筆者が歩んで来た道から学んだこと(3) 2017年8月 青 山 玄
前回の拙稿に扱った、筆者が満11 年間の神学生生活から学んだことは他にもまだ非常に多いが、1983 年に出版した拙著『一杯の水』やその他にも扱っており、今後もその時代の体験から記すことがあると思われるので、ここでは司祭に叙階されてから、筆者の学んで来たことについて述べることにしたい。1959 年の正月に司祭に叙階された筆者は、当時の神言会日本管区が名古屋と長崎で中学・高等学校を経営しているのに、そこで教える文部省からの教員資格を取得した日本人司祭がまだなく、筆者がその最初の司祭であることを思うと、筆者は名古屋か長崎の学校に任命されると思い、同年2 月で神学の学習が終わると、4 月からの中・髙生向け授業の準備に専念していた。しかし、その頃はローマの神言会総長が海外視察旅行中だったのか、前年に日本から神言会総本部に出したと聞く手紙の返書が遅れて、3 月25 日になってから日本に届いた返書では、筆者の任命がローマ留学になっていた。それでそれまでの折角の授業準備が全て無用となり、筆者は外国留学のため英語などの語学研修に努めることになった。神言会日本管区で終戦後に司祭に叙階された3 人の先輩は皆小教区で勤務しており、海外の大学に留学した例はないので、筆者は全く思いがけないこの任命に、果たして自分がローマの一流大学に留学する能力を持っているであろうか、などと大きな戸惑いを覚えた。しかし、そのグレゴリアナ大学で博士号を取得した恩師のラング神父に相談したら、子供心に成れば道は開けると思うようになった。それで一切の人間的不安や思い煩いを神に捧げ、己を無にして神の導きのみに従って生き始めることにした。少し後になってから聞いたことだが、当時の神言会管区本部でも南山大学でも、筆者をローマに留学させて南山大学でカトリック教会史を教える教員にする計画は、既に前年から話し合われていたのだそうだが、筆者には皆目知らされていなかったので、突然の思わぬ任命に筆者の心が動転したのであった。しかし筆者の心はこの時の体験から、全く思わぬ任命や命令を受けても、また思いがけない天災や不運に直面しても、すぐに小さき聖テレジアの幼児の精神で天父の神に感謝と従順の心を向け、新しい事態に対処しようと心がけるようになった。その意味では、筆者が予め何も知らされずにローマ留学を任命され、思わぬ不安を与えられて新たに神信仰に生きる幼児の精神を自覚するに至ったことは、神からの愛のお計らいであったように思う。 ローマでイエズス会が経営するグレゴリアナ大学の講義は10 月に始まるとのことなので、神言会管区長から7月に日本から出港してイタリアに行くようにと言われ、そのための旅費の計らいや船会社への申し込み等は、管区長がして下さるとのことであった。ところがこの頃から、スカンジナビア航空の飛行機で多少安く海外に行くことが出来るようになったそうで、管区長はその飛行機でローマに行くようにと変更して下さった。それで筆者の羽田からの出発は9月21日になり、現代の航空機とは違う高度6千mほどの高さで飛ぶプロペラ機で、夜も昼も地上の景色を楽しみながら、途中マニラ、バンコック、カラチの空港に立ち寄り、ローマにまで飛ぶことが出来た。筆者が『一杯の水』にも記したように、プロペラ機によるこの旅行は楽しいものであった。神のお導きによるのであろうか、筆者はその数年前からラング神父を介して紹介されたドイツのプロテスタントから転向したカトリックの教区神学生、並びにドイツのあるカトリック家族とドイツ語で文通していたが、ローマの空港事務所についたら、筆者のドイツ語の手紙を読んだドイツ人の Alt 神父が出迎えに来ていた。神父はグレゴリアナ大学で同じ教会史学を学ぶ筆者の1年先輩とのことであった。筆者は、この後もこの先輩にいろいろとお世話になり感謝している。 グリゴリアナ大学の入学試験は、まず翌年6月までラテン語による講義を受けた後に、3 人の担当教授による半時間のラテン語面接試験に合格するか否かによって決められていた。入学を希望する若年司祭は、それまでの学歴も学習内容も多様化している世界各国から来ているので、入学試験はこのような形になっていたのだと思う。筆者がそのラテン語面接試験に合格したら、戦前戦後を通じて教会史学部のこの面接試験を受けて合格した日本人は初めてだそうで、大学の教授たちからも歓迎された。筆者以前にも長江恵司教がこの学部で学んだことがあるそうだが、それは聴講生として数か月間出席していただけのようである。この大学の教会法学部には1 年先輩の濱尾文郎神父も入学していて、筆者は一緒に大学の構内を散歩したり、毎年の新年と昭和天皇の誕生日に日本大使館での祝賀会に出席し、ヴァチカンの西隣ジャニコロの丘に建つウルバノ大学で教会法を学んでいた白柳誠一神父も加えて、歓談したりしていた。1959年にローマに留学していた日本人司祭は、おそらくこの私たち三人だけだったのではなかろうか。ウルバノ大学には日本の諸教区から派遣されて学んでいた神学生も数人いたが、イタリアに在住していた日本人の数は、大使館員の話では2 百人ほどと聞いていた。1950年代には、海外からの招待などでその国での生活が保障されない限り、旅費は持っていても渡航の査証が与えられなかったからであろう。ところが60 年代に入ると、ジェット旅客機が国際的に数多く導入されて法律が変わり、ローマにも非常に多くの日本人が渡来するようになった。第二ヴァチカン公会議がこの新しいグローバル化の流れの中で開催されたのは、神のお導きなのではなかろうか。それまで各国内で別々に流れていた無数の川水が海に注ぎ入り、巨大な海流になるように、人類社会の流れは、1960 年頃から海流のようなグローバルの流れに成り始めたのかも知れない。後年NHK ラジオの深夜便を聴いて知ったのであるが、日本でも欧米諸国でも60 年代になってからの流行歌には、新しい多様化と国際化の動きが盛んになったように思う。これも、全人類の統合を望んでおられる神の御摂理であろう。
神言会は、軍備増強の「鉄血政策」でカトリック国のオーストリアとフランスを次々と破り、1871 年にプロイセンをドイツ帝国としてその宰相に就任したビスマルク(1815-98)の、カトリックに対する文化闘争政策が盛んであった1875 年に、ドイツ人の聖アーノルド・ヤンセン神父(1837-1909)によって創立されたので、ドイツ国内ではなく、ドイツとの国境から数キロ離れたオランダのシタイルという、大きなマース川沿いの村に最初の本部修道院が創られたが、1928 年にそこの神言会総幹部がローマに移り、その本部修道院にローマに留学する司祭のための修道院も併設された。そこはローマ市南部のオスツエンゼ駅のすぐ隣の丘の上にあって、聖パウロ大聖堂にも遠くない処である。筆者がその本部修道院に住み始めた1959年には、総幹部の司祭10 人余の他に、そこに任命されて住んでいる司祭が20 人程と修道士が20 数人いた。その修道者の多くはドイツやその周辺諸国の出身者で、ドイツ語とイタリア語を通用語にしていた。そしてこの修道院に籍を置いて勉学中の司祭は筆者を含め28 人、新しくこの59 年からグリゴリアナ大学に留学し始めた神学生は12 人であった。いずれも国際色豊かな学生たちで、アジアや南北アメリカ大陸の出身者も少なくなかった。修道院での掲示は全てドイツ語とイタリア語に記されていたが、当時の神言会にはドイツ語を話す人が多かったからであろう。ドイツ語を話す筆者も、そのドイツ的雰囲気の修道院共同体に気軽に溶け込むことができた。しかし、時々は一人で散歩に出かけ、積極的にイタリア人に触れることにも努めていた。イタリア語を学ぶ施設は59 年にはまだなく、日本語とイタリア語との対訳辞書もまだなかったが、ラテン語のできる筆者には、簡単な質問に答えるイタリア人の言葉が理解できたからであった。それで前述のAlt 神父から、イタリア語の簡単な質問を幾つか教えてもらい、それを繰り返し使用しながら周辺の市道を散歩したのであった。 大学院での講義は、カトリック美術史以外は全てラテン語で為されており、早口で話すスペイン人の教授も一人いたが、殆どの教授はアジアからの受講者たちに対する配慮からか、早口を避けて解り易く話していた。筆者は名古屋でもラテン語の神学教科書を使用して講義を受け、試験の答案も日本語でなくラテン語で書いたりしていたので、大学院でのラテン語での口頭試験に、あまり不便を感じなかった。筆者がパリー外国宣教会の宣教師たちが為していた日本布教の問題点を扱った修士論文は、引用資料などの都合からか英語で作成したが、その英文の訂正を当時ローマに留学していたフィリッピン人に依頼したら、教授から英語の表現はもっと良い文章家に依頼するようにとのコメントを頂戴した。しかし内容は評価できるので、とグレゴリアナ大学の博士課程への進出が認可された。当時はこの博士課程への進出が非常に難しく、筆者の5 年後にサレジオ会司祭に叙階されて同じ大学院の教会史学部に入学した溝部脩神父は、修士課程での成績は、筆者の親しくしていた教授の話によると比較的に良かったのに博士課程への進出は許されず、グレゴリアナ大学と関連の深い上智大学で博士号を取得するに至った。このような例は当時の欧米の学者たちの間でも非常に多く耳にしていたが、筆者がグレゴリアナ大学の博士課程に進むことができたのは、神からの特別の恵みであったように思う。 読者の中にはこんな話を読むと、筆者の頭脳がそれだけ優れていたと思われる人がいるかも知れないが、それは誤解であると明言して置きたい。前回の拙稿の中で、筆者は司祭に叙階される前年に終生誓願を宣立した時、自分で作成した個人誓願も立て、この個人誓願を毎日唱えていると書いたが、それは己を無にして身も心も神の道具となし、神にご自由に使って戴くことを願った誓願で、神は小さき聖テレジアに倣って神の幼児の精神で歩んでいる筆者を、ローマで博士号を取得するようにお導きになったのだと思う。筆者は修練期の時にも、その後にも聖イグナチオの創始した四週間の霊操を体験したが、その第一週に自分の心を深く内省して、そこに潜む善も悪もしっかりと自分で認識することにはついて行けなかった。幼児の心には自分の心を自力で認識する能力がなく、その認識は神にお任せしてただ神のお導きに従うだけ、というのが筆者の生き方であったからだと思う。神は、幼児の心で生きるその筆者を導いて、博士コースに進ませて下さったのだと思う。聖フランシスコ・ザビエルの日本での働きについての筆者の博士論文は、ちょうど62 年頃にローマに建設された日本文化研究センターで公開され始めた、戦後日本の新しい日本史関係の諸資料や各種研究を利用して作成されたものであるが、この日本文化研究センターの開設も、筆者にとっては神からの大きな恵みであったと思う。 優れた学者が多くいて世界から高く評価されていたイエズス会は、世界各地の大学で数多くの優秀な研究者たちを輩出させていたが、イエズス会本部のあるローマには、優れた学者の会員だけが一緒に生活して研究・出版に従事している研究施設と、多くの若手研究者たちを輩出させるグレゴリアナ大学とがあって、この大学には、当時諸修道会が世界各地から若手研究者たちを送り込んでいた。従って、筆者の所属した教会史学部には、少数のイエズス会員の他にフランシスコ会、カプチン会、御受難会など数多くの優れた修道会員たちも学んでいて、その学生たちの自由な研究発表を聴くと、まだあまり知られていない世界の辺境地の教会問題なども知ることができた。しかし、その数多くの学生たちの中から、グレゴリアナ大学の博士課程に進むことができるのはごく僅かなので、多くの学生たちは寸暇も惜しんで熱心に研究に励んでいた。当時の筆者はその中にあって、少しのんびりと一日一日を楽しんでいたようである。博士課程に進むことも、初めは全く考えていなかった。博士にならなくても、神学修士号を得て国に帰れば大学で教えることはできるのだから。修士課程が終わってグレゴリアナ大学に通うことが少なくなった62 年には、南山大学時代の筆者の恩師ゲマインダー神父からの紹介状を持参して、筆者を訪ねに来た日本人の会社員や旅行者が二人いた。古いローマの観光が大好きであった筆者は、喜んでその訪問客を案内し、ほんの一日か二日だけであったがローマの町を巡っていた。その後もこのようにして、日本人旅行者のローマ見物を手伝ったことが数回あった。修道院内の日常生活においても、筆者は食卓の準備や後片付けなどを積極的に手伝っていたので、ローマの修道院に常駐している年配の司祭たちから、近くの女子修道院でのミサを一週間担当してくれ、と頼まれることが時々あった。第二ヴァチカン公会議後にイタリア語で捧げられるようになったミサは、当時はまだラテン語で捧げられていたので、筆者は喜んでその依頼に応じ、近在のスペイン系やイタリア系の様々な女子修道院でミサを捧げていた。神言会の本部修道院から1 キロ程の所に建つ、大きな小教区サン・ベネデット教会での日曜日のミサにも、喜んで協力していた。説教はその教会の主任司祭が担当し、筆者はラテン語でミサを捧げるだけだったからである。60 年前後の当時は、日本人の司祭を見たのは初めてと言うイタリア人が多かったので、筆者はミサを終えて帰る時にも、信徒たちに喜ばれ挨拶されていた。 以前にも書いたように、筆者が受洗して多治見修道院に入った時から身に着けたゴミ拾いの習慣は、ローマに住んでも失っていなかったが、しかしローマの道端にはゴミが多いので、少し見苦しくなっている所のゴミだけを整理したり、ゴミ箱のある所まで持参したりしていた。筆者が神学生時代に身に着けたバリカンで頭髪をかってあげる奉仕は、ローマでも続けていたので、同居の司祭たちだけではなく、神学生や修道士から依頼されたこともあった。それで一部の修道士たちの間では、「頼めば何でもしてもらえる神父」と言われていた。この大きな本部修道院の中央には、左右両脇から石造りの階段を上った二階に、大きな玄関と幾つかの応接室があり、玄関の受付室には一人のドイツ人修道士が常住して、外部からの電話を修道院に住む各人に取り次いだり、来客の世話をしたりしていた。外来客が修道院長の許可を得て、修道院に宿泊する設備も整えられていた。その受付係の修道士が不在の時には、第二の受付係の修道士もいたが、ある時たまたまこの第二の受付係が不在だったのか、筆者が一時間ほど受付室での奉仕を依頼されたことがあった。恐らくこの本部修道院でそのような依頼を受けた司祭は、筆者の他には一人もいなかったと思われるが、筆者は既にローマで4,
5 年間も住んでいて、論文作成の仕事しかもっていなかったので、喜んでその奉仕も引き受けてみた。すると外部から掛かって来る電話はイタリア語だけではなく、ドイツ語や英語で話す国際電話であったり、来客もアメリカ人家族であったりした。幸いこの時にはトラブルがなかったが、その数日後、もう一度受付室での短時間の奉仕を依頼された時には、イタリア人からの電話に応えて、庭で働いている修道士を呼びに行く時に、まずそのイタリア人の名前と電話番号を尋ねてから、電話を切って呼びに行くべきであったのに、そうせずに呼びに行ったら、遠い所からの電話であったのか、受付室に戻った時には既に電話は切れていた。この失敗を経験した後に、後述するように筆者はローマから20
数キロ南方に離れているネミの修道院に住むようになったので、もうその受付室に奉仕することはなかった。
ローマ市の夏は気温が高いので、当時のグレゴリアナ大学では、7 月後半から10 月前半までの三か月を夏休みとしていた。一部の教授や学生たちは夏休み中でもローマに留まっていたが、大多数の人はローマ郊外の避暑地や他の国々で夏を過ごしていた。ローマ教皇も、ローマの南20 数キロのアルバーノ連山の一つの山上に建つ避暑地、教皇庁所有のカステルガンドルフォ宮殿で夏を過ごしておられた。前述したネミの修道院は、この連山の西の外れの山上に建っていて、その西下にはネミ湖とアッピア街道の古い町ネミ市があり、そこから数キロ離れた所にあるティレニア海も見えていた。多くの人が宿泊できるように新築されたこの修道院では、公会議開催中は度々公会議の諸委員会の会合や共同研究などが開催されていたが、ローマ在住の神言会員も、公会議開催中でもその一部の個室に住むことができ、筆者は博士論文を作成した後に、このネミ修道院に住むことが多かった。 話は少し遡るが、1960 年7 月半ばに、筆者は前年の秋からグレゴリアナ大学で学んでいる、同期のインドネシア人とブラジル人の司祭二人と共に、ドイツ南西部のザールランド州にある、神言会のサンクト・ヴェンデル修道院に移り、そこで数週間を過ごすことにした。そこは広大な耕地と大きな家畜小屋を備えている田園風の修道院で、神言会員で農耕や様々の技術労働に従事している修道士も多く、司祭になることを目指しいる小神学生を教育する、中学・髙校程度のギムナジウムという学校も経営していた。ローマから一緒に来た二人は、この修道院でドイツ語の会話を学び始めたが、既にドイツ語で会話できる筆者には、到着して数日後に一人のドイツ人修道士が、一緒に三日間の自動車旅行をしようという話を持って来た。その修道士は、神言会のドイツ語月刊誌”Stadt Gottes”を、ザールランドと、以前にドイツ領であったフランスのストラスブール地方の諸教会を介して売りさばく仕事を担当しており、自動車で毎週その諸教会を巡りながら、月刊誌やその他のカトリック図書を届けているとのことであった。その修道士が前日にストラスブール市郊外の聖ヤコブ教会を訪れて、サンクト・ヴェンデル修道院にドイツ語を話す若い日本人司祭が滞在していると話したら、その司祭を今度の7 月25 日聖ヤコブの祝日ミサに招いて、盛大な歌ミサとドイツ語説教をお願いしたい、という依頼を受けたとの話であった。 聖ヤコブ教会に着いたら、主任司祭からこの地方の住民は皆ドイツ語系の方言を話しており、第二次世界大戦の後にフランス領にされたので、子供たちは学校でフランス語で教育されているが、大人の住民はドイツ語しか知らないので、自分はミサの説教を大人の為にドイツ語で話した後に、若い人や子供たちのためにはフランス語で話していると説明された。そして明日のラテン語ミサの福音後に、あの説教台からはドイツ語で話してもらいたい、と告げられた。その説教台と言うのは、本祭壇の少し右横にあって階段を二回も回って天井近くにまで昇り、その高い所から眼下にいる信徒を見下ろしながら話すように造られていた。中世期には天上の方から信徒に改心を呼び掛ける説教台があったことは何かで読んだことがあるが、戦後の今も残っていることに筆者は驚いた。そしていざそこに登って信徒を見下ろすと、目に着いたのは大聖堂の最後列にいる信徒たちだけであった。眼下にいる信徒を見下ろすには、説教台から身を乗り出さなければならなかった。中世期に造られたこんな古い説教台を持つ教会が爆撃されずに昔のままに残っていたのは、世界大戦の末期にドイツ軍がこの地方から早急に撤退したからであろう。筆者はその説教台から,スペインのコンポステラで崇敬されている使徒ヤコブは、信仰の使徒ペトロと愛の使徒ヨハネと並んで、希望の使徒であると言うような説教をした。するとミサ後の盛大な宴会で、「今まで何十年間もこの教会でのミサに出席しているが、使徒ヤコブを希望の使徒と称するこんな説教を聞いたのは初めて」と言う信徒たちから歓迎され、筆者は大いに楽しむことが出来た。筆者は、その後もフランスやスペイン各地でおいしい葡萄酒を味わっているが、料理ごとに赤や白と異なる一番美味しいフランス葡萄酒を味わったのは、この時が初めてであった。後年ある人から、「フランス・ワインの一番美味しいのはパリーではなく、田舎にある」と聞いて、筆者も同感した。 筆者にとって初めてのドイツ旅行であったこの60 年の夏には、8月にミュンヘン市で国際聖体大会が開催され、当時は戦後のドイツ産業の急速な発達で「経済奇跡」と言われた程、西ドイツの社会は豊かになっていたので、まだ人数の少なかったアジア・アフリカ諸国の若いカトリック司祭たちが数多くその聖体大会に招聘されたが、筆者もその招きを受けてミュンヘンに行ったら、同じくローマに留学していたインドネシア人のフランシスコ会司祭と共に、ミュンヘンのドイツ人夫人の家に全く無料で数日間宿泊することが出来た。 9月下旬までのこのドイツ旅行中に、筆者はザールランド州にある筆者に洗礼を授けてくれたシュタウブ神父の家族を訪問したり、日本に神言会員を送っている家族を訪問したりしたが、また数年前からドイツ語で文通し、その時は既に大きなカトリック教会の助任司祭になっていた友人や、オランダに近いライン川の岸辺の町に住む文通友人のドイツ人家族を訪問したりして、どこでも多くの寄付金をもらった。しかし、それらは全てローマの本部修道院長に渡し、院長からも感謝された。ローマに留学していた司祭たちの中には、自分たちは故国にある神言会管区から派遣されて留学しているのだからと考え、イタリアやドイツなどで貰った寄付金は、自分の手元に置いておいて、故国に持ち帰る司祭たちも少なくなかったが、その人たちよりも多くの寄付金を貰っていた筆者は、神に清貧の誓願を立てたことも考慮し、自分の今の生活に余分と思われる寄付金などは、滞在地ローマの修道院に差し出していた。その後も殆ど毎年の夏にドイツやその他の国々に旅行して、拙著『一杯の水』にも記しているように様々の美しい体験を為し、多くの寄付金をローマに持参していたが、ここでは詳述を避けたい。
第二ヴァチカン公会議直後の頃からイタリアでは告解する信徒が激減したが、公会議直前と公会議中には、ローマでは何故か告解所を訪れる信徒が非常に多くなって小さな行列をなしていた。それでヴァチカン聖省では1960 年に、ローマに在住する数多くのイタリア語を話す外国人司祭たちにも、イタリア人信徒の告白を聴く権限を与えることにした。それで同年外国人司祭たちに呼びかけ、イタリア語の倫理試験に合格した司祭たちには教皇庁からの特別の聴罪認可書を与えることにした。ところがローマで筆者の親しくしていた神言会の黒人アメリカ人Powell 神父は、数年前からローマに在住していてイタリア語も自由に話せたので、当時のローマ教会の求めに応えるためにこの倫理試験を受けたが、イタリア語の試験問題は当時の倫理神学の先端を行くような問題で、彼から聞いた話によると、彼を含め合格者は殆どいなかったようである。それで、このような倫理問題を出題した神学教授は批判されたようで、62 年の春には告解者の多くいた教会の主任司祭たちが、これまでの体験から聴罪師にふさわしいと思う外国人司祭に、教皇庁からのその認可書を自由に与えることになった。この特別指令はこの時一回だけだったようだが、日ごろサン・ベネデット教会の主任司祭から信用され愛されていた筆者は、62 年春から二人の南米出身の若手司祭たちと共にその聴罪認可書を受け、ローマに滞在する時には毎日曜日に3 時間近く、そのサン・ベネデット教会の第八告解所に座り、無数の信徒の告白を聴く身となった。一つの小教区聖堂に告解所が八つもあることに驚く読者もいるかと思うが、当時のローマの大きな聖堂には毎週のように告解に来る信徒もいて、聴罪師は9 時のミサの半時間前から10 時半のミサの中程まで、毎日曜日2 時間半もイタリア人信徒の告白を聴いており、筆者もローマに滞在していた時は、いつもその勤めを果たしていた。 しかし、筆者が博士論文を作成した後に、ローマから30 キロ近く離れたアルバーノ山系のネミ修道院に滞在するようになると、ここではその勤めから解放されていたが、毎週金曜日に御受難会の司祭数人を乗せた小さなバスが筆者を迎えに来て、そこから遠くないイタリア人の老人ホームに筆者を連れて行き、そこのイタリア人老人たちの告白を一時間ほど聴く勤めを与えられていた。一度はローマ市街にあるローマの精神病院に連れて行かれたり、四旬節にイタリア軍隊で兵士たちの告解に連れ出されたりしたこともあるが、筆者はローマ教区のためこれらの奉仕を喜んで為していた。察するに、ローマでこのようにして市外の精神病院を訪れたりイタリア軍隊の兵舎で告白を聴いたりした日本人は、筆者一人なのではなかろうか。公会議の中頃からイタリアでも告解に来る人が少なくなり、日本人で教皇庁からの聴罪認可書を貰った司祭のことは、聞いたことがないからである。こうしてこれらの奉仕活動を為しながらも、筆者は多治見修道院時代に身に着けたゴミ拾いの慣習を忘れずに続けていたが、今思うとこの小さな実践が、筆者のその後の生活に大きな恵みを呼び下していた祈りのようであったと思われる。 1965年の夏にスイスのチュウリッヒ郊外にあるカトリック教会から、二人いる教会の司祭が交互に2 週間の休暇を取りたいので、何方かドイツ語で告解を聴くことのできる司祭を一人派遣して欲しいとの依頼が、ローマの本部修道院に来た。そしてたまたまその夏にはスイスに一か月も滞在する時間的余裕を持つ司祭が少なかったのか、筆者がその依頼を受けることになった。筆者がその教会に着くと、主任司祭から、心配はいらないがまず司教から簡単な倫理試験を受けて、司教からの聴罪認可を受けるように求められているので、明日司教の許に一緒に行こうと言われた。そこで、ローマ教皇庁から交付された大きな赤い聴罪認可書を提示したら、主任司祭は驚いてすぐに司教に電話し、司教も認可して、翌日からその教会で信徒の聴罪をすることができた。筆者はスイスのこのアドリスヴィール教会で、ローマからの往復の旅費と共にかなりの謝礼金を渡されて四週間滞在したが、筆者に与えられた勤めは、信徒が告白しに来る土曜の午後と日曜の朝に教会にいることと、日曜の午前と午後にミサを捧げることだけで、他の日にはその教会にいなくても良かった。それで筆者は頂戴した謝礼金を使って、スイスにある神言会の修道院まで宿泊旅行をしたり、スイスの国名の元となったシュヴィーツの町を眼下に見下ろす2 千メートル級の大小二つのミーテン山に登ったり、アインジーデルンのベネディクト会修道院に一泊して、その修道院の広い前庭で夏の夜に公演される著名な野外宗教劇「Welt Theater (この世劇) 」を観覧したりし、また幾つかの美しい町々を見学に訪れたりした。
筆者が神学生であった頃のカトリック界では、1950 年11 月1 日に聖母マリアの被昇天を信仰箇条として宣言した教皇ピウス12 世が、当時の自由主義諸国と共産主義諸国の軍備増強や冷戦状態を憂慮しつつ、ファティマの聖母のお言葉に従ってしきりに聖母崇敬を奨励し、「マリア学」と言われた神学も普及し始めていたので、聖母マリアの清浄さや力強さを称える著書や記事が数多く出版されていた。筆者は一度日本のカトリック雑誌に、無原罪の聖マリアは子供の時から際立って美しい御眼をしておられたように述べている一文を読んだこともあった。それでその頃の筆者も、聖母について同様に考えていた。 ところがローマで、公会議前後にドイツで説教師として名の知られた神言会のRohner 神父の説教を聞いた時から、筆者の聖母像は大きく変わり始めた。その説教師は、神は聖母マリアをあまり人目に立たないように配慮し、子供の時から全く平凡な女性としてこの世に成長させて、救い主の母となってからも外的には世の人々の注目を引かないごく平凡な女性として生活させられた、と考えていたからである。察するに、無原罪でお生まれになった主イエスも、公生活をお始めになる以前には、外的には人目を引かない全く平凡な子供あるいは貧しい職人として、ナザレト社会の下層部で数々の苦しみを体験し、人類救済の必要性を痛感させられながら生活しておられたのではなかろうか。それが、天の御父神の御旨だったのではなかろうか。 筆者は、聖母マリアのこの世での御生活についてのこのような推察から、後年ロザリオの祈りとは別に、Ave Maria の祈りを幾つかの字句に分けて、各々の句の間に小さな黙想を挿入しながら唱え始めた。ロザリオの祈りの時には各玄義の黙想が中心なので、祈りの字句は流れのように速く唱えるだけだが、この新しい祈り方をする時には、聖母マリアのこの世での生活や生き方、ご心情などを偲びながら、Ave Maria の祈りを三回、ないし四回唱えるので、それだけで数分か十数分の時間をかけている。筆者は、近年知人から祈りを頼まれた時は、日々このようにしてAve Maria の祈りを唱え、その知人たちのために聖母に祈っているが、長年続けていると、その祈りが聖母に聞き届けられることが多いように感じている。それでご参考までに、筆者の為しているその祈りの要点を簡単に説明してみよう。これはローマで学んだ筆者の心が産み出した祈りで、教会の伝統に基づくものではないことを、お断りして置きたい。 筆者はまず「Ave Maria」、と天使からの呼びかけの一句を唱えた後に、天使からのその最初の声を聴く前までの、聖マリアの人生を想像して観る。前述した説教師の考えでは、無原罪でこの罪の世にお生まれになった聖マリアは、察するにザカリア夫婦から生まれたヨハネのように高齢の夫婦から生まれたので、まだ幼いうちにエルサレム神殿の近くにあった、レビ族の寡婦たちが経営していた女子の育児施設に委託されたのではなかろうか、などと想像している。 当時はファりサイ派によって若い女の一人旅は厳しく禁じられていたが、マリアは「主はあなたと共に」の天使の言葉に信頼しつつ、それ迄の旧約時代の規則を破る新しい一歩を踏み出したのだと思う。 Ave Maria の祈りの最後に「神の母聖マリア」で始まる祈りは、聖母がこの世の人生の最後数年間をお過ごしになったエフェゾで、431 年に開催された第三の大きな公会議で、ネストリウス派の教えを異端として断罪し、聖母を「神の母」と呼ぶことを正統とした全教会の宣言に基づくもので、筆者はこの祈りを唱える時、神の母性的働きを探し求めていた遠藤周作の願いを思い浮かべつつ、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、恵みの雨を降らせて下さる神の母性的働きは聖母が為して下さると信じつつ、まだ神を知らず祈ることもしていない無数の人々のためにも、聖母マリアの「神の母」としての、限度なしの愛と憐みの取り次ぎとお助けを祈り求めている。
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