史料や文献への一辺倒が少し強すぎたようである。もちろん伊地知茂七氏の『島津貴久公』(大正9年、村上直次郎氏訳註の『耶蘇会日本通信豊後篇』上巻)を始めとして、伊集院説をとっている著作も多くあり、国分説一つから全体を判断することは許されない。しかし、後述するように、貴久のザビエルに対する態度の評価にしろ、ザビエルの鹿児島から平戸への旅路にしろ、 2, 30年前のザビエル伝には日本側史料を殆ど無視したような著述が多かったことは否定できない。 そういうザビエル伝の多いなかで、外国側文献と日本側史料の両方を研究して書いた茂野幽考氏の『日南切支丹史』(昭和26年)は、ちょっと注目に値する。他のザビエル伝にはめずらしい日本側史料を幾つか紹介しているからである。しかし、よく調べてみると、氏はそれらの貴重な史料を、外国側史料に基づく普通のザビエル伝と併記しているだけで、両史料を総合的に比較研究するところにまでは達していない。しかし、鹿児島の郷土史料に通じている筈のその茂野氏の記述にしても、疑問を起こさせる箇所が少なくない。たとえば氏は、「当時鹿児島は、商港としてまた城下町として繁栄していた。ザビエル聖師一行の上陸した八月十五日は、旧暦の七月十二日にあたるので、ちょうどお盆の精霊迎えの日の前日である。城下の人たちは、お盆の準備やお墓まいりでにぎわっていたと考えられる」(前掲書57ページ参照) と書いているが、後述するように、鹿児島が城下町としてまた商港として繁栄し始めるのは、貴久が天文十九年十二月(1551年1月)に伊集院から鹿児島へ移り、内城を建築してからのことで、それ以前の鹿児島の町は、戦禍の跡も消えやらない見すぼらしい状態にあった筈である。ザビエルの書簡にも、鹿児島の人々が商人と交わろうとしないこと、非常に質素な生活をしていることなどがはっきりと述べられているので、当時の鹿児島の港や町が繁栄していたという記述には、疑いを持たざるを得ない。なお、ザビエルの鹿児島に上陸した日についても、1549年8月15日は、どう計算してみても旧暦の七月二十二日となり、お盆は過ぎていたはずである。従って上記引用文の後半は、暦の換算違いに基づく茂野氏の想像であると思われる。 このようにして、ザビエルの鹿児島滞在に関してこれまで書かれたことについて、一つ一つ検討して行くと、疑問の湧く点が意外に多い。限られた紙面なのでそれらを述べ尽すことはできないが、当時の鹿児島やザビエルの活動を史料に即して理解する上に、重要あるいは有益と思われることだけでも書き綴ってみたいと思う。聖フランシスコ・ザビエルが鹿児島から書いている書簡を解明するためにも、ザビエルが鹿児島を辞去するに至った理由をさぐるためにも、当時の鹿児島の歴史的状勢を通覧し、その大局的見地から個々の事件や記述を理解する必要がある。それでまず、ザビエル来日前の薩摩大隅地方の一般的状勢から述べるとしよう。 薩摩の守護島津氏は、源頼朝が文治二年(1186年)、その庶子と言われる忠久を、朝廷から島津庄の下司職に任命してもらい、この地方の土豪に下知する地頭となした時から始まった。忠久は間もなく日向、大隅、薩摩三州の守護職に任ぜられたが、他の諸地方でも地頭職、守護職を兼ねていたので、鎌倉に住み代官を通してそれらの職務を果たしていた。島津氏が薩摩に在住したのは、元寇の後、第四代忠宗の時からであった。忠宗の在住した地は、肥後との国境に近い出水であったようである。なお、忠宗の弟忠長は、後述する伊作氏の祖であり、忠宗の従兄弟俊忠は伊集院氏の祖である。また忠宗の七人の子からは、後年島津氏の重臣として活躍する新納氏、樺山氏、北郷氏らの祖が続出している。 さて、南九州は古来しばしば流謫の地となっており、藤原氏や平家に属する没落貴族関係者の移住も多くて、彼らはやがてこの地の土豪となり、各地に分散して複雑な政治勢力を形成していた。宝治二年(1248年)には、更に鎌倉幕府の有力な御家人渋谷氏も薩摩の北部に移住し、間もなく東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城という、いわゆる渋谷五族の強大な勢力を形成するに至った。従って、そこへ守護島津氏も家臣団をつれて在国するとなると、古くからの郡司・土豪のいる公領・荘園と新来の武家所領との関係が一層交錯紛糾して、様々の感情問題や訴訟を生み出し、それらの解決は容易でなかった。鎌倉幕府が滅亡して南北朝時代に入ると、これらの豪族間における不満や対立感情が一層高まり、守護を始め小地主に至るまで、南朝についたり北朝についたりして相互に武力抗争を繰り返した。これらの争いが発展して、15世紀の初頭以降にはしばしば島津氏内部の兄弟・親族・重臣間の争いも発生した。こうして守護の権力は次第に縮小し、その勢威は、15世紀前半からは日向、大隅、薩摩の一部にしか及ばなくなってしまっていた。 守護の居城は転々と移行して定まらなかったが、第五代の島津貞久が興国四年(1343年)に鹿児島の北辺に住む矢上一族を討伐した後、一時的に東福寺城(多賀山の北方、南方神社の東側にあった)に留まって鹿児島居住の端緒をつくり、次いで至徳四年(1387年)に第七代大隅守護の島津元久が志布志から東福寺城に移り住んで以来、鹿児島は守護の町として成長するようになった。しかし、13世紀に鹿児島の豪族長谷場氏の本拠となっていた東福寺城は、もともと要害地に築かれた小さな山城で、守護の居城にしては狭すぎたので、元久は間もなく稲荷川のほとり(現在の清水中学校の後方)に、主殿十二間、馬屋、雑掌所などを取りそろえた館造りの清水城を建築した。この城はザビエル滞在期までそのまま焼けずに残っていたので、来鹿して間もなくそこの城代を訪問したザビエルも、この城を見たに違いない。 国内にある各種勢力との対立抗争で苦しむことの多かった島津氏は、それだけに外国諸勢力との友好関係や対外貿易には殊のほか力を注いでいたようである。島津氏の領内には幸い坊之津という、地理的位置からしても港湾の具合からしても、海外渡航の風待ち港として非常に恵まれた港があり、内外の多くの船がこの坊之津に往来していたので、島津氏も貿易による利益を豊かに受けることができた。島津氏は、この有利な地理的条件を利用して、明との勘合貿易にも積極的に参与したが、応仁の乱以降、室町幕府が遣明船の航路を変更して四国の南を通って薩摩に来る南海路を選び、船の保護を島津氏に依頼するようになってからは、幕府と島津氏との親密さも増し、第十一代の島津忠昌は、京都五条樋口に邸宅を受けるに至った。琉球貿易についても、島津氏は既に14世紀前半以来優位を占めていた。文明四年(1472年)と十二年とに、島津氏は幕府と琉球国との間の周旋の労をとって琉球に使者を送っているが、その後幕府が力を失うにつれ、島津氏は幕府を離れて、単独に琉球との関係を深めた。 このように対外貿易に大きく心を開き富裕であった島津氏の領内には、また国内中央の優れた文化も多く流れ込んだ。禅宗は、元久が鹿児島に居住した14世紀の終りごろから盛んになり、京五山との間に僧侶の来住が行われて、禪寺の創建が相次いだ。後年ザビエルのよく訪れた玉竜山福昌寺は、島津氏のほか一族に属する伊東院忠国の第一子石屋真梁が、島津元久の依頼によって、1394年に開山したものである。福昌寺三世の仲翁守邦は元久の子で関東の足利学校で学び、後年南九州から足利学校に留学した多くの学僧の端緒となった。 文明十年(1478年)には、応仁の乱を避けて肥後の隈府に来ていた桂庵玄樹も、島津忠昌の招きに応じて鹿児島に移り、田ノ浦の島陰寺桂樹院に住んだ。彼はそこで朱子学を講じ、島津氏の家老伊地知重貞と共に、文明版大学と言われる朱子新註を刊行し、ついで延徳四年(1492年)延徳版大学章句を発行した。玄樹の伝えた程朱の学は、月渚、一翁、文之、如竹などの優れた禅僧たちに受け継がれ、鹿児島では既に14世紀末葉から宗学や漢詩文が盛んに行われた。同じ頃和歌や漢詩文が盛んに行われたが、和歌や連歌も、京都の学風を取り入れて盛行をもたらし、16世紀の島津家の外一族や家臣団からは、儒学詩文に秀でた人が輩出した。 守護島津氏の権威や軍事力は16世紀に入ると急激に減退し、多病と国内騒乱に苦しみ続けた第十一代島津忠昌が永世五年(1508)に没すると、いわゆる島津氏の暗黒時代を迎えるに至った。忠昌の三子忠治、忠隆、勝久は相次いで守護職についたが、皆若年で経験に乏しく、満十九歳で襲封した忠治は、わずか七年後の永正十二年(1515)に子を残さないで死に、十八歳でその後を継いだ弟忠隆も、永正十六年に子を残さないで死んだ。その後を受けた勝久は、十六歳で守護職についたが、国内は既に手の施しようがない程に乱れ、守護の権威は地に落ちていた。 勝久は第九代の守護忠国の弟用久を祖とする薩州島津家から奥方を迎えたが、その奥方の弟実久は、この薩州島津家の総領であり、当時出水と加世田を中心に、阿久根、高城、水引(高城の南、川内川の北岸)、川辺など、かなり広大な領地を所有していたので次第に傲り、遂には勝久に迫ってその継嗣となることを願うようになった。勝久は、厚かましい野心に満ちたこの願いを退け、奥方を去らせた。怒った実久は、勝久が政治をおろそかにしていると責めて謀反を起こし、多くの家臣がこれに同調した。 謀反者を討つ力のない勝久は、重臣本田親尚の勧めに従い、祖父立久の弟伊作久逸の孫で、立久の兄の子島津運久の養子となった島津忠良に国事を託し、忠良に南郷(今日の永吉)と日置とを所領として与えた。忠良はそれまで、田布施城に住んで周辺の阿多、高橋、伊作を併領していた小さな城主でしかなかったが、学問文芸の道に秀で、政治や軍事にもたけていた。忠良が勝久を助けて大永六年(1526)十一月以来ともに鹿児島に住んでいると、勝久は間もなく忠良の長子虎寿丸を自分の継嗣にすることを切望し、遂にその同じ十一月、わずか十二歳半の虎寿丸に元服させて又三郎貴久の名を与え継嗣とした。翌月忠良は、実久に与して反旗を翻した帖佐城主辺川忠直を討った功により、勝久から更に伊集院と谷山の地をもらい受けた。大永七年三月、勝久は守護職を貴久に譲り、翌四月忠良から伊作城を貰い受けて、そこに移り住んだ。勝久はその時、守護職に対する望みを捨てた印として髪をそったが、同時に忠良も髪をそり、愚谷軒日新斉と号した。 しかし、守護が変わっても政治的不安は募るばかりで、同年五月、帖佐の新しい地頭島津昌久と加治木地頭の伊地知重貞とが反旗をあげ、六月に忠良が海路生別府(今日の永浜)を経て、加治木と帖佐へ出兵している間に、実久は巧みに勝久に近づき、勝久と忠良の仲を裂いた。他方実久の軍は、北と南から急をついて伊集院、日置、谷山を攻略し、鹿児島にまで迫った。守護貴久は九死に一生を得て、山伝えにようやく田布施へ忍び落ち、忠良も無事田布施に帰り着いたが、勝久は、田布施から礼を尽くして訪ねて来た貴久に会った後、伊作を去って鹿児島に戻り、還俗して守護職についた。 貴久と忠良は、その後数年田布施に留まり、好機の到来を待った。ただ大永七年七月に、勝久に属する伊作を横領しようとした実久に先駆けて伊作城を奪い、享禄四年(1531)には、薩摩半島南岸の豪族頴娃兼浜と同盟を結んで、加世田を中心とする実久勢力の弱体化をはかった。更に天文二年(1533)には勝久、実久党に属する南部を攻略し、勝久に味方する日置地頭の山田有親を死に処した。南部はこの時より永吉と呼ばれるようになった。 さて守護職についた勝久は、絶えず実久の家臣たちとの対立に悩まされ、遂には実久とも事を構えるに至り、天文四年に谷山で実久軍に敗北した。この合戦に先立ち、実久の軍兵は鹿児島に乱入して放火し、少し大げさだが、火光炎々として七日に及んだと言われている。恐らく鹿児島の町並みは、この時大半は灰燼に帰したと考えてよかろう。敗れた勝久はまず帖佐へ、次いで真幸(吉松の北方)へと逃れ、そこで八、九年留まった後、更に都之城で八、九年居住し、遂には母(大友親政の女)の故郷豊後に行って、天正元年(1573)に沖之浜で没した。 勝久が鹿児島を去った翌年の天正五年(1536)から八年にかけ、貴久、忠良は、寡兵をもってよく実久軍を破り、伊集院、鹿児島、吉田、谷山、加世田、川辺と、実久の所領を次々と奪って、天文八年六月、市来の平城にまで迫った。貴久、忠良の軍事力は、この頃には既に一般に認められ、実久の横暴を快く思っていなかった入来院重聰をはじめ、種子島、肝付、頴娃、伊地知、蒲生の諸氏も援兵を送ったので、貴久は容易に平城を陥れた。貴久に抵抗することの無益を悟った串木野城主川上忠克も、まだ戦わないうちに使者を送って城を明け渡し、実久の本拠出水へと去った。しかし、市来本城の新納忠苗だけは、六十余日間もその城を守って、八月二十九日に漸く降伏した。諸将は貴久軍を悩まし続けた忠苗を憎み、忠苗を殺すことを欲したが、忠良はそれを制して貴久に敵将の命を乞い、忠苗を部下百余名と共に、市来の海岸から船で出水へ帰してやった。 市来本城が落城したこの八月に、貴久、忠良は連判をもって十ケ条の掟を公布したが、そこでは何よりも、打ち続く戦争で塗炭の苦しみにあえいでいる庶民や士卒に対する温かい配慮と、領内秩序を回復して平和の裡に富国強兵を図ろうとする意図が伺われる。実久は、貴久と和を結んで出水にこもり、この後は貴久と争うことがなかった。 島津実久が出水へ退くと、鹿児島周辺の政情は落ち着いた。しかし、貴久の領地は、串木野、市来、伊集院、吉田以南の地に過ぎず、伊集院と吉田との間にある郡山は入来院氏に属していて、薩摩半島南岸の諸地方にも、貴久の支配権はまだ十分に及んでいなかった。しかも薩摩の中心部を手に入れた貴久は、今度は正統の守護として、長年の分立主義に慣れて従属を好まない北方の渋谷一族、大隅の諸豪族、および貴久の外戚にあたり日向の飫肥(おび)を本拠とする島津忠弘、都之城を本拠とする北郷忠相らとも対立する運命に置かれていたのであった。 天文十年十二月、島津忠広と北郷忠相は、清水(きよみず、国分の北方)の本田薫親、加治木の肝付兼演、それに禰寝(ねしめ)、上井(うわい)、敷根、廻(まわり)、伊地知、蒲生の諸氏、渋谷一族のうちの入来院、東郷、祁答院の諸氏と連合して、大挙生別府(おいのびふ)城に住む貴久党の樺山善久を攻撃した。貴久は、伊集院忠朗に鹿児島と谷山の兵を授けてこれを助けさせたが、生別府城はその後もしばしば攻撃に曝されるので、貴久は樺山氏に説き、その城をしばらく本田氏に譲らせた。それは、本田氏と同盟を結んで、敵方連合軍の分裂を図るためであった。 天文十四年(1545年)に入り、貴久は田布施から伊集院に移り住んで、緊張の絶えない渋谷一族との辺境を固めた。同年三月、日向の島津忠広と北郷忠相とが、一緒に伊集院に来て貴久を守護と仰ぎ、臣従を誓った。同じ年、京都の太政大臣近衛種家(たねいえ)も日野資方を遣わして貴久の成功を賀し、衣冠束帯などを贈った。八月に入ると、入来院重朝は、東郷、祁答院、蒲生、肝付、本田の諸氏と連合して郡山城で兵をあげ、伊集院を襲おうとした。しかし、激しい接戦の後、連合軍は逆に郡山城を奪われて退却した。 天文十七年(1548年)三月、清水城の本田薫親に横暴の振舞が多いため、周辺の豪族たちが薫親に叛き、その争いに乗じて渋谷一族や真幸(まさき)の北原氏も出兵したので、大隅地方は大いに乱れた。正八幡宮を守る桑波田氏から救援を依頼された貴久も、すぐに鹿児島へ出て忠良をはじめ諸将を派遣し、秩序の回復に当たらせた。忠良は、初め本田氏を救おうとして、敵方に奪われた本田氏の出城生別府や日当山などを次々と奪回した。本田氏にてく敵対していた上井、敷根、廻の諸氏は、忠良の率いる大軍を見て、相次いで忠良方に投じたが、本田氏は逆に北原氏と結んで忠良に反抗した。忠良は樺山幸久にその旧領生別府を返し与え、伊集院忠朗に清水城に近い姫城城を攻撃させた。忠朗の攻撃を受けて大いに苦しんだ本田薫親は、遂に北原氏と共に忠良に降伏した。忠良は、本田が島津忠久以来の功臣であることを思い、快く赦して薫親に祖先累代の所領清水を安堵した。しかし薫親は、その後間もなく北原、祁答院、肝付の諸氏に通じて再び叛いたので、忠良は十月三日(あるいは九月八日とも言う)大軍を率いて清水城に向かった。薫親は恐れて翌日庄内へ亡命したが、島津累代の功臣本田氏は、ここで全く滅んでしまった。この出来事の後、貴久は清水に来て論功行賞をなし、清水を自分の弟島津忠将(ただまさ)に、姫木を伊集院忠朗にそれぞれ所領として与えた。樺山幸久に返し与えられた生別府は、この時より長浜あるいは永浜と呼ばれるようになった。貴久は、その後も暫く清水に居住して、庶民の慰撫に努めた。 天文十八年(1549)三月、飫肥の島津忠親(北郷忠相の子で島津忠広の後を継ぐ)は伊東義祐の攻撃を受けて危険に瀕し、清水にいる貴久に救援を求めて来た。貴久は伊集院忠朗を急派して助けさせたが、忠朗は三月十九日に飫肥に着き、四月三日に忠親と協力して敵に大勝を博しも四月十日に再び清水に戻って来た。この名将忠朗の留守中に、加治木城主肝付兼演は、帖佐の祁答院良重、並びに入来院、東郷、蒲生の諸氏と謀って吉田城を襲った。貴久は新納忠元、三原重秋、山田有徳らに吉田城を守らせたが、四月に入って、忠元らは敵を撃退することに成功した。同年五月二十九日、貴久は伊集院忠朗、北郷忠相、菱川隆秋の三将に加治木攻撃を命じ、翌六月一日から加治木攻撃が始まった。それは、当時「手火矢」あるいは「種子島」と称した鉄砲が、この地方で実戦に使用された最初の戦いであった。しかし、城塞の守りが固い上に、肝付氏には蒲生氏や渋谷諸氏も救援に来たので、勝敗は容易に定まらず、両軍の対陣は長引いた。 十一月二十四日(1549年12月12日)、忠朗の子忠倉が、折からの暴風を利用して火矢を射ると、火は広がって塞柵を焼いた。敵兵は風に煽られる猛火を見て狼狽えたが、忠朗らはその隙に乗じて急襲し、兼演らを降らせた。十二月に入ると、肝付兼演はその子兼盛及び蒲生氏と共に北郷忠相に頼って清水城に至り、祁答院、入来院、東郷の諸氏もまた、それぞれ使者を送って貴久に謝罪した。そののち兼演父子は、今後渋谷一族並びに蒲生氏らと関係を断ってひたすら貴久に忠誠を尽くすことを誓ったので、貴久は樺山幸久と諮った後、兼演に加治木及びその周辺の地を所領として返し与えた。こうして貴久は、その同じ十二月に清水から陸路伊集院に帰り、約一年後即ち天文十九年十二月に、伊集院から鹿児島に移って内城の建築に着手した。 天文十八、九年頃の貴久は、以前に比べて政治的軍事的に強大となり、余ほど落ち着いていたとは言え、薩摩の北部には、貴久に対して深い恨みを抱いている渋谷一族や菱刈氏が構えており、大隅の北部にも蒲生氏や北原氏が居て、その背後には更に人吉に本拠を持つ強大な相良氏がいた。そして日向の佐土原を本拠とする伊東氏も、着実に富国強兵に努めている強敵であった。従ってザビエル滞在期の貴久は、まだ大きな不安の雲に覆われており、緊張した生活を営んでいたと言ってよいであろう。なお、貴久が天文十八年に清水城に居住していたことに、各種記述が一致しているのは注目に値する。ザビエルが1549年8月に初めて島津貴久を訪問した時にも、貴久は清水城にいたのであろうか。これについては、後で検討してみよう。 島津貴久が、今の国分の北東に位置していた清水(きよみず)城に滞在し、加治木では、貴久の軍勢と肝付、渋谷、蒲生の連合軍との間で、雌雄を決する緊張した対陣が続いていた1549年8月15日、突然三人の外国人宣教師を乗せた中国人の船が鹿児島に入港した。三人の宣教師はフランシスコ・ザビエル、コスメ・デ・トルレス、ジュアン・フェルナンデスと称し、他にポルトガル人ドミンゴ・ディアス、中国人マヌエル、南インド西海岸出身のマラバール人アマドールも同伴していた。この同伴者の内、キリスト信者であるマヌエルとアマドールとは、単なる従者でしかなかったが、ドミンゴ・ディアスは、マラッカの知事ペドロ・ダ・シルバから派遣されて来た人で、ザビエルが無事日本に着いたことを見届け、同知事に復命する使命を帯びていたようである。鹿児島に上陸した一行を案内したのは、1548年5月20日、聖霊降臨の大祝日にゴアの司教座聖堂でアルプケルケ司教より受洗し、宣教師たちと同じ船で帰国した三人の日本人であった。三人は、外国人達から「聖なる信仰のパウロ」「ジョアン」「アントニオ」と洗礼名で呼ばれていた。しかし、三人のうち、才能に恵まれていて宣教師のため最も多く働いていたパウロは、受洗前の「アンジロウ」という名で呼ばれることが多かった。「アンジロウ」という名前は、日本人の名前としては奇妙である。それで1900年発行のクローのザビエル伝によって広く知られるに至った『日本文典』や『日本教会史』の著者ロドリゲス・ツヅ(1561―1633)は日本滞在時の経験に基づき、「諸書は通常彼をアンジロウと呼ぶが、彼の本当の名前はヤジロウであった」と書いており、このことが広く知られるようになると、20世紀の多くのザビエル伝記者たちは、最初の日本人信者パウロを「ヤジロウ」の名で呼ぶようになった。しかし、ザビエル研究の世界的権威者シュールハンマー師は、依然として「アンジロウ」と書いており、筆者も、この名をそのままとどめて置いた方がよいと思う。というのは、シュールハンマー師も述べているように、日本人パウロを個人的に知っていたザビエル、ランチロット、フロイス、メンデス・ピントらは、皆「アンジロウ」と書いており、しかも、ザビエルやフロイスの耳は、諸地方で話されていた日本語の発音を、人名にしろ地名にしろかなり正確につかんでいたからである。それに、アンジロウという名前が日本人名としてどれ程珍しい名前であろうとも、当時の日本人の名前であり得ないという証明はどこにもない。もし強いてアンジロウという名前を退け、それに近い日本人名を探すなら、例えば「半次郎」という名前があり、この名は薩摩では珍しくない。有名なものとしては、幕末に「人斬り半次郎」の武名を鳴らした薩摩藩士桐野利秋がいる。ポルトガル語、スペイン語、イタリア語ではHを発音しないことから考えると「半次郎」の方がヤジロウよりも事実に近いと思われるが、何分それを確定する史料が現存していない以上、やはりアンジロウという名前をそのまま使用した方がよいと思う。ついでに書き加えると、ロドリゲス・ツヅは、ザビエルより26年も遅れて来日し、北九州や近畿地方に滞在していて、一度も鹿児島を訪れたことがない。従って、ザビエルを個人的に知っていた同時代人の書かなかった事柄で、彼が鹿児島でのザビエルについて書き加えていることには、後年北九州で働いた宣教師たちの誤った言い伝えや、勝手な想像に基づくと思われる疑問点が少なくない。それについては、後述するとしよう。しかし、こと日本人パウロに関する限り、彼の記事を無下に退けることは出来ない。彼は、鹿児島でザビエルとその同伴者たちを宿泊させた家の主人の孫で、余生をしばらく長崎で送り、そこで16世紀末に死去した敬虔なキリスト者の一婦人を知っており、また1605年以来数回浪人に身をやつして薩摩の信徒を訪問し、その信徒たちからザビエルについての様々な口述を得た、日本人のルイスにあばら神父とも親交を結んでいたからである。もしかすると彼の言うヤジロウという名前は、このような鹿児島出身者からの間接の伝えに基づいていることも可能である。 さて名前のことはこれぐらいにして、次にアンジロウがどんな人間であったかについて、同時代の記事を少しまとめてみよう。最初の宣教達の通訳者、協力者として働いた日本人が、どのような交遊を持っていたかを知ることは、鹿児島でのザビエルの布教活動を正しく理解する上に大切だからである。まず、確かなことは、アンジロウの故郷が鹿児島であったことである。1548年10月にゴアの学院へ来て、彼と一緒に生活したフロイスが、その時のアンジロウの年齢について述べていることから換算すると、彼は永世九年前後の頃、即ち鹿児島では第十一代の守護島津忠昌が死んで、いわゆる島津氏の暗黒時代が始まった頃に生まれたようである。それから十五年ほど経た大永七年三月、島津勝久は守護職を貴久に譲って伊作城に退いた。領主が替わると、鹿児島をめぐる政治不安は一層募り、同年六月貴久は田布施城に逃げ、勝久が再び守護の座についた。しかし、野心家で横柄な島津実久との対立抗争のため政局は安定せず、それから八年を経た天文四年九月、鹿児島の多くの人家が実久軍によって焼き払われると、敗北した勝久は帖佐を経て真平へ逃げ延びた。こうして支配者を失った鹿児島の町は、天文六年二月にも、清水城主本田親兼によって荒らされた。従って、アンジロウが十歳代、二十歳代であった頃の鹿児島人は、武士として身を立てることに明るい希望を持つことができず、そうかと言って政局の安定しない所に経済的発展も望まれず、とにかく暗い逆境の下に呻吟していたと思われる。アンジロウが山川、坊之野などに出入りして、海外の商人たちに接するに至った背景には、当時の鹿児島のこのような特殊事情が秘められている。人は長年何かの行き詰まりの下で悩みぬくと、急に大胆になって新しい文化の摂取や新しい世界の建設のため自分の底力を発揮するようになることがよくあるが、アンジロウについても同様に考えて良い節がある。 アンジロウの記述は尚も続くが、まずここまでの部分について吟味してみよう。アンジロウが人を殺して匿ってもらったお寺というのは、一体どこにあったのだろうか。当時の薩摩の諸事情や、その時来日していた船長ジョージ・アルバレスの報告などから考えると、それは鹿児島ではなく、坊之津のお寺であったと思われる。その理由としては、主として次の四つを挙げることができよう。 ① アンジロウの手紙に「同じ海岸の他の港」と述べられている港は、その時そこに逗留していた船長アルバレスが、1548年の末にマラッカで認めた報告によると、北緯32度3/4辺りで一つの島の起こる岬辺りに位置しており、「ヤマンゴン(山川)」と呼ばれていること。そしてこの山川でアルバレスが日本人から聞き、同報告書に数え上げている九州の港15港のうち、山川と「同じ海岸にある」と言うことのできる薩摩の港は、秋目、坊之津、鹿児島の三港でしかないこと。 ② ザビエルが鹿児島から書いた書簡にある、「武士は非常に貧しいが、たとい多額の資産が与えられるとしても、武士でない階級の者とは決して結婚しない。卑しい階級の者と結婚することにより自分の名誉を失うと考え、富よりも名誉を重んずるからである。……彼らは決して賭博をしない人々である。賭博をなす者は自分に属さないものを欲するのだから、そこから盗人にも成りかねないと思い、賭博を大きな不名誉と考えているからである」という言葉から察すると、当時の海商すなわち倭寇やポルトガル商人たちは、武家の支配下にあった鹿児島の港には出入りしていなかったと思われること。 ③ アンジロウが1549年8月にザビエルたちを連れて鹿児島に帰国した時、彼はそこで逃げ隠れせず、むしろ大きな顔をして町の城代や福昌寺の忍室和尚を訪問していることから察すると、彼が人を殺して寺に身を隠したのは、鹿児島で起こった事件ではないと思われること。 ④ 秋目には、仇敵の復讐から保護してもらうことができるような強い社会的勢力を持つ仏寺、しかもアンジロウが「我が国の修道士の僧院」と称している程の大きな寺院がないが、坊之津には一乗院という真言宗の巨刹があり、天文十五年(1546)三月に後奈良天皇の勅願寺とされて、栄えていたこと。またその一乗院は港から近く、古来坊之津港との連絡も密接であったので、アンジロウのことを聞き知ったアルバロ・バスが、彼に連絡して面会することも可能であったと思われること。また当時の坊之津は、博多や平戸などと並んで倭寇の一つの根拠地となっていたが、武士層の生活が不安定で苦しくなっていた鹿児島に家族を残して坊之津に来たアンジロウが、気の荒い倭寇たちと交際しているうちに、自分に敵対する人を一人殺して、その一味から命を狙われたということも容易に考えられること。 ところで、船長アルバレスと共に、この頃坊之津の東方にある山川港に滞在していたメンデス・ピントの旅行記によると、十二月のある朝、潮流に流されて山川港の緑の山(西部)の近くに来ていたアルバレスの船が出帆しようとしていた時、丘の上から二人の男が馬に乗って駆け下りて来た。そしてその一人は、手拭を振りながら、船に乗せてくれと大声で叫んだ。船長の命令により、ピントと二人の船員が小舟で海岸まで行くと、二人の内品位の高い方の男が、「私たちは一刻も猶予できないんです。すぐ後から沢山の者が、私たちを追い駆けて来ます。ぜひ船に乗せて下さい」と言った。ピントは当惑したが、以前にこの山川の地で、二人がポルトガル人と連れ立って歩いているのを、二度も見かけたことがあったので、とにかく二人を乗せて陸から離れた。その時、十四騎の追手が現れ、「その男たちを渡せ」とわめき立てた。すぐその後からは、更に九騎の追い手が現われて同様に叫んだが、ピントは構わずに二人を本船に移した。こうして遂に、ザビエルの許にまで来ることのできた日本人の一人を、ピントはアンジロウと呼んでいる。アンジロウの手紙には、彼がアルバレスの船に乗船を許された時の事情については何も語られていないが、坊之津を夜陰にまぎれて抜け出た彼が、山川まで70キロ程の道のりを馬で駆け通したことは、有り得ることだと思う。しかし、途中の追っ手が23騎もいたのなら、アンジロウの生命を狙っていたのは、倭寇だけではなく、その倭寇と親しくしていた薩摩半島南端地方の野武士たちであったのかも知れない。なお、この事件から150年も後で書かれたクラッセ―の『日本教会史』にも、アンジロウが従者を伴って鹿児島から山川へ来たかのように述べられている。 アンジロウを乗せて山川港を出帆したアルバレスは、彼にフランシスコ・ザビエル師の人柄などについて語り聞かせ、受洗してキリスト信者になるよう勧めた。それでアンジロウは、是非ザビエル師に会って受洗したいと望んだが、マラッカに着いてみるとザビエルはおらず、当時「香料群島」も呼ばれていたモルッカ諸島(現在のインドネシア東部のセレベス島とその東に散在する島々)へ、視察布教の旅に出ていると知らされた。マラッカ・カトリック教会の主任司祭に洗礼を願うと、その司祭はアンジロウの身分や境遇について尋ね、彼が異教徒の妻を持っており、再びその故郷に帰ろうとしているのを知って、洗礼を授けるのを拒んだ。マラッカの町は、1511年に回教徒軍がポルトガル軍に敗北して以来ポルトガル領になっていたが、教会に来るのはそこに来住するポルトガル人に限られていて、土着の住民はまだ回教に堅く固執していた。それでザビエルも、この地ではポルトガル人だけにしか説教できなかった。従って、異教徒がキリスト教に対してどれ程根強く抵抗するかを痛感していたマラッカの主任司祭が、アンジロウに帰国しないようにと勧め、彼が帰国の意志を変えないのを見て、洗礼を拒んだのもよく理解できる。しかしアンジロウにしてみれば、司祭のこの冷たい拒否の言葉によって、それまでの美しい夢がすっかり崩れたように覚えたことであろう。 やがて1547年の夏が来て、日本渡航に都合のいい季節風が吹き始めると、アンジロウはまずシナ行きの船に乗り、シナで日本行きの船に乗り替えた。しかし、日本の山々が遠くに望まれる位にまで近づいた頃、急に暴風雨が吹き荒れて四昼夜も続き、船は非常な窮状に陥って、シナへ引き返してしまった。アンジロウはそのシナの港に滞在中、次の便船でもう一度帰国を試みようか、それともこのまま海外に留まってキリスト信者になろうかと迷った。後年彼が、イグナチオ・ヨロラとその他のイエズス会員に宛てて、このような事を書き綴ったことから察すると、彼のこの時の体験は、いつまでも忘れられない程、深刻なものであったと思われる。 そうこうしているうちに、彼はその港で前述したアルバロ・バスと再会し、一緒にマラッカへ引き返すようにと勧められた。一緒にいたもう一人、ロレンソ・ボテリョという身分ある人も同様に勧め、今度マラッカに行くなら、そこでザビエル神父に会えるだろう、そして将来は神父が一人日本に行くことになるだろう、などと語った。その言葉に励まされ、アルバロ・バスの船に乗って再びマラッカを訪れると、以前にアンジロウをそこへ連れて来てくれた船長アルバレスに会い、またザビエル神父にも会うことができた。ザビエルはその時、マラッカの聖母聖堂で結婚式を挙行していたが、式後にアルバレスがアンジロウについて詳細に紹介すると、アンジロウを眺め、両手で抱いて非常に喜んだ。アンジロウも、ザビエルに会うことができて大きな慰めを覚え、自分の人生を導く神の摂理に深く感動した。それは、1547年12月末のことであった。 アンジロウは、翌年3月はじめにゴアの聖パウロ学院に移り、そこで信仰について学んだ後、同年5月20日、聖霊降臨の大祝日に「聖なる信仰のパウロ」という霊名を戴いて受洗した。一緒にマラッカからゴアに来た他の二人の日本人も、それぞれ「ジョアン」、「アントニオ」の霊名をもらって受洗した。ジョアンは、フロイスによると、アンジロウの兄弟とされているから、おそらく山川出帆の時から、アンジロウと行動を共にしていた人ではないかと思うが、アントニオについては、マラッカでザビエルに会う以前のことが、全く不明である。従って、シナの港でアンジロウ達と一緒になったと想像することもできよう。なお、フロイスが「アンジロウの兄弟」と書くジョアンが、果たしてアンジロウの肉身上の兄弟であったかどうかは疑わしい。アンジロウは、自分の受洗と関連して「私が日本から同伴し、当地(ゴア)に留まっている一人の僕も、同日洗礼を受けました」と書いているからである。ジョアンの語学力や知的能力がアンジロウよりも劣っており、ゴアで為した大黙想についても、トルレス神父から直接に指導を受けたアンジロウが、後でジョアンの黙想を指導しているところを見ると、ジョアンはアンジロウの下僕だったのではないかと思う。 1548年10月にゴアの聖パウロ学院に来たフロイス神父によると、アンジロウはその頃、修道士と同じ様な服装をして、イエズス会員たちと一緒に食事をし、土曜日ごとに告白の秘跡を受け、日曜日には聖体を拝領していた。彼はまた、二十数日間に及ぶイエズス会の心霊修業を、トルレス神父の指導の下に果たし、善徳の実行に熱心であったので、学院の中でも、彼に優る者は少なかったとのことである。トルレス神父は、毎日一定の時間を割いて、アンジロウにマテオ福音書の語意を説明したが、一度全部の説明を聞いた後の復習の時、彼は同福音書の第一章から最後の章まで、全部記憶していたという。教理の理解やポルトガル語の習得についても、アンジロウは優れた才能を発揮し、ザビエルもフロイスも、彼に対する賛辞を惜しまない。アンジロウが一つの深刻な危機を乗り越えて精神的に若返っており、まだ殆ど誰にも知られずにいる新しい文化を摂取して、日本に伝えようとの熱意に燃えていたからであろう。しかしそれにしても、日本が一人の有能な人間によって、最初のキリスト教宣教師たちに紹介されたことには、感心せざるを得ない。神の愛の計らいによるものであろう。ザビエルが1549年1月、ローマのイグナチオ・ロヨラ神父に宛てて、「私は、非常に満足して日本に行くことを決意しました。(中略) 私は、日本では多くの人をキリスト信者に為すことができると、という大きな希望に満たされています」などと書いた時の喜びも、理解するに難くない。 インドでのアンジロウについては、もう一つ注目に値することがある。それは、自分のことや日本について語る時、非常に控え目な表現を用いていることである。外国人の質問に答え、彼は特に日本人の宗教について多く語っているが、それを、ジョージ・アルバレスが日本について書いた報告や、ザビエルが鹿児島で認めた書簡などと比べると、知らないことは知らないと答え、自分個人の印象や判断などをまじえていないことである。「もし私があなたと一緒に日本に行ったら、日本人はキリスト信者になるでしょうか」というザビエルの質問に対しても、アンジロウは、ザビエルの書くところによると、「日本人は、直ぐには信者にならないでしょう。彼らはまず私に沢山の質問をなすでしょう。そして私が何と答えるか、何を知っているか、また何よりも、私の話と生活とが一致しているかを見るでしょう。もし私が彼らの質問に満足な答えを与え、しかも、私の生活に非難にあたえするものがない、という二つのことに及第するならば、私を試したのち、半年ぐらいで、国王も、武士も、その他の思慮ある人々も、キリスト信者になるでしょう。彼らは理性に導かれない国民ではないからです」と答えたという。「すぐにはーーならないでしょう」、「もしーー及第するならば」、「理性に導かれない国民ではない」などという表現には、外国に出て、それまでの社会的束縛から解放されている日本人にしては、珍しい程の慎重さが感じられる。勿論、これはザビエルによって書きとどめられた間接の話でしかないが、アンジロウ自身によって書かれた二つの手紙を調べても、読者に信頼の念を起こさせずにはおかない、この控え目な態度に変わりがない。例えば、マラッカでザビエルに会った時、彼は既に前述の返答をなすことができた程ポルトガル語を知っており、ザビエルも「彼はかなりよくポルトガル語を知っていて、私の話すことを全て理解し、私も、彼の話すことを理解しました」と書いているが、アンジロウはそれについて、「私は、既に少しポルトガル語が分かり、またいくらか(数語)話すこともできましたが」と、謙虚に表現している。従って、インドでのアンジロウの態度には、鹿児島の住民から嫌われていた当時の海商たちには見られない、上品な謙虚さがはっきりと表れていたように思われる。アンジロウに教理を教えて、その洗礼準備を助けたイタリア人神父ランチロットは、彼を「高貴な人」と呼び、フロイスも、「高貴な日本人」と書いているが、それはアンジロウが外国人たちに与えた印象であって、彼を貴族や高級武士と考える必要はない。ただ、彼の手紙に表明されている心構えや宗教心などから察すると、彼が武士として恥ずかしくないような気品を備えていたことは、否定ではないであろう。 この有能な武士アンジロウに伴われて来日したザビエルに、間もなく鹿児島で住居を提供する人がいた。宣教師三人の他に、シナ人とインド人の同伴者がおり、更に、11月に船がマラッカに向けて出帆するまでは、ドミンゴ・ディアスやシナ人の船乗りたちも一緒にいたであろうから、アンジロウの家にはそれらの外国人全部を収容し切れなかったであろう。史料によると、彼らに家を提供した人は「身分ある老女」となっている。ザビエルが後で、武家に属すると思われるこの老女にマリアの霊名を与えて洗礼を施したことや、彼女がザビエルたちの「宿舎の主人」と記されていることから察すると、老女はアンジロウの願いでその家を提供しただけではなく、同時に宣教師たちの生活の世話も引き受けてくれたのであろう。鹿児島の住民たちは、皆物珍しそうにザビエルたちを見ようと努めた。そしてアンジロウがキリスト信者になったことについては、誰も悪く思わないばかりか、むしろ高く評価していた。彼の家族や知人たちも、彼がインドに行ってまだ誰も見たことのないことを見聞きして来たのを喜んだ。鹿児島の町奉行や城代も、ザビエルたちを礼儀と親切を尽くして歓待した。その時の通訳を務めたのは、もちろんアンジロウであろう。ザビエルはここで、アンジロウを「私たちの本当の友」と呼んでいる。22歳で来日したフェルナンデス修士は、既に日本へ来る途中の船の中で、日本語の勉強を始めており、その上達も早かったが、43歳のザビエルと約38歳のトルレス神父とは、ヨーロッパ語とは文法も書き方も全く違う新しい言葉の習得に苦労していた。辞書も文法書もまだない時代であってみれば、なおさらのことである。ザビエルは鹿児島で次のように書いている。「私たちは今、私たちについていろいろと話し合う日本人の間にあって言葉が分からないため、ちょうど彫像のように黙って立っています。私たちは、子供のようになって言葉を学ばなければなりません。」幸いに、ザビエルたちの宿舎に訪れて来る人も多く、片言ながら既に日本語を少し話すフェルナンデスが、ザビエルと並んで一日中訪問客の質問に応答しなければならない日もあって、ザビエルたちは必要に迫られ、少しずつ日本語の初歩を習得し始めた。フロイスはその時のことを、「昼間は大部分近所の人たちとの交際に忙しく、夜は遅くまで熱心に、祈りと日本語の初歩の学習に努めました」と書いている。 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