筆者が歩んで来た道から学んだこと(5)

2018年3月       青  山    玄


第二ヴァチカン公会議の成果について

  前回の拙稿の後半にある「第二ヴァチカン公会議の開催の裏面」をお読みになった読者の中には、あの公会議はどんな実りを結び、現代世界のためにどのような貢献を為したのかなどについて、多少の疑問を抱く人がおられるかも知れない。筆者がそこで、グレゴリアナ大学の教会史学部長が「公会議の時には聖霊だけではなく悪霊も強く働くので、今度の公会議の動きについても、よく注意して観察しているように」と、講義の中で話したことを記しているからである。二千年に及ぶカトリック教会の歴史には聖霊の照らしと導きを祈り求めて開催された無数の会議や公会議の中でも、歴史家たちの研究によると、聖霊だけではなく各地の人間的思惑や悪霊達も働いて、屡々その成果を多少歪めたことなどを考慮しての警告であったかと思うが、筆者は第二ヴァチカン公会議の成果についても、時々その教授の言葉を思い出している。教授がその言葉を話した少し前には、イエズス会の著名な説教師ロンバルディ神父の著書『公会議、愛における改革のために』が、ヴァチカンの保守的枢機卿たちから厳しく批判され、神父は直ちに教皇庁に出頭して自著を撤回し、公会議後までローマ郊外の地に引退していたことは前回の拙稿にも述べたが、この事件の発生から「改革」という言葉は公会議で忌避され、公会議公文書のどこにも使用されていない。神の国は神が主導権を持つ国なのに、「改革」という言葉は人間が主導権を持つかのような印象を与えかねない、と思われたのかも知れない。
  ローマの南20数キロの避暑地ネミの山地に、世界各地の神言会宣教師の研修所として1962年夏に建設された個室の多い大きな修道院は、公会議開催中は避暑地を必要としていた公会議の諸委員会に度々借用されたが、既にグレゴリアナ大学院での講義受講を終えて、博士論文の作成を始めていた筆者は、公会議に出席する神言会司教達の滞在のためローマでの自室を提供して、そのネミ修道院に滞在することが多かった。そしてそこでは、公会議の草案作成の為に働く世界各国の典礼学者たちの話を聞くことも少なくなかったが、彼らはカトリック典礼に、古代教会の典礼を部分的に導入することに関心を示していた。公会議の文書に「改革」ではなく「刷新」やその他の用語が多く使用されたのは、その人たちのお蔭だと思う。公会議によって新たにされたカトリック典礼では、例えば司祭が聖体を授ける時に、聖体を信者の前に掲げて「キリストの聖体」と言い、信者が「アーメン」と答えて聖体を手に受けて拝領するようになっているが、この仕方は、聖アウグスティヌスの未信者向けの説教(270番?の説教メモ)に基づくと思う。それによると、当時は司祭が「キリストの体」と言って聖体を示し、聖体拝領する信徒はそれが主キリストの御体であることを信じ、その主と共に生きることの意思表示として「アーメン」と答えてお受けしていたようである。典礼学者たちは、他にもギリシャ・オリエント諸地方のキリスト教典礼などに関心を示していたようだが、筆者はその詳細を知らない。ネミ修道院の台所などでは、ヴェネツィアに本部修道院を持つイタリア人修道女たちが働いていた。それで、公会議開催直前の夏に近くのカステルガンドルフ避暑地に滞在しておられた教皇ヨハネ23世が、以前にヴェネツィア大司教であった時のよしみもあってその修道女たちを訪問し、この機会にネミ修道院の聖堂で集まっていた神言会員たちに、間もなく開かれる公会議についても話して下さった。その2, 3年後の夏にも、教皇パウロ6世がネミ修道院で働いていた典礼学者たちを訪問なさった折に、同じ聖堂で神言会員たちに公会議について話して下さった。それらの話の内容は覚えていないが、その公会議中にネミ修道院で生活していた神言会員たちの会話から、筆者は第二ヴァチカン公会議について漠然と次のような予想を抱いていた。
  これまでの人類は、それぞれの国や宗教の伝統的流れに分かれて、いわば無数の大河・小河を産み出し、社会の大きな過渡期にそれらの流れが変わると、それに対処して新しい道や土手を築いたりして来たが、第二次世界大戦後の人類は、もうそのような大河・小河の時代から抜け出て、大きな海流の中に生き始めている。この海流は世界中を一つに結んでいて、各人はどこの国の人とも自由に交際し、一緒に生活するようになって来ており、その海流の底にはこれまでには無かった新しい大きな危険が潜んでかも知れない。人類社会が極度に多様化しつつあるこの全地球的時代には、カトリック教会の伝統的流れを改革したり修復したりするだけではなく、他宗教の人々とも協力して新しい全人類的規模で主キリストの導きに従う道を見出すべきではなかろうか。主はヨハネ10章の「善い羊飼い」の譬え話の中で、「私には、まだこの囲いに入っていない羊たちもいる。私はそれらも導かなければならない。彼らも私の声を聞き分ける。こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなる。云々」と話しておられるが、今度の公会議は主のこのお言葉に従って、キリスト教信仰を新しい、もっと大きく開かれた自由な実践的形に発展させるのではなかろうか。でもその為には、神の新しい声を聴き分け、神の導きに従う神主導のアブラハム的信仰生活が何よりも大切であろう。教皇庁が人間主導の理知的改革精神を退け、「改革」という言葉を忌避しているのはそのためかも知れない。
筆者はこのような考えから、この公会議を機に神主導のアブラハム的信仰生活を営む人が多くなると期待していたが、神も世界大戦直後からこの公会議にかけての頃に、また公会議後にも様々な人の心に働きかけて、全人類に開かれた新しい信仰生活を営ませておられるように思う。後で知ったのだが、例えば福者マザー・テレサの生き方は、正に公会議を推進した教皇パウロ6世の望みを体現したものであると思う。教皇は公会議中の1964年から、日本の諸宗教の代表者たちをローマに招いて優遇し、人類の宗教心育成と発展のため共に助け合って生きようと呼びかけておられた。一番最初にヴァチカンを訪れたのは立正佼成会の庭野日敬さんであったが、その後も立川の真如苑創立者夫婦や様々の宗派の代表者たちがヴァチカンを訪れ、伊勢神宮の館長さんや柴山禅師を団長とする禅宗諸派の代表者たちも訪れている。人類はこうして祖国や宗派の枠を超えて協力し合い、全人類が救い主キリストの下に統合される日が遠からず来るのかも知れない。しかし、2千年前のキリスト時代にユダヤ教の代表者たちが、伝統的な生き方にこだわって神から派遣された洗礼者ヨハネやメシアの声に従わず、結局エルサレム滅亡の天罰を受けたように、現代人も神からの新しい声に聴き従うアブラハム的信仰生活に努めなければ、もっと恐ろしい天罰を受けるのではなかろうか。創世記17章によると、神はアブラムを「多くの国民の父」とし、その名を「アブラハム」と名乗らせて、これはアブラハムと結ぶ「私の契約である」と話しておられるが、神がモーセを通してお与えになった律法はメシアの来臨によって新しくされても、多くの国民の父アブラハムと結ばれたこの契約は変更されることなく今も続いている。現代は全人類が神主導のアブラハム的信仰生活に励むことを、神はお望みなのではなかろうか。公会議に集まった公会議教父たちは、カトリックの伝統的教えや教会法を現代風に整理したり廃棄したりしているようだが、それは伝統の違う無数の異教徒や無神論者達との話し合いをスムーズに進めるためなのではなかろうか。しかし教皇パウロ6世がカトリック側のその伝統整理が中途半端なのに、公会議を第4会期で急いで閉会にしたのは、改革的な人間理性によって伝統を整理するのではなく、神からの照らしと導きを祈り求めながら、人類全体の伝統を諸宗教の人たちとも協力しながら新たに見直し、学び直すことを優先したからなのではなかろうか。公会議直後の筆者の心には、時折そのような考えも去来していた。
  筆者は聖フランシスコ・ザビエルの日本布教について作成したドイツ語の博士論文を64年に大学に提出していたが、論文指導のイエズス会員シュッテ教授が、止むを得ない事情で一年間余りスペインで働かなければならなくなり、筆者はその間帰国して日本で働くべきかを神言会総幹部に尋ねたら、既に1962年春からイタリア語の聴罪司祭としてローマの小教区でもネミでも働いている筆者は、博士号取得まで帰国せずにイタリアで働くようにという命令を受けた。それでネミではローマの御受難会司祭団の導きで、毎週老人ホームを訪問して聴罪したり、時にはイタリア軍隊での聴罪をしたり、ローマの精神病院を訪問したりしていた。66年6月には、教皇の特別要請で原罪を現代世界の人たちにどのように説明すべきかについて、ネミ修道院で世界の一流神学者たち15名の一週間の会議が開催された。カール・ラーナーやコンガールたちも滞在したが、イタリア語を話せない年配の神学者たちもいたので、イタリア人修道女たちの依頼で、イタリア語を解しドイツで叙階されたブラジル人のヴァッレ神父と筆者の二人が、その神学者たちと同じ食堂で小さなテーブルで食事し、時々見回って食事の世話をすることになった。日曜日には会議がなかったので、筆者が願ってそこに集まっていたドイツ語で為された第一回ネミ研修生たちのため、カール・ラーナーが前年に発表したAnonymous Christen (無名のキリスト者)に関する論文について約一時間話してもらった。筆者はこの論文を読んでいなかったが、欧米では話題になっている聞いたので依頼したのであった。しかしラーナーは、第二ヴァチカン公会議の精神で書いたこの論文に対する、欧米諸方面のカトリック知識人たちからの批判が厳しいことだけを何度も繰り返して黙することが多く、第二ヴァチカン公会議は期待した程の実を結べないのではないか、という多少暗い印象を与えていた。今改めてこれらの体験を振り返ってみると、第二ヴァチカン公会議には悪霊たちも数多く働いたようで、その時の教皇たちが密かに意図していた全人類が主キリストの下に一つの群れになる道を開こうとした目的は、達成できなかったと言わざるを得ない。


帰国して間もない頃の筆者の体験

  1966年8月下旬に神学博士号を得て帰国した筆者は、間もなく南山大学教員に採用され、恩師で神学博士のラング神父の一部の講義時間を貰って、神学生たちにヨーロッパでの体験などを語ったりしていた。そして翌年春に神言神学院の立願神学生たちの指導司祭にも任命されたが、当時は神学生の数も多く、公会議によって開かれた新しい明るい夢もあって活気に溢れていた。しかし我が国の諸大学では、69年にピークを迎える左派系学生たちの政治紛争が広まっていて、神言神学院のすぐ近くにある名古屋大学でも、69年には大きな拡声器で叫ぶ名古屋弁の怒声が流される日が少なくなかった。幸い南山大学では左派系学生数は十数人と僅少で、創設された直後の経済学部一年生のゼミ・クラス一つを、経済学部の教授数の不足のため一年間だけ担当させられた筆者は、その学生たちとも親しくしていた。沼沢学長が70年の文学部教授会の最中に、その左派系学生たちが、主として経済学部の一年生百人余りを連れて教授会場に押し入り、学長を捉えて当時の日本の政策などについて質問したりした時、大学から依頼された名古屋の警察機動隊が来て学長が解放されるまでの2時間ほどの間、その占拠学生たちの間を自由に通り抜けて、学長に夕食を届けたり伝言を外部に伝えたりしたのは、筆者一人であった。7年間もヨーロッパに留学し、帰国して間もない頃の筆者は、経済学部の学生たちからも左派系学生たちからも愛されており、大学の通路で会えば自由に挨拶も交わしていた。
  しかし神言神学院では、ミサ聖祭がまだラテン語で唱えられたり、文語訳の日本語で唱えられたりしていた67年夏頃までは良かったが、その後ミサ聖祭が口語訳で唱えられ始めて、首都圏に拠点を置く典礼委員会から「典礼改革」という言葉がしきりに叫ばれるようになると、ネミ修道院で学んで来た公会議精神とは違う日本カトリック界の新しい改革的流れの中で、筆者の心は少し複雑に成り始めたようである。夜に熟睡できなかったりするので、68年1月に南山大学教授の精神医荻野恒一氏に診てもらったら、一種の自律神経失調で、学生紛争が盛んな諸大学の教授たちの間でも多発しており、精神医たちの間で話題になっているのだそうである。学問的研究や大学での講義は続けられるが、人の上に立つ役職などから解放されれば治るので、暫く神学院から離れて静養し、今後は神言会内の役職につかないようにすると良い、と勧められた。それで3月末まで2ヵ月間余り、筆者が神学生の時から親しくしていた高齢のドイツ人ナーベルフェルト神父が担当していた、市内の小さな膳棚教会に移住して静養し、そこから大学に通って働いていた。体調は間もなく回復したので神言神学院に戻ったが、その時からは同僚にも管区長にも願って、神言会内の役職には一切就かないことにしてもらった。そして健康管理にも留意して毎日少しの運動を続けたら、その後は自律神経失調に悩まなくなった。
  筆者はイエズス会の大学で学位を取得したので、東京でキリシタン文化研究会を主宰していたチースリク神父から、名古屋にもその研究会の部会を設立するようにと度々勧められ、名古屋とその周辺の大学に勤務している研究者たちからも願われたので、1970年になってから「名古屋キリシタン文化研究会」を設立し、10人余りのキリシタン文化研究者たちの指導やまとめ役を担当したが、これは人の下に立って奉仕するような仕事なので、筆者の自律神経に重い負担をかけることなく、2000年にその研究会が解散するまで続けることができた。神言神学院でも、上長や同僚から依頼されたことを下からの奉仕の精神で為していたら、自分の弱い間脳の自律神経に無理をかけることなく、高齢になるまで働き続けることができたのだと考え、感謝している。修道会内の役職に就かず、小教区も担当しない筆者の許には、南山の学生たちや一般の信徒からも、受洗したいとの依頼が多く、筆者は20世紀の終り頃までに百人余の人に洗礼を授けたが、その半数以上は臨終洗礼であった。


幼児の心の教育

  戦時中の小学・中学時代に奥底の心を目覚めさせる厳しい精神教育を受けて育った筆者は、70年代80年代の我が国の若い父母たちの間に広まっていた、幼児の心を甘やかすような育て方には大きな不満を抱いたいた。察するに、日本経済の高度発展期の教育者たちの間では、幼児の持って生まれた天然の能力をそのまま伸ばしてあげることが、高く評価されていたのではなかろうか。それがマスコミを介して幼児を持つ若い夫婦の間で広まったようで、筆者が70年代80年代に訪れた都市圏の家庭では、特に幼児を持つ母親たちがそれが現代の常識だと主張していた。しかし、子供の心の教育で悩みを打ち明ける夫婦も少なくなかった。それで筆者がその人たちの質問に答えて、若い時の自分の体験やドイツ人たちから学んで来た教育法に基づき、厳しく躾けて2歳から4歳ほどの幼児を泣かせたり、親たちに叱り方を教えたりした幼児は、十数人にもなった。後年名古屋大学の大学院で外来講師として教えていた時に書いて、学生たちに無料で差し上げた私家版の拙著『私の体験して来た現代の流れと神の摂理』(2001年9月発行)の192―198頁に、その頃の筆者の思い出を語った話もあるので、かなり長くなって恐縮だが、何かのご参考までに、ごく一部の表現を少しだけ訂正してそのままお伝えしよう。なお、この拙著は発行部数が少なくて全て学生たちに贈与し、最後の一冊を後で神言神学院図書館に入れたので、余分が全く無いことをお断りして置きたい。

  そこでここではまず、人間精神の基本である心の教育について考えてみたい。小学校六年の時から長兄の子どもの子守りをする機会の多かった私は、そのころから幼児を愛撫しながらも、時には厳しく叱って泣かせることに慣れていたが、日本が経済的に豊かになった七〇年代と八〇年代には、親族・知人の家を訪問して我がままに育ってしまった子どもに、どう対処したらよいかに困惑している若夫婦を見ると、黙っていないで、夫婦の了解を得てその子を叱って泣かせ、後で幼児の心の教育について教えたことが何回かあった。私がこのようにして泣かせた幼児の数は、十数人になるであろう。二〇〇〇年六月に宮古島のカトリック教会を訪問した時、突然折角来訪したのだからそこの幼稚園の保母さんたちに、何か半時間位の話をしてくれるようにと頼まれ、準備する時間もなかったので、私が叱って泣かせた子供たちの例を二つだけ、何かの参考までにと言って話した。ここでもその思い出話から始めよう。
  七八年のある日、東京から名古屋の娘の家を訪れた知人から、可愛い孫娘も紹介したい
ので、よろしければ娘の家に来訪して欲しいと電話による招待を受け、約束の午後二時半ごろに訪問したら孫娘もその母もおらず、知人ともう一人の来訪者と暫くゆっくりと話し合っていた。二歳の孫娘は賢いが、女王様のように自分中心でうるさいので、母がデパートで存分に遊ばせて疲れさせてから連れて来るとのことであった。やがて三時過ぎに母と一緒に帰宅した孫娘は、二人の見慣れない来客を静かに見比べて黙っていたが、買って来た苺を出そうとした母が冷蔵庫に牛乳が残っていないのに気づき、近くの店に急いで牛乳を買いに家を出た。暫くすると傍に母がいないことに気づいた孫娘が、立ち上がって「ママがいない。ママがいない」と叫び出し、説明しても聞き入れずに大声で泣き出した。そこで私が祖母である知人の了解を得て、その子を電気を消した暗いトイレの中に入れ、「静かにしないと、出してやらない」と言い渡した。把手を右に大きくひねって押せば開くのだが、そのことを知らない幼児は、押しても開かない戸に閉じ込められて、暫くは大声で泣き喚いた。広間の戸も閉めてまた三人で話し合っていたら、祖母の知人が「おや」と言って耳を澄ました。何だろうと思ったら、孫娘が「お兄ちゃん」と優しく繰り返して私を呼んでいるのであった。「おとなしくして泣かないなら出してあげるけど、泣いたらまた入れるよ」と言ったら、涙のいっぱい溜まった目で、頭を大きく下げたので、トイレから出してあげた。すると広間では私のそばに正座し、両手を揃えて前につき、かしこまった姿勢をとり続けた。祖母が優しく「Yちゃん、どうしたの」と尋ねたら、私と祖母の眼を見比べてから、「だっこ」と言った。余程さびしかったのであろう。そこで私がすぐ、「だっこしてはいかん。いい子になりなさい」と言ったら、この言葉に従って、母が帰って来てもいい子であり続けた。皆で苺を食べ終わった後に、自分の前にあるお絞りで静かにテーブルを拭き始めたので、頭をなでて褒めてあげたら、テーブル全体を拭いて回った。もう一人の来客が先に帰途についたので、皆で玄関先まで出て見送ったが、幼児は玄関で靴を脱いで板場に上がると、振り向いてその靴の向きを外に向け、綺麗にそろえた。正座もこんなことも、「今までやったことがないのに、いつどこで覚えたんだろう」と、母も祖母も驚いていた。私はこの後、幼児に対する褒め方や叱り方などについて母に教えて帰ったが、Yちゃんは三歳で近くの聖霊幼稚園に入り、保母さんたちも感心する程の模範生に育ったそうである。そして他の園児が何かいけない事をすると、「そんなことをすると、青山神父さんに叱られるよ」という、口癖を持っていたそうである。
  人間には理知的な通常の認識能力の他に、もう一つ霊魂の知性という能力もあり、この霊魂は胎児の時から働いており、頭脳が失われた死後にも生きている。新しい世界に生まれた途端に赤子が泣き出すのは、その霊魂が不安を感じたからであろう。産湯に入れられても、暫くは両方の手をしっかりと握って震えているのは、不安だからであろう。まだ目も見えず頭の認識能力も働いていないが、心は既に働いており、外界からの心の愛を感知し識別する能力はあるのだ。優しく話しかけたり背中をさすったりすることを繰り返していると、次第に安心し、固く握っていた両手も開いて、気持ち良さそうな顔になるものである。察するに、年老いて頭脳の働きが弱り、記憶も殆ど失われて言葉を話せなくなっても、このような霊魂の感知能力や人間としてプライドのようなものは、いつまでも残るのではなかろうか。幼児の持つそのような感知能力を介して日々愛を注いでいると、やがて幼児の眼が信頼と喜びで美しく澄んで来るものである。そして次第に自分の好き嫌いを態度で表示したり、人見知りをしたりし始め、一歳半ごろからは少し素直さを欠く我が儘な態度も見せ始めるが、それは、霊魂に宿る原罪の種子が働き始めた徴であると思われる。しかし、霊魂の中には善の種子も蒔かれているので慌てることはない。二歳から三歳にかけての頃に、自我中心の雑草が善の芽を覆い隠す程に成長し始めるので、この段階で断固とした態度で雑草の一部を除去してあげると、覆い隠されていた善の芽がすぐに現れて、元気を出す。しかし、雑草も負けてはいないで次々と新たに伸びて来る。有能な子供ほど、雑草の成長力は逞しいようである。それでこの時期には、一回だけではなく、何回も小刻みにその雑草と戦う必要がある。しかし、雑草を全て根絶しようとすると、それと戦う善の芽を弱めてしまうので、気を付けたい。雑草とのある程度の戦いは、善が強くなるために必要なのだから。ある程度の雑草は寛大に容認して、むしろ善の行為をすぐに褒めることに努めたい。有能な子供はこの時期にしきりに質問を発し、遊びのようにして自主的に知識を学び取ろうとし始めるので、それになるべく応えて心の交わりや信頼関係の綱を太くした方がよい。それで私は、五つ教えて三つ褒め、二つ叱るのを一応の目安にするよう、若い親たちに話して来た。また単に口先の言葉で褒めるのではなく、頭や背中を撫でたりして何よりも眼と態度で褒めるように。また叱る時には、まだ弱い神経の多く集まっている頭や背中を叩くのは禁物で、右手か左手をつかんで、叱る言葉と同時に手の甲を叩くように。もしもっと印象深く叱責したいなら、西洋人のように抱き上げてお尻を叩いてもよく、手足をタオルで縛ってもよい、などと教えて来た。
  私が一番最後に子供を泣かせたのは、九四年八月始めのことであった。私から受洗した知人が山梨県上野原に家を新築したのでその家を祝別して欲しいと願うから、翌日の帰途一緒に八王子郊外の高尾山に登るという条件で承諾し、祝別したその家に一泊したら、そこの四歳の娘が、親も扱いあぐねる程の我が儘っ子に育っていた。翌日はその子を午後二時に八王子の歯医者に連れて行くことになっていたので、朝食後に車で出発し、海抜六〇〇メートル程の高尾山山頂で昼食をする予定であったが、母は乳飲み子と共に家に留まらなければならないので、父娘と私の三人で行くことになり、前夜のその娘の態度から、父親は高尾山山頂にまで登ることを半分諦めていたようであった。私はこれまでに二歳児を叱って泣かせ、その甘えを直してあげたことは何回もあるが、四歳児というのは初めてなので自信はない。しかし、このままにして別れたのでは、その子のためにも親のためにも良くないと思い、翌朝早く私の泊めて頂いた
部屋の隅に積んであったタオル六本を二本ずつ繋いで、三本の紐を用意して置いた。朝食後に母親が席を外したら、その子がうるさくグチり始めたので、すぐ父親の了解をとり、その子を私の泊まった部屋に連れて行って一本の紐で両足を縛り、他の二本の紐で両腕を縛って押し入れを開け、泣きわめくその子を「おとなしくしないなら」と言って押し入れの中に入れようとした。この思いがけない毅然とした劇的行為にその子の心が目覚めたようで、「おとなしくするの」と尋ねたら、泣きながら大きくうなづいた。「そんならお父さんに謝りなさい」と言って紐を解いてあげたら、食堂の椅子に腰かけていた父親の方に行って床に正座し、両手を揃えて前についた。驚いた父親は、自分も娘の前に床に座ったが、後は私が言葉で補って、おとなしく従うことを約束させた。三人はその後で出発したが、その子は前晩とは全く違う素直によく従う子に変っていた。高尾山は、ロープウェーで中腹まで登った後、頂上まで行くには急な階段を数百段登る道と、山のへりを巡りながら登るゆるやかな坂道の二通りの道があるが、食事をする時間や歯医者との約束時間などを考慮して、急な階段を登ることにした。四歳児には少し無理なコースなので、父親は途中でおんぶすることも覚悟したが、私がMちゃんと手をつなぎ、踊り場ごとにちょっと休み、「今度はあそこまで登れるかな。大丈夫 ?」などと話しかけ、その承諾を取り付けたり励ましたりしながら、最後まで全部歩いて登りきることができた。これは一つの快挙なので大いに褒めたら、頂上での食事の時も行儀よく振舞っていた。思ったよりも早く頂上に到着したので、帰りは緩やかな坂道を下ることにしたが、三百メートル程下った所に、丸太を縦に半分に切った細長い腰かけの休み所があったので、そこに腰を下ろして飴をなめ、景色を眺めていた。すると三〇メートル程離れた斜め下の岩場を曲がって、父親に連れられた四歳位の男の子が姿を現わし、坂道がなおも長く続いているのを見て泣き出し、父親が何となだめても励ましても、しゃがんで動かなくなってしまった。おそらく父親は、「もうすぐ」「もう少し」と話しかけながら、ここまで連れて来たのであろうが、なおも長く続く坂道を見て、我慢が限界に達したのであろう。私がMちゃんに、飴を一粒その子に差し上げるよう言うと、Mちゃんが坂道を降りて行って、その子に黙って飴を差し出した。すると泣き止み、父親が感謝してその飴を受け取り、その子にほお張らせた。そして休んでいた私たちに一言感謝しながら、頂上へと登って行ったが、この時のMちゃんの心は、同年輩の男の子に為してあげた親切で、嬉しい成功の悦びを味わっていたことであろう。ドイツ語の諺に「鉄は熱いうちに叩け」とあるが、このように自分から進んで従う心、仕えようとする人間の心は、できれば三歳までの間に厳しく躾けると、「三つ子の魂百までも」の諺の通り、その子は後年自分の怠け心や我が儘の毒素にそれ程苦しまずに、何でも意欲的に学んだりやり遂げたりして、親の方でも子供と共にいるのが一つの大きな楽しみになるのに、近年の我が国ではこの最も大切な心の教育を怠っている親が非常に多いようである。そのしわ寄せは、保育園・幼稚園だけではなく、その後の学校や社会にまで及び、このまま放置すれば、いずれは国家の基礎を内面から崩壊させ兼ねないであろう。次の譬えは適当でないかも知れないと恐れるが、賢くて野性の強いシェパード犬などは、若いうちに主人に従う習性、仕える習性を厳しく仕込まれると、各種の難しい技術も早く学び取り、盲導犬としても警察犬としても多くの人々に喜ばれる大きな働きをなすばかりでなく、犬自身もその働きに喜びを感じているのではなかろうか。人間の心も同様だと思うが、多くの親たちは一番基本的な権威に従う心、仕える心を厳しく仕込まずに、魂の奥から生え出る雑草をそのままにして外的知識や技術だけを教え込もうとするから、親をも他人をも社会をも自分中心に巧みに利用するだけで、心の仕合わせというものを知らない、内的に孤独な人間にしてしまうのではなかろうか。戦後「幸せ」と短く表記されることが多くなった言葉は、昔は「仕合せ」と表記され、良いめぐり合わせや幸運を指していたが、私は、その幸運は「仕え合う」心のあるところに、運命の神から恵まれるものだと思っている。いかがなものであろうか。


あの世の霊たちの働き

  68年1月に自律神経失調で暫く神言神学院を離れた頃から、筆者は守護の天使やあの世の死者たちの霊に祈るようになり、今でも射祷のようにして時々祈っている。するとその霊たちが、筆者の生活や働きを小さいながら実際に助け導いてくれるようである。前述したように、小教区の教会を担当せずにキリスト教史の分野で働いているだけであった筆者に、筆者からの受洗希望の依頼が次々と来たのも、あの世の霊たちの働きなのではなかろうか。
  69年に高齢の松岡司教の後を継いで相馬信夫司教が名古屋教区長になると、翌年1月に聖霊奉持布教修道女会 (ここではこの後、約して聖霊会とする)日本管区からの依頼で、相馬司教を委員会長とする奇跡調査委員会が結成されることになった。筆者がローマに留学していた公会議直前頃の出来事であったかと思うが、金沢の聖霊病院で何回腸の手術を受けても治らなかったテル道郁子という、当時30歳代の信者が、神言会創立者に協力して聖霊会を創立した、二人の修道女の一人マリア・ヘレナ・シュトレンヴェルクの小さなお骨の一片をお腹に抱いて、快癒のためその取次ぎを祈り求め、聖霊会員たちと一緒に9日間の祈りを捧げていたら、ある日その病院付属の個人宅で、司祭が持参した御聖体を拝領し、司祭がその家を去った直後に完全に快癒したという奇跡についての調査委員会であった (苗字のテルは、パソコンにない珍しい漢字なので、ここでは片仮名で書く)。委員会は、神言会員の二人のドイツ人ラング神父、アントニー神父に筆者、それに当時名古屋の聖霊病院の外科医師であった中浜博博士と、ローマ教皇庁に提出する奇跡調査報告書をイタリア語で作成する時に翻訳を助けてもらう、当時名古屋の日比野教会主任でカルメル会員のイタリア人ボナルド神父の五人を委員としていた。しかし、史料集めとイタリア語翻訳のため一番働いたのは、ローマから帰国して5年程の一番年若い筆者であった。筆者は50歳代、60歳代の二人のドイツ人神父と共に、テル道郁子さんを子供の時から長年診察して来た東京の医師と金沢聖霊病院で六回も開腹手術したという外科医を訪問し、過去の病状についての話を聞いただけではなく、後で詳しい報告書も頂戴した。特に高齢の東京の医師は、手書きで詳細な報告書を書き、金沢のレントゲン写真も添えた報告書を送ってくれた。どちらの医師も、この珍しい病気についての病名はまだないと話していた。筆者はこれらの報告書の要点をまとめて、ボナルド神父の協力を得てイタリア語に翻訳したが、辞書には載っていない医学用語も幾つかあったので、数年間スペインに留学していたという中浜医師の協力を得て、イタリア語の報告書を書き上げ、東京の医師からもらった日本語の報告書と金沢の医師から貰った資料、並びに名古屋の名大病院で診察して作成してもらった、奇跡的に快癒してその後十年余も元気に生活している郁子さんの健康診断書を添えてローマに送った。数年後にローマの神言会修道院長から聞いた話では、この報告書はヴァチカンでも話題になり、これまでの列福・列聖調査で奇跡的治癒の報告書は数多くあり、多くの人が奇跡として証言している治癒は多いが、医学的にこれ程明確に奇跡を立証している報告書はなかったそうである。この報告書はイタリアの二つの医科大学にも回されたそうで、郁子さんの耐え忍んだ病気の病名も新しくつけられ、それは国際的に使われるに至ったそうだが、日本でも一、二度耳にしたその病名を、高齢の筆者はもう記憶していない。聖霊会の創立に貢献した二人の修道女の列福運動は一緒に始められたのに、Sr. マリア・ヘレナだけが先に福者にされたのは、筆者のこの報告書がローマで歓迎され、話題になったからではなかろうか。なお、前述した中浜博医師は、四国の足摺半島の中浜村に生まれ、出漁中に遭難してアメリカの捕鯨船に救助され、10年間アメリカで生活した後に、幕末と明治初期の日本で通訳者・英語教師として活躍したジョン万次郎 (後の中浜万次郎)の子孫で、退職した後にも名古屋で晩年を過ごしていた。
  筆者は、生まれ故郷の新潟県新発田市で、夜中に姉に現れて悩ます死者の霊を、祈りと聖水によって現れなくしたのを始めとして、名古屋でも関西でも東京でも、幽霊に悩まされている人々から依頼されて、そこに幽霊が現れないようにしてあげたが、90年の4月初旬に相馬司教から電話があり、岐阜県可児市の塩村で幽霊が沢山出現して困っている会社があるので、そこの支店長にそちらに行ってもらうので、幽霊が出ないように祈ってくれという依頼があった。司教はその時、「悪魔払いの祈りをするのですか」とお尋ねになったので、「いいえ。そこに中世以来の古いラテン語の祈りで作った聖水を撒いて、あの世の霊たちにお祈りするだけです」と答えた。その塩村の川端には江戸時代に多くの農民キリシタンが処刑された広い地所があって、20世紀になってもそこには時々幽霊が現れるというので、塩村の人たちは夜に暗くなったらその傍の道は通らないことにしていたと聞く。筆者が大神学生であった時、塩村からの依頼もあって、その村の神社の敷地でキリシタン殉教者たちの慰霊のため、松岡教区長を司式としたかなり盛大な死者ミサを捧げたことがあった。
  神学生時代のそんな出来事を思い出していたら、すぐその翌日4月8日の日曜日朝に、青葉工業とかいう大きな土管敷設業者の支店長が車で筆者を迎えに来た。この会社は名古屋で大小無数の土管を敷設する仕事を担当しているが、名古屋市の発展に伴い新しい大きな資材置き場が必要となり、塩村のその処刑跡地を入手して既に資材置き場を建設したが、その出入口の傍に独身社員寮を建設して4月から若手社員たちに住んでもらったら、夜に幽霊が大勢現れて、若者たちはこんな会社は辞めたいなどと言い出したそうである。それで村人たちに尋ねたら、そこはキリシタンの処刑跡地で昔から幽霊のよく現れる土地とされているとの由。それで、カトリック司教に依頼して、幽霊が出現しないように祈ってもらうことにしたのだそうである。支店長は自家用車の中でそんな話をしてから、その祈りをする前に、若手社員たちが会社を辞めないよう何か話してもらいたいと願った。それでその社員寮に集まっていた若者たちの所に着くとすぐ、筆者は皆がどのような幽霊を見たのかと尋ねてみた。すると頭から胸まで、あるいはお腹までなどの、昔の農民姿の幽霊が大勢現れたと話していた。それで筆者が英国やドイツの幽霊の話をして、「あの世にいる死者の霊魂は、この世にいる人たちに祈ってもらいたいから、幽霊になって自分の存在を知らせるのであって、危害を加えるために現れるのではありません。恐れずに、南無阿弥陀仏でも何でもよいからちょっと祈りの言葉を繰り返して、その冥福を祈ってあげて下さい。そうすれば、あの世からあなた達を守ってくれます。英国では、恐れずに幽霊と共存している人の家には、泥棒も凶悪な悪人も近づかないと聞きます」などと話し、電気をつければ幽霊はすぐ見えなくなることなどを教えた。そして聖水を撒いて、その社員寮だけではなく、そこの資材置き場の敷地全体を祝別したが、一週間後に訪問してみたら、社員は誰一人として辞めてなく、祝別した日にはいなかった他の社員たちの間でも筆者の話は伝わっていたようで、多くの人から感謝された。
  同じ頃のある日、筆者が日曜大祝日を除く平日に毎朝ミサを捧げている聖マリアの無原罪教育宣教修道会で、それまでプロテスタントの日曜礼拝に出席していたという40歳代と思われる塚田恭子さんが、ミサに出席してカトリックに改宗したいというので、カトリックの教理や伝統などを教えて洗礼を授けた。塚田さんは聖体拝領を非常に喜んでいたが、話すことや理知的能力は通常の人たちより劣っているようで、後でその父母に会ったら母からもそのような説明があり、そのため男の人と交際したいのに、男友達が一人もいない由であった。それで既に50歳代の筆者が、時折その家族を訪問することにした。するとその母親の提案で、その母子が筆者を連れて京都の庭園を見物したことが二、三度あった。その最後の見物の時には、恭子さんの姉で名古屋大学卒の秀才と思われる、京都在住の夫人も一緒であった。それで庭園の池を回った最後頃に、その姉の見ている前で筆者が初めて恭子さんと手をつなぎ、姉の所まで歩いて来たら、恭子さんはそのことを非常に喜んでいた。その後暫くしてその家に夕食に招かれたので、訪問したら食堂のテーブルに通された。そこに父親が居なかったから、既にお亡くなりになったのかも知れない。暫く話した後、そのテーブルに食事を台所から運び入れるから、「あなた達は暫く隣の部屋に行って下さい」と言われ、筆者は隣の座敷のような部屋に恭子さんと一緒に移った。そこにはソファーの長椅子と小さな卓袱台(ちゃぶだい)が一つあるだけなので、筆者はそのソファーに腰かけたが、恭子さんはその卓袱台の前に立ってモジモジしていた。それで筆者がソファーの右隣の開いている席を指して、「よろしければ、どうぞ」と言ったら、彼女はそこに腰かけたが、その時筆者は以前に京都で一度手をつないだら、彼女が非常に喜んだことを思い出し、今度は彼女の肩に軽く右手をかけてみた。それはほんの二、三分間で、すぐ母親から呼び声がかかったので、食堂に移って三人で楽しく夕食をした。恭子さんの自宅で母親と共に夕食をしたのは、この時一回だけであった。
  ところがその数か月後に京都の姉が名古屋の母親を訪問し、叔父も加えて皆で一緒に寛いでいた時、恭子さんは筆者から肩に右手をかけてもらって喜んだことを懐かしく思い出し、皆のいる所でそれを話し始めたようである。話の下手な人なので、その表現は不正確だったのかも知れないが、それを聞いた姉は怒り出し、叔父と母を説得して、早速恭子さんを連れて、叔父の車で神言神学院にいた筆者に抗議しに来た。恭子さんは姉に手も肩も抑えられて真っ先に押し立てられて来たが、応接間に入って筆者から腰かけを勧められ、姉が手を離すと、すぐに玄関へと逃げ去った。そして叔父も筆者を睨みつけ、「絶対許さぬ」の一言を残して自家用車の方に戻って行った。何があったのかと思っていたら、姉が恭子から聞いたと言い出し、筆者が恭子の乳房を弄んだことを抗議し始めた。その時筆者の心には、「今は悪魔が働いている。何も言うな。言っても無駄だ」という声がした。それで筆者は何も言わずに聞くだけであったが、「今後は決して恭子に会わず、恭子に話しかけないように」という姉の言葉には承諾した。そして最後に一言、「あなた方が今話したことを、私は何もしていません」と話したら、姉は怒りの表情で母を連れて去って行った。恐らく姉は、筆者が恥ずかしくて弁明できないのだ、と思ったのであろう。そして母は、筆者が母のいない所でも恭子に会っていたのかも知れない、と考えたのかも知れない。
  ところがその直後も二、三日名古屋に滞在していた姉は、京都に帰る前に八事の聖霊修道院にいる知人の修道女を訪問し、妹から聞いた話として、筆者が恭子さんの乳房を弄んだと、言葉巧みに話したようである。その時から聖霊会修道女たちの筆者に対する態度が一変し、道路や駅などで筆者に会ってもこちらを見ず、避けるようになった。それは、95年春のことであった。暫くして95年5月7日に前述した聖霊会の共創立者Sr.マリア・ヘレナがローマで列福されるという知らせが届いた。その列福の為に奇跡調査報告書を作成した筆者は、その列福式に出席するよう聖霊会から招待されると思い、それを機に筆者と塚田恭子さんについての誤解を解こうと思っていた。しかしいつまで待っても、筆者は招待されなかった。奇跡的治癒を体験したテル道郁子さんに電話したら、既に聖霊会から招待され、多くの聖霊会員と一緒に日本からローマに行くことになっていた郁子さんは、筆者の報告書で列福されるに至ったのだから、ぜひその式に出席して欲しいと言うので、神言会日本管区長に申請してSr.マリア・ヘレナの住んでいたシュタイルの修道院とローマでのその列福式に出席する認可を得た。そしてオランダのシュタイル修道院に二泊して、Sr.マリア・ヘレナの列福運動の始めに造られた新しい墓と、以前に葬られていた古い墓の穴などを見た。お骨をこの古い墓から移す時に、墓穴に残っていた小さな骨片を、テル道郁子さんがお腹につけて祈り、あの奇跡を体験したのであった。その古い墓地にはその後別の建物が建ったので、今はもうその墓穴は残っていない。シュタイルの聖霊会員たちと一緒にオランダからローマに観光バスで来る途中、神言会の聖フライナーダメッツ神父の出身地に近い北イタリアのホテルで一泊したが、ローマに近づいたら、バスの運転手がドイツ語でローマ市内の複雑な道路は知らないので、誰か知っている人がいたら教えて欲しいと皆に言った。それで7年間もローマで生活していた筆者が運転席の斜め後ろの席に座り、ドイツ語で指導した。ティーベル川を越えて、列福式前晩の感謝の降福式が挙行される聖堂に一番近い大通りを進もうとしたら、婦人警官に止められ、中・小型車はこの道路を通行できるが、大型車は全て大回りするようにと言われた。その大通りに何か事故が発生して、大型車が通行止めになったようである。そこで川下3つ目の橋を渡って、大回りをしながら目指す聖堂への複雑な回り道を案内しながらバスを進めたら、降福式開始の20分ほど前にその聖堂に到着できた。筆者はその時、神はこの道案内の為にも、筆者にこの旅行をさせたのだと思った。翌日の列福式場に行く途中、テル道郁子さんに会い、親しく話し合いながら招待席場に入ろうとしたら、筆者は日本から来た聖霊会員によってそこに入ることを止められ、一般席に移された。そこではローマの神言会修道院に住む後輩の知人会員や、列福者の大きな絵を描いたイタリア人画家にもめぐり逢い、結構楽しく過ごすことができたが、筆者に対する聖霊会員たちの誤解を解除する機会は失われた。筆者はこうして人々からの誤解を耐え忍びその苦しみを神に捧げるのが、人類の救いのためもっと恐ろしい誤解をお忍びになった救い主に、心を深く一致させて下さる神の御旨と思って、その後も20年間余りそのままにしているが、あの事件の少し後に恭子さんの姉の叔父さんも夫も死去し、母も、筆者と親しいシューベルト神父から病人洗礼を受けて死去したと聞く。筆者はその後も祈りつつ塚田家族に為した約束を守って、恭子さんとは話し合わずにいるが、恭子さんもこの20年間余り毎朝1キロ余の道を歩いて、日曜大祝日には神言神学院で、他の平日にはロゴス・センターでのミサに出席し、聖体拝領をしているそうである。家族と自分の罪を償うためなのであろうか。筆者は2年余り前の「慈しみの聖年」に、京都に住む恭子さんの姉に手紙を書き、マタイ6:15にある「赦さなければ赦されない」の主のお言葉を引用しながら、お互いに老齢であることを考慮して過去の罪を赦し合うことを提案したら、よいお返事を頂戴した。それで聖霊会員たちにも、筆者に対する誤解を捨てて昔のように温かく接して下さるようお願いしたい。神の御摂理により、筆者は20数年前のあの事件の少し前から他の女子修道会で日々のミサを捧げるようになり、日曜大祝日のミサも三ケ日の修道院で捧げるようになったので、誤解されていてもそれ程苦しまなかったし、聖霊会員たちがその誤解を他の人たちに広めなかったことには感謝していた。しかし、昔親しくしていた高齢の聖霊会員たちが死去しても、その葬儀に参加できなかったのは残念であった。
  筆者はこれら全ての出来事の背後には、神の御摂理によってあの世の善い霊たちも悪霊たちも働いていると受け止めており、筆者はその悪霊たちから一つの攻撃目標にされていると考えている。それで人類社会も修道会も、これ迄以上に荒れ狂う海流にもまれるような時代になったら、年老いた筆者の身にも、もっと恐ろしい苦しみが到来するかも知れないと覚悟し、日々あの世の善い霊たちに結ばれて生活するよう心掛けている。


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