終末時代の信仰生活(続)

2015年4月       青  山    玄


  昨年12月の拙稿の最後に、「終末時代に重視される信仰生活」と題して、家庭も国家も宗教も伝統的統括力を失って内面から弱体化し、人類が遠からず恐ろしい社会不安の時代を迎えると思われるのに備えて、心がけるべき信仰生活について述べてみたが、今回は多少の重複を恐れずに、その終末期の状況や生き方をもう少し補足して置きたい。終末時代には極度に発達した現代文明による人間生活の個人主義化と、家庭の一致団結までも揺るがし兼ねない各人の個人主義精神の普及で、人生の孤立に悩む人たちが若年者層でも高齢者層でも激増し、弱者を苦しめる詐欺や傷害殺人が頻発したり、自分でいくら努力しても他の人のようには成功できない現実社会に対する不満から無差別殺人に走る者や、自分の好みや利害を何よりも優先する非社会的精神で盗みや殺傷行為をなす者が現れたりして、社会不安が通常化する恐れがあると思われるからである。もちろん現実の社会を少しでも温かい相互協力・共存共栄の場にしようとする、健全な市民運動や政治活動も既に各地で広がりつつあるが、現代社会の中での個人主義・孤立現象普及の勢いや幅の広さに比べると、まだまだ局部的で不足しており、これからの終末時代には、現代の私たちの想像を絶するほど多くの人が悩み苦しむのではなかろうか。筆者は1970年代から病気の知人を数多く見舞ったり、その死に立ち会ったりしているが、老々看護の多い現代には、長引く看護生活に疲れ果てている人も少なくないように思う。これからの高齢者社会にはそのような人の数がなお一層増えるのではなかろうか。それやこれやの諸問題を考慮しつつ、あらためて終末時代の信仰生活について考えてみたい。


人祖アダムの罪と世の終りの審判についての私見

  以前にも一度述べたと思うが、「人祖」と聞くと生物学的に一番最初に出現した人間と考える人が多いと思う。しかし筆者は、神の御前で人祖とされている人は時間的にはもっと後の時代の人間で、その人が神に対して犯した罪は、時間空間の制約を越えて神から創られた全ての人類、全ての被造物を穢し、神からの超自然的恩恵を失わせて、この世の物質世界を創造の初めから苦しみと死の支配下に陥れたのではないかと思っている。時間空間の枠組みは、我々の生活しているこの三次元世界の事物現象を秩序づけるために神から与えられた被造物であって、あの世の創造主であられる神は、その制約から全く自由な存在であり、絶対の神と人類との存在論的関係においては、そのような三次元世界の枠組みは除外しなければならないし、神は時間的には人類史の中ほどの人間を人祖とお決めになることもおできになる、と考えるからである。創世記の12章と17章には、神がアブラムに「地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」「これが、あなたと結ぶ私の契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい」などと言われたお言葉が記されているが、筆者は神のこのお言葉により、神信仰に生きていたアブラハムは時間・空間・血縁などの制約を越えて、神の御前に神から救いの恵みを受ける全ての人、創造された全人類の父と立てられたのではないかと考えている。教皇ピオ11世は一度公の場で、「私たちはアブラハムの子孫です」と話されたそうだが、どういう意味でそう話されたのかは知らない。しかし筆者は、上述した神のお言葉に基づいて上記のように信じている。使徒パウロはコリント前書15章に、土から創られた「最初の人アダム」と対比して、天から来られた主イエスを「第二の人」「最後のアダム」などと称しているが、この主キリストの救いの恵みも、永遠の神の御前では時間空間の制約を越えて、創造の昔からのこの世の全人類・全被造物にまで送り届けられるのではなかろうか。その意味では、主キリストを救いの恵みを受ける全人類の「第二の人祖」、「第二のアダム」と称してもよいと思う。

  全被造物の霊長と立てられている人祖アダムが、天地万物を創造なされた愛の神に背いた罪を、何かの規則違反のように軽く考えてはならない。創世記2章の創造神話によると、人をエデンの園に住まわせて、そこを耕し守るようになさった主なる神は人に命じて、「園の全ての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われた。神は「園の中央に命の木と善悪の知識の木を生え出でさせられた」と記されているから、この二本の木は他の全ての木とは違って、神が神に対する人祖の心を試すためにエデンの園の中央に成長させた特別の木だったのではなかろうか。筆者は「決して食べてはならない」という掟を、単に人祖の過ぎ去る外的言動を禁じただけのものではなく、超自然の賜物も豊かに与えられて幸せな内的状態に生きていた人祖の霊魂に、全被造物の代表として神の御前での生き方を全く自由に選択し決定させるための掟だったのではないか、と受け止めている。察するに、アダムとエワの人祖がもしも「命の木」の実を食べていたなら、二人の霊魂は神に対する感謝と奉仕的愛の内に成熟し、主キリストのように主なる神に対する徹底的従順と愛の奉仕の生き方を営み、悪霊からのどんな誘惑をも神の力によって退けることができたのではなかろうか。しかし、創世記の神話によると、エワは「善悪の知識の木」の方に近づいて悪霊の蛇の質問に答え、「私たちは園の木の実は食べても良いのです。でも、園の中央に生えている木の実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」などと、神の御言葉を多少勝手に言い替えて話し、「決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものになることを神はご存知なのだ」という蛇の言葉に騙されて、そのいかにも賢くなるように唆している美味しそうな木の実を取って食べ、夫にも食べさせたので、人祖の霊魂、その生き方の本源をなしている霊魂は神の愛の超自然的恵みを全て失って、神に反抗する存在となったというのが、聖書の教えであると思う。神に対する感謝と愛の心で神に奉仕する生き方を選択せずに、何よりも自分の好奇心や自分の望みを満足させることを優先する生き方を選択し、自分の望みや自分の考えを中心に据えて生きようとした所に、悪霊が忍び込むことのできる心の隙間ができ、その悪霊の誘惑に負けてしまったのだと思う。ここで「それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものになる」という、悪霊の蛇の言葉にも注目したい。それは、人間が主導権をとって自分で善悪を判断し決める神のような存在になることを示しているのではなかろうか。筆者はここに、神が最も忌み嫌われる人祖の罪、すなわち万物を創造なされた主なる神の価値観、神の御旨に従って、神に対する感謝と愛の内に生きようとはせずに、自分で自由に決めた自分中心の善悪観で万物を利用し支配しようとした罪があり、人類はこの世の終わりまで、主キリストと一致してその罪を数々の苦難によって償い、徹底的従順とお任せの精神で神の御旨に従うこと、そして神の新しい働きに神の僕・婢として奉仕することを、神から厳しく求められていると考えている。世の終わりに到来する恐ろしい苦難も、人祖の罪を償う精神で耐え忍ぶことを、神は私たち人類から強くお求めになるのではなかろうか。

  筆者は昨年12月の論説の中で、私たち人間に与えられている理性と知性という二つの認識能力について説明し、前者を頭脳を使ってこの世の事象を人類の経験に基づいて理知的に理解し、この世の生活に必要な知識や技術を獲得利用する自己中心的能力として提示した。この理知的能力は、頭脳が未発達な胎児や乳幼児の時にはまだ働いていないが、筆者が長兄の幼児を世話した体験から推察すると、満一歳半頃からは、未熟ながら既に活発に働き出すのではなかろうか。それで筆者は身内や友人・知人の二歳以上の幼児が我侭から泣き出したり、親を自分の欲に従わせようとしたりした時に、その親の許可を得てその我侭を矯め直し、親たちが驚くほどの素直な良い子にして上げたことが数回ある。その事は十数年前に発行した私家版の拙著『私の体験して来た現代の流れと神の摂理』に書いてあるので、次回はここでもその一部を紹介することにしたい。筆者は二、三歳児についてのその体験から、頭脳が自分中心に活発に働き始めるその歳頃になると、霊魂に宿る原罪の種子も芽を出して成長し始めるのではないか、と考えている。その種子が一歳半頃から働き始めると、それまで信頼と喜びで澄んでいた幼児の眼からその霊魂の原初の清さを失わせ、幼児は次第に自分の好き嫌いを態度で示したり、人見知りをしたり、時には少し我侭な態度も見せたりし始めるが、しかし、同じ霊魂の中には善の種子も宿っているので慌てずに、まずはそのままにして愛撫していると、二、三歳児になって霊魂の中の自我中心の生き方をする雑草が、善の芽よりも大きく成長し始め、時には善の芽を覆い隠すほどになるようである。この段階で断固とした態度でその雑草を除去してあげると、覆い隠されていた善の芽がすぐに現れて元気を出し、一時的にとても素直で良い子になったりする。しかし、有能な子どもほど雑草の成長力も逞しいので、この時期には一回だけではなく、幾度も小刻みにその雑草と戦う必要がある。でも、霊魂内での雑草との戦いは善の芽が強く育つために必要なのだから、ある程度の雑草は寛大に容認して、根絶してしまおうとしてはならないと思う。それで筆者はそういう幼児を持つ若い親たちに、五つ教えて三つ褒め、二つ叱るのを一応の目安とするようにと勧め、その褒め方、叱り方などについても具体的に指導していた。

  筆者は、我侭な幼児の心を矯め直して素直な良い子にしてあげたこれら幾つかの体験から、キリスト教会が聖書に基づいて教えているように、この世に生まれる全ての人間の霊魂には原罪の種子が宿っているが、同時に、神の子として生きるための善の種子も宿っており、霊魂がそのどちらの生命をどのように伸ばすか、またそれによってどのような実を結ぶかによって、神の御前でのその人の価値も運命も定まるのではないか、そして神が一番問題にしておられる罪は、神に対する幼子のように素直な徹底的従順と神の奉仕的愛に生きようとせずに、自分が主導権をとって善悪を決め、万物を自分中心に利用し支配する存在になろうとした人祖アダムの罪だけではなかろうか、と考えるようになった。人口が増えて社会・国家が形成されると、各人の我侭や個人主義を抑制して共同生活を平和なものにするための社会教育や犯罪処罰、また各人の霊魂を神信仰の教えや実践によって育成し豊かにするための宗教なども産み出され、それぞれ長い人類史の中で立派な成果をあげて来たが、神の御前ではこれらの社会・国家・宗教などの法規に対する違反の罪などは、交通違反の罪のようなもので、神が一番問題にしておられる罪は、やはり私たち各人の霊魂に潜んでいる人祖アダムの罪だけなのではなかろうか。これからの終末時代には各人の生活が極度の個人主義や多様化によってますます孤立化し、今はまだしっかりと立って秩序を維持し、住民を指導している社会も国家も宗教も内側から崩壊して行くと思われるので、これまでの伝統的法規に対する違反の罪も次第にその基礎を失い、世の終わりには神に対する従順と愛に反する人祖の罪だけが問題にされるのではなかろうか。そして各人の霊魂はその罪を免れているか否かを、神に厳しく問われるのではなかろうか。
 マタイ福音25章によると、主が最後の審判について語られた時、各人が生前にどれ程忠実に社会や宗教の法規を遵守していたか、どれ程多く社会や宗教のために働いたか、どの党派や宗派に所属して何を信じていたか、洗礼を受けたか否か等々のことは一切問題にされず、ただ助けを必要としていた病人・貧者・弱者の一人ひとりに対して為した隣人愛の言行だけを取り上げて裁かれるように話しておられるのは、この世の終末の時には、人祖アダムが裁かれた時のように、ただ神に対するパーソナルな従順と愛に生きていたか否かだけが問題にされ裁かれるからなのではなかろうか。使徒パウロがガラテヤ書3章で、神からモーセ時代に与えられた律法を「私たちをキリストに導く養育係」と規定し、そのキリストがお出でになった今では、「私たちはもはやその養育係の下にはおりません」と明言したように、主キリスト再臨の時にも、これまで私たちを護り導き育ててくれた社会や宗教の伝統も不要とされて、私たち各人の霊魂は、神に対するパーソナルな従順と愛に生きることだけが求められる状況に立たされるのではなかろうか。それは恐ろしい絶望的苦難の状況に置かれてからかも知れないが、そこではもはや前述した人間理性が産み出す理論や弁明は何の役にも立たず、その時に役立つのが、私たちがこの世に生を受けた胎児の時から持っている霊魂の知性と意志・心情だけであろう。日頃から神と隣人に対する感謝と奉仕的愛の心を育てて来た人は、この世の全てが絶望的になった終末状況に立ち至った時、霊魂に宿るそれらの能力が自分の内に活発に働き出すのを痛感するであろう。しかし、これまでの社会や宗教の法規は全て無用で遵守する必要はない、などと考えてはならない。法規の社会的側面は失われても、その法規によって養われて来た各人の習性は霊魂内に留まり続け、神に対する各人の従順と愛が重視されるアブラハム時代のような家族教会や個人教会の時代になっても、その信仰生活を新しく産み出し発展させるのに大いに役立つと思われるからである。

  余談になるが、筆者が1959年秋にイエズス会経営のローマの教皇庁立グレゴリアーナ大学に入学した時、学部は違うがその前年からその大学に学んでいた濱尾文郎師と親しくなり、筆者は一緒に大学の構内を散歩したり、その後も毎年の新年や天長節にヴァチカン駐在日本大使館での行事に出席して飲み交わしたりしていたが、濱尾師が1980年に横浜司教になってからも何回か一緒に会っていた。一度藤沢で食事をした時であったかと思うが、濱尾師は1970年3月31日に日本航空の「よど号」が赤軍派9人にハイジャックされ、乗客乗員134人が三日間韓国の金浦空港に閉じ込められた時に、その乗客の一人として「よど号」内にいたが、思わぬ非常事態の時には頭脳が働けず、祈ろうとしても祈りが出来なくて、ただロザリオの祈りだけを繰り返していたそうである。その回想談を聞いた筆者は、世の終わりに思わぬ大災害に襲われた時にも、私たちにできることは日々唱え慣れている祈りだけなのではないかと思った。そしてその時に備えて日々ロザリオの祈りや自分で決めた祈りを唱えているが、いかがなものであろうか。心の知性と心情を中心にして生きていた幼児期の素直な宗教心に立ち返り、あの世の神や保護者たちに日々呼びかけつつ生きる信頼と従順の実践的習慣を身に付けている人は、突然の災難に直面しても、日頃の祈りを心をこめて唱え続け、あの世からの御保護や助けを受けるのではなかろうか。


世の終わりが近づくにつれて増えると思われる現象

  1991年に京都の国際日本文化研究センターの客員助教授で宗教学者の正木晃氏と親しくなり、その後も暫く文通を続けていたら、国際宇宙法学者瀧澤邦彦と正木晃共著の『ここまで進んでいる宇宙の危機』(学習研究社1992年7月発行、287頁)という、興味深い著書を恵与された。そこには小型原子炉を搭載したスパイ衛星や宇宙ゴミの問題、オゾン層の破壊と紫外線の問題、宇宙での太陽発電の可能性、宇宙軍事化の危険なもくろみ等々、当時世界の科学者たちが話題にしていた各種の問題が手際よく解説されていたので、二人の著者には深謝しているが、ただ一つE・T (地球外の生命体)の存在に関する問題については、その存在の可能性を肯定している一部の科学者たちに、筆者は初めから否定的態度を堅持し続けている。第二次世界大戦直後の頃に、これまでの人類世界にはなかった様々なものが飛行するのを実際に見たというアメリカ人飛行士の話は、筆者も学生時代に読んだことがあり、その後も欧米やアジアでE・TやUFOを見たという証言がかなり多くあることも読んだり聞いたりしているが、それらの証言者たちは実際に見た体験を語っているのだと思う。

  上述の著書の66頁から68頁には、次のように記されている。「日本におけるE・Tへの関心はかなり興味本位で、オカルト的にとりあつかう傾向が強い。余談ながら、一部のオカルト雑誌の編集者の話では、E・TとUFOを特集した号は必ずよく売れるそうで、困ったときのE・T/UFO頼みという感じだという」「むろん、アメリカやヨーロッパでも、この種の傾向がみられないではない。ことに、旧ソビエトの崩壊前後には、かの地でE・TとUFOの発見が続いていたと、新聞雑誌にさかんに報じられていた」「しかし、そうした事態は、全体からするとやはり例外的とみなさざるをえない」「アメリカやヨーロッパにおけるE・Tへの関心は、歴史的にみても、一つの明確な見解を形成しつづけてきたからだ。E・Tを探すことは、即、人類の未来を探すことという見解である」「遠い宇宙のかなたから、私たち人類とコンタクトをとろうとする意志をもった生命体であれば、当然私たちと同等か、私たち以上の文明を築いているにちがいない。しかも、高度な文明を築きながら、人類とはちがって、文明に滅ぼされることもなく生存しているとすれば、彼らは文明の悪の所産を克服するノウハウを身につけ」ていると思われる。文明の悪の所産に苦しんでいる人類も、彼らからそのノウハウを学び取ることができるなら、「現在の段階を抜け出して、新たな文明の段階に到達できないともかぎらない。この考え方は、少なくとも、人々の心をどうしようもない底なしのニヒリズムから救う助けにはなろう。云々」

  筆者はこれを読んだ時、欧米の優れた科学者たちの一部が、なぜE・TやUFOなどの研究に積極的評価の発言を為しているのかの理由がようやく理解できたが、しかし筆者自身はかねてから、体験者の多いそれらの不思議現象はあの世の霊たちの働きと考えていたので、学者たちがこの世の事象の研究と利用のために神から与えられている人間理性をどれ程誠実に駆使しても、全ては徒労に終わるであろうと思った。新約聖書によると、救い主キリストの最初の来臨前後には、神の聖霊をはじめあの世の天使や悪霊たちが屡々出現したり人々に呼びかけたりしていたように思われるが、その主の再臨が近い終末時代にも、あの世の天使や悪霊たちが幾度も人類に出現し働きかけるのではなかろうか。天使はルネサンスの芸術家たちが描いたような美しい姿や翼を持って現れると考えてはならない。現代文明の中に生きる人たちに対しては、天使も悪霊も空飛ぶ円盤や衛星のような姿で現れたり、宇宙人のような姿で話しかけたりすることがあるのではなかろうか。マタイ福音の28章には、主が復活なされた朝にその葬られた墓を訪れた婦人たちに、雪のように白い衣をまとい稲妻のように輝いている天使が、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。云々」と話し、使徒言行録1章には、主の御昇天を仰ぎ見ていつまでも天を見つめていた弟子たちに、白い服をまとった二人の男が傍に立って、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を見上げて立っているのか。云々」と話しかけた天使と思われる存在の話がある。終末が遠くないと思われる現代にも、それとは違う新たな形でもっと頻繁にあの世の天使や悪霊たちの出現や呼びかけがあるのではなかろうか。この世の人類よりも遥かに優れた知性の持ち主であるあの世の霊たちは、私たちの話し言葉で私たちに話すことができるのではなかろうか。この世の能力である理知的な人間理性であの世からのそのような呼びかけに対応しようとするのは、勝手な誤解を産み出して危険にもなり得ると思う。各人の霊魂のあの世的認識能力でもある知性と霊魂に宿る愛の心情とで、その呼びかけに対応するように心がけたい。

  ところで、私たちの霊魂に宿る知性や心情を目覚めさせ磨き上げるには、この世の外的事象にだけ心を向けていては不可能で、この世の事象の背後に隠れて働いているあの世の霊たちに心を向ける必要があるのではなかろうか。偉大な芸能人や著作家たちは、芸能的能力でもある霊魂の知性を磨いてその傑作を世に残したようだが、豊かさ・便利さに溢れている現代文明の世界に生きる私たちも、自分の望みのままに自由に利用できる目前の富や事物に心を囚われることなく、むしろこの世に生まれて間もない幼子の心に立ち戻り、この広大な大自然界とその中にある全ての存在や事象の上におられる創造神の親心に、日々深く感謝することから始めるならば、私たちの霊魂の奥底に宿る知性も心情も目覚めて、新たに働き始めるのではなかろうか。そしてこの世の富や事物に対して半ば奴隷のようになって営んで来た、これまでの生き方から解放された霊魂は、幼子の若々しい自由な意欲に満たされ、神目指して新しく生き始めるのではなかろうか。心の奥の霊魂が素直な幼子のように感謝と愛の精神で生き始める時に、私たちが神から戴いている知性も心情も新しい希望に目覚めて働き出し、筆者は、神もあの世の霊たちもそのような霊魂に近づき働きかけて来ると信じている。その霊たちの中には、私たち各人の守護の天使だけではなく、私たちの無数の祖先や父母の霊たちも、あの世の知人・恩人たちの霊たちもいると考えてよいであろう。筆者はこのような考えから、あの世の霊たちの保護や助けを祈り求めながら生活している。終末時代には、このようにしてあの世の天使や先輩死者たちから内的助けを受けながら、迫り来る各種の苦難を忍耐の内に駆け抜けるのが、主のお望みになる私たちの生き方なのではなかろうか。

  昨年の12月7日の昼頃に、筆者の住む神言神学院からそれ程遠くない、名古屋市昭和区のアパートに住んでいた名古屋大学の女子学生(19歳)が、12月初めに無職の森外茂子さん(77歳)から宗教の勧誘を受けたことから知り合いになり、森さんに案内されて市内の宗教施設での日曜集会に参加した後に自分の部屋に招き入れ、庭作業などで使う手斧で後ろから森さんの頭を数回殴り、倒れた森さんの首を森さんのマフラーで絞めて殺害し、黒い服を着てマフラーを首に巻いたままの姿の森さんの遺体を風呂場の洗い場に移して放置し、自分は東北地方の実家に1月26日まで帰省していた、という事件が発生した。1月27日からの愛知県警による取調べで明らかになったことによると、女子学生は「幼い頃から人を殺してみたかった」「誰でもよかった」と供述しており、凶器の手斧は中学生の頃から手元に準備していたとも答えている。そして「高校生のころ、同級生に毒を盛ったことがある」という趣旨の話もしたので、宮城県内のその私立高校に問い合わせたら、2012年6月に男子学生一人が体の不調を訴えて度々欠席するようになり、10月には視力の低下などで病院に入院して調べてもらったら、医師から薬物が原因と指摘され、警察にも通報して理科室などの薬品を調べたが、その生徒の体から検出された薬物は見つからず、生徒の自宅や通学路を点検しても、不審な点は検出されなかったという。その男子生徒は同年12月から13年7月まで休学したが、その後も体の不調が続いたので、14年3月に特別支援学校に転出したという。愛知県警によると、女子学生の室内にあるキャリーバッグの中にはパソコンと手斧(長さ37cm、重さ900g)があり、収納スペースには携帯電話や財布が入った森さんのカバンもあったという。しかし、現金が盗まれた形跡はなく、斧の柄には血を拭き取ったような跡があったという。報道陣の取材に応じた私立高校の教頭は、その女子学生について、「しっかりと勉学に取り組んでいた。出席が少ないということもなかった」「三年間育て、卒業要件を満たして送り出した大事な生徒です」と話したという。なお、女子学生の昨年4月以降の短文投稿サイト「ツイッター」には、殺人への憧れを示す内容の書き込みが幾つもあって、「逮捕される夢をみた。怖かった」(4月19日)、「夢の中では人殺しでした」(11月23日)、「名大出身死刑囚って、まだないんだよな」(12月5日)、「ついにやった」(12月7日) などの言葉が読まれるという。名古屋地検は、その供述内容や生活実態に理解し難い面があると判断し、名古屋簡裁の認可を得て、拘留を今年の2月12日から5月12日まで三ヶ月間停止して、専門機関による精神鑑定を受けさせることにした。

  以上が、今年の1月末と2月中頃の新聞に載ったその女子学生についての記事であるが、東北から名古屋大学の入試に合格したその学生は、勉学の上では優等生であったと思われる。筆者の推察では、その女子学生は殺人犯になっても、自分の心の中にそれ程深刻な自己矛盾の悩みを痛感しておらず、長年来の夢を遂に達成することができたというような、一種独特の達成感を覚えているのではなかろうか。もしもその殺人がいつまでも世に知られずにいたなら、その学生はその目的達成の歪んだ喜びを心にとどめつつ一人で満足していたであろうが、しかし、たとえ世に知られて投獄されても、この世に生を受けて自分が自由に選んだ一つの難しい目的を達成し世に示したのだ、それは誰でもができるようなことではないのだ、というような一種の歪んだ優越感を持ち続けているのではなかろうか。そして精神医たちによる精神鑑定を受けても、その犯罪は本人の自由意志に基づく行為とされて、家裁に送致されるのではなかろうか。昨年の夏にも佐世保市で高校一年の女生徒が同級生を殺害し、「人を殺してみたかった」とその動機を説明したそうだが、精神鑑定を受けたその少女の少年審判が間もなく始まると聞いている。このような殺人は今後も起こり得るのではないかと思われるので、今の日本でそのような行為がどのように裁かれるのか、注目していたい。

  上述したように、二、三歳児の心には素直に親の言うことに従い、神にも人々にも喜ばれる神から創造された霊魂に基づく良心と共に、その陰には、その従順で素直な良心の成長を妨げ覆い隠す成長旺盛な雑草、即ち自己中心的な古いアダムの精神を宿す利己心もあるようで、この古いアダムの心をそのままにして置くと、家庭や社会の伝統的共住生活機能が内面から崩壊して来ている現代の自由主義文明社会では、全てを理知的に理解し利用し支配しようとする理性一辺倒の精神で、何でも自分中心に思いのままに利用しようとする古いアダムの雑草精神が心の中にはびこり、そこに悪霊が働きかけて、誰でもよいから人を殺してみたい、などの反社会的好奇心まで心に生み出されるのではないか、と筆者は考えている。奥底の霊魂に根ざすその人の良心は、子どもの時から古いアダムの雑草精神・自由主義精神に完全に覆われ、眠り続けているのではなかろうか。そう思うと、このような犯罪行為は、世の終わりには悪霊の働きが多くなるとヨハネの第一書簡2章に記されている言葉も考慮すると、極度の個人主義社会・自由主義社会になりつつある現代文明世界には、これからも数多く発生するのではなかろうか。


各人なりに、あの世と共に生きること

  筆者がローマから帰国して間もない1972年には、「悪魔が憎い」というジャパニーズ・ポップスが流行したことがあった。それは、お前の胸に宿る悪魔が憎いという意味の歌であったと思うが、筆者の脳裡には最近、この歌の歌詞を言い替えたような、新しい「悪魔が憎い」の歌が誰かによって作詞作曲されるかも知れない、という想像が去来する。近年、大小の悲惨な殺人事件やテロ事件がわが国でも他国でもこれまでに無かったほど多発して、その背後には悪魔が働いていたのではないかと思うことが多いからである。しかし、悪魔は我々人間よりは優れた知性能力を持つ霊的存在なので、いくら憎んでも反対しても巧みに人の心に入ってくることのできる存在、周辺の人々の心に入って私たちの自然の力では抵抗し難い圧力をかけることもできる存在である。そのような霊力を持つ悪魔に対しては、この世の働きのために与えられている人間理性の能力ではなく、あの世の神や天使・聖人たちに助けを願い、あの世の存在の助けで悪霊を退ける以外に道はないと思う。そこで、あの世の存在の助けを受けるにはどうしたら良いかについて、筆者が日々心がけていることを、ご参考までに二つほど紹介してみよう。

  今84歳の筆者は、80歳になった頃から次第に視力や聴力の衰えを痛感するようになり、祈りの言葉を読み違えたり、電話の声が聴き取れずに用件をファックス便で知らせてもらったりしたことが幾度もある。肉体の老衰に起因するこのような不調は今も続いており、筆者は、自分の心がこのようにして幼児の心に近づいて行くことに多少の喜びも感じている。大学を定年退職して既に十数年になるし、大学や後輩教員との関係も薄れているので、これからは何よりも無事あの世に行くことを願い求めつつ生きよう、と思うようになっている。そしてマタイ18章3節に読まれる、「あなたたちは心を入れかえて幼な子のようにならなければ、天の国には入れない」という主のお言葉を心に銘記しつつ、日々「自分を低くして」幼な児のような感謝と信頼の心で天地万物を眺め、同じその心で誰にでも接するよう心がけている。明治時代のラゲ神父訳の新約聖書では、主のこのお言葉が「汝等若(モシ)翻(ヒルガエ)りて幼児の如くに成らずば」となっているから、原文では「心を入れかえて」に強い表現の動詞が使われているのではないかと思い、筆者は神学生の頃から、自分を低くして霊的に幼児のようになることを、自分の全てを無にして、生まれた直後頃の幼児の心に立ち返ることの意味で受け止めて来たが、主のこのお言葉をこのように受け止める精神は今でも変わっていない。修道者として日々唱えている『教会の祈り』の中には、例えば第一土曜日の読書課に唱える詩編131番などに、「心静かに私はいこう、母の手にある幼な子のように。心静かに私はいこう、神の前にある幼な子のように。云々」とある祈りを唱える時には、筆者は心に小さな喜びを覚える。遠からず死を迎える筆者は、これからもこの精神を大切にしていたい。

  知人の多い筆者は、1970年代からは病床に伏して死に行く恩人・知人たちを見舞うことが多くなり、それは今も続いている。長年そのような生活を続けていると、あの世は筆者にとってもはや遠く離れた他国の世界ではなく、目には見えないがいつも身近に現存する世界のように思われてならない。それで筆者が心がけている第二のことは、日々自分の守護の天使にも、また既にあの世に召された自分の祖先、親兄弟、恩人、友人、知人たちにも呼びかけ、あの世からの護り・導き・助けを願い求めることである。筆者は神言神学院の最上階である四階に住んでいるが、毎日その階段の上がり下がりにあの世の保護者たちに対するそのような祈りを唱えていると、不思議に自分の日常生活が順調に護られ導かれているように覚えて感謝している。昨年8月の拙稿にも述べたように、筆者は、あの世にいる無数の親族、恩人、知人の霊魂たちは、心情的知性とこの世で営んだ人生についての詳細な記憶とを保持しており、主の再臨によって不死の肉体に復活するまでは頭脳も人間理性も持たないので、自分の死去以降のこの世の出来事や人類史は知らずにいるであろうが、しかし、この世の人たちがあの世に向かってなす祈りや、その霊魂たちに対して為す呼びかけなどは、神の計らいによって受け止めているのではないかと考えている。聖書にはこの事について何も記されていないが、そのように信じてあの世の霊魂たちに導きや助けを願い求めていると、その願いが聞き届けられたと思うような体験をしたり、ごく稀にはあの世の人が夢に現れたりすることがあるから、筆者は数多くのそのような体験に基づいて、個人的にそのように考えている。聖書にあるように、既に不死の肉体に復活して昇天なされた主キリスト、並びにカトリック教会が信仰箇条としているように、その主にあやかって同じく不死の肉体に復活して天にあげられた聖母マリアは、この世の人類史も私たちの生活実態も、神と共にことごとく観ておられるので、その主と聖母マリアに対する祈りは全てお耳に届いていると信ずるが、守護の天使やあの世の霊魂たちに対して為す私たちの祈りも、先方に届くのではなかろうか。あの世では父なる神の御旨に従うことが最高の掟になっているから、この世の人間の望み通りにすぐに反応したり、願いを聞き入れてくれるとは限らないが、祈ればあの世の人たちと心は通じ合えると信じていると、あの世からの導き・助けと思われるような小さな徴を時々体験する。


あの世の霊魂たちと世の終わりに復活する人類についての、筆者の個人的想像

  日々あの世の神に祈り、あの世の霊魂たちに呼びかけたりしていると、世の終わりに皆ともどもに栄光の肉体に復活する日を待望しているその霊魂たちは、今はどのような生き方をしているかについても、時々全く個人的な想像が脳裡に去来する。筆者は今年の1月にアメリカの映画「天国はほんとうにある」を勧賞し、その映画の原作本、トッド・バーポとリン・ヴィンセントの共著『天国はほんとうにある』の邦訳(青志社発行)も買って読んだり、その邦訳書を他の人たちに貸したりしているが、2003年に病院での大手術中に臨死体験をした四歳のコルトンちゃんは、他の多くの臨死体験者たちのように、手術室で医師や看護師に囲まれている自分の体を上から見たり、その時そこから離れた別々の部屋で、父や母がそれぞれ何をしていたかを見たりしただけではなく、実際にあの世にまで導き入れられて、天国におられる主イエスに会ったり、とうの昔に死んであの世に生きている多くの人たちに、実際に会って来たのではないかと思われる。カトリックの信仰によると、主の再臨時に復活する栄光の肉体ではないから、不死の肉体に復活なされた主イエスや聖母マリアを別にして、その人たちの生きているのは世の終わりに復活する永遠不死の体ではないが、しかし、天国では将来のその復活体によく似た各人の霊体のようなものが、既に与えられているのではなかろうか。以前にも扱ったことのある臨死体験関係の立花隆氏の著書に登場する数多くの臨死体験者たちが、天国の中にまで入った体験をしていないのは、いずれも十歳代以上の大人で、その霊魂がまだマタイ18章3節に読まれるような「幼子」の心になっていなかったからなのではなかろうか。それに比べると、牧師の幼子で敬虔な父母に育てられたコルトンちゃんの霊魂には、大手術を受けた時点で古いアダムの自己中心の雑草が殆ど根を張っておらず、天国に迎え入れてもよいと思われたからなのであろう。コルトンちゃんは記憶力旺盛な霊魂の能力で見聞きしたことを、その後折りに触れて父母に断片的に語ったようだが、それによると、天国では老人も病人もメガネをかけた人もいないそうである。察するに、それは各人の神から受けた全ての遺伝子が十全に成熟した状態の姿、この世の年代で言うなら三十歳代か四十歳代の姿で生活している人が多いからなのではなかろうか。コルトンちゃんが天国で会ったという1975年に死んだ祖父も、メガネをかけた老人の顔ではなく、もう少し若い時の顔だったようである。

  アメリカにはもう一人、その数年前の四歳の時に天国を見て来たというアキアナ・カラマリックという女の子もいて、六歳の時から絵を描き始めたが、そのアキアナさんが八歳の時に描いたイエスの絵を見た七歳のコルトンちゃんは、じーっとその絵を観察した後に、「お父さん、これは合っている」と言って、自分が天国で会って来た主イエスのお顔とよく似ていると証言したそうである。上述した訳書の144頁に載っているその絵の写真から察すると、主イエスはこの世の人生の三十歳代か四十歳代のお姿で、あの世に働いておられるのではなかろうか。察するに、既に久しい以前に他界しあの世に生きている私たちの先祖、父母、恩人、友人、知人たちも、皆同様にこの世の人生の半ば代の大人の姿であの世で生活し、私たちのために祈っているのではなかろうか。まだキリスト再臨後の栄光の肉体に復活していないので、その霊魂たちのいる世界は最終的な栄光の天国ではなく、各人が神から頂戴しているあの世の栄光の人生のための遺伝子も、殆ど皆眠ったままであると思うが、しかしその復活を待望しつつ、神と万物に対する愛と祈りの内に、静かに生きているように思われる。

  コルトンちゃんの話によると、あの世では小さな子供の姿でいる霊魂たちも大勢いるそうで、そのうちの一人の女の子が走って来てコルトンちゃんを抱っこし、離してくれなかったそうである。その女の子から聞いた話に基づいて、コルトンちゃんはある日、「ママ、僕の姉ちゃん、二人いるんだよ」と話し始めた。母が、一緒に生活しているキャシー姉ちゃんと、もう一人は従姉妹のトイレシーのことかと尋ねると、「違う」と強く否定し、「ママのぽんぽんで死んじゃった赤ちゃんいたでしょ」と、数年前の流産で産まれてすぐ死んだ赤ちゃんから聞いた話を始めた。「その女の子の名前はなんと言うの」と尋ねると、「名前はないよ。パパとママ、名前つけなかったでしょ」と答えた。母は髪の毛が黒いのか、自分から生まれた姉と弟の二人が、パパにそっくりの髪の毛であることに、小さな不満を口にしたことがあったそうだが、コルトンちゃんから、あの世にいるその女の子の「髪は黒いの」と聞いて、一層驚いたようである。

  ところで、自分の肉体がこの世の病院に寝かされているのに、あの世の姉に抱っこされたというコルトンちゃんの言葉はどう理解したらよいのか、と迷われる読者もいるかと思うので、これについての私見も一言述べてみよう。上述のように人間理性はこの世の事象を理解し利用するために神から与えられた能力なので、この世の三次元世界に属さない異次元の事象を理性で理解しようとすると、誤りに陥り易いと思う。コルトンちゃんの霊魂が見聞きして来た現実は、霊魂の知性的能力で受け止めるべきなのではなかろうか。旧約聖書のトビト記には、天使ラファエルが人間の姿で現れ、人間の言葉を話しながらトビアの息子トビトと一緒に長旅をしたことが詳述されているが、神はあの世の霊である天使たちに、この世の人間たちの姿で現れたり話したりするような能力を与えておられるのではなかろうか。神学者聖トマス・アクィナスによると、人間の霊魂はその天使たちの霊界に属していて、天使たちには劣るが、天使たちと同様の霊力を神から与えられているようである。昔から各地の人間社会には死者の幽霊を見たという話が多く語られているが、それは肉体が無くても人間の霊魂がそのような姿や言葉を産み出す能力を神から与えられていることを示しているのではなかろうか。筆者はこのように考えて、コルトンちゃんの霊魂は自分の霊体を産み出して、この世とは違う現実である異次元世界を動き回り、実際に自分の姉に会ってその言葉を聞いて来たのではないかと思っている。察するに、コルトンちゃんのようにすぐにはその天国に入れてもらえるような子供の心になれず、この世と共存しながらその天国の手前に広がっている異次元世界を移動しつつ、自分がこの世で出会った人たちを眺めたり、自分のこれまでの人生を振り返ったり、その人生の中で働いている神の深い愛に目覚めたりしながら、神から与えられた霊魂の原初の子ども心を時間をかけて取り戻してから、コルトンちゃんの霊魂が見て来た天国に入れてもらう死者の霊魂たちも多いのではなかろうか。数多くの大人の臨死体験者たちは、そのような異次元世界について語っているように思うが、いかがなものであろう。筆者は死んだ知人のためにミサを捧げる依頼を受けた時には、いつもそのような事を考えながら、その知人の霊魂のあの世での旅路に、神の恵みと導きが豊かにあるようにと祈っている。察するに、異次元世界の霊魂の旅路には乗り越えなければならない困難も多々あって、なかなか天国の幸せな状態に辿りつけずにいる霊魂たちも多いことだろう。筆者は、この世の私たちがその霊魂たちのために為す祈りが神に受け入れられ、その霊魂たちにも喜ばれているように思っている。

  ところで、コルトンちゃんが臨死体験の状態で見て来て話す天国を、救いの恵みに浴している人類が、主キリストの再臨して新しい肉体に復活する時に始まる、栄光の天国と同一視してはならないと思う。コルトンちゃんの見て来たのは、今既にあの世に存在する天国の一場面で、そこには主キリストも三位一体の神も天使も、また多くの死者や子供たちの霊体も存在し、お互いに話し合うこともできるようだが、しかし、主の再臨時に始まって永遠に続く、全宇宙規模の広大な栄光の天国ではない。マタイ25章に記されているように、最後の審判者の主が「さあ、世の初めからあなた方のために用意されている国を受け継ぎなさい」と言って入れて下さる天国は、神が世の初めから創造して来られた全宇宙に広がる国で、栄光の肉体に復活した人類は、ちょうど二千年前の復活の主イエスのように、果てしなく広いその新しい宇宙の中を自由自在に瞬間的に移動しながら神の創造の御業を勧賞して神を称え、神に感謝する至福の人生を営むのではなかろうか。2012年8月の拙稿や昨年12月の拙稿にも述べたように、その時には各人が神から戴いている30億にも及ぶヒトゲノムの塩基のうち、この世ではまだoffの状態に留まっていた93%の塩基も皆働き出すと思われるからである。それらの遺伝子の働きで、私たちはこの世での自分の先祖や恩人・友人・知人たちをも簡単に見出し、共に喜び合うことができるであろう。使徒パウロはローマ書8章に、「被造物は神の子らの現れるのを、切なる思いで待ち焦がれているのです」「被造物も、やがて腐敗への隷属から解放されて、神の子らの栄光の自由に与るのです。云々」と書いているが、主の再臨後にはこの世の宇宙の全ての被造物が、主の贖いの恵みに浴して復活の栄光に輝き、無数の星たちも全ての植物も動物も復活して、全く新しい美しい生き方を始めるのではなかろうか。そして全ての被造物の霊長と立てられて、主キリストの命に生かされている人類は、その果てしない美と喜びを享受しつつ、永遠に神に感謝と賛美の歌を捧げ続けるのではなかろうか。

  昨年8月の拙稿にも一言述べたことだが、地獄に墜ちて悪霊の手下にされた無数の霊魂たちについては、嘆き苦しむことぐらいで、聖書に詳述されていない。しかし筆者は個人的に、神の御旨に従わない悪霊たちも地獄に墜された霊魂たちも、その存在意義が全く無いのではなく、何らかの形で下から天国での神の国の繁栄を逆説的に支え、神の正義の厳しさを永遠に証し続ける存在、新しい神の国の発展を促し続ける地盤として新しい栄光の世界に貢献するのではないか、と考えている。天文学者たちは、この世にも目には見えないが大量の暗黒物質や暗黒エネルギーが存在して、宇宙の存在や発展を支えていると立証しているが、あの世の栄光の宇宙も、無数の悪霊たちや地獄に墜ちた霊魂たちに支えられて存在し発展し続けるのではなかろうか。これらの全ては、あの世に行ってから明らかになるであろう。


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