終末時代の到来に備えて(前)
2013年12月 青 山
玄
はじめに
クリスマスに発行を予定して執筆し始めたこの原稿が、途中で思わぬ個人的支障が生じて大変送れてしまったことを、まずはお詫びしたい。筆者は昨年の8月に「終末的様相を呈する時代に備えて」と題し、そして今年の8月には「神学生の時から学んで来た筆者の来世観」と題して、遠からず到来すると思われるこの世の終末時代について、筆者の心に浮かぶ考えをいろいろと述べて来た。今回もそれらと多少重複するが、そこにまだ述べていなかった補足的考えを読者にお知らせしたい。
12世紀に聖マラキがローマ教皇庁に届けさせた予言的文書
聖マラキは1094年にアイルランドの古都アーマーで生まれ、子供の時から教会の近くに住む隠遁者と親しくなり、学問に励む傍ら瞑想生活も愛好していたと聞く。1119年に25歳で司祭に叙階されると、アーマーのセルス大司教を助けて活躍したり、修道院を創設してその院長になったりしていたが、1132年に大司教が死ぬと、その後継者に任命された。そして1139年にローマを訪問する途中、行きにも帰りにもフランスのクレルボー修道院に立ち寄って聖ベルナルドとの親交を深めた。1148年に教皇エウゲニウス3世が訪仏すると聞いて再びフランスに渡ったが、教皇は予定を変更してイタリアに戻ってしまった。そこでローマまで行くことにしてクレルボー修道院に立ち寄ったら、そこで激しい熱病で倒れ、聖ベルナルドに看取られながら、54歳で息を引き取った。1148年11月2日のことで、ご遺体はその修道院の近くにある教会に埋葬されたが、聖マラキは1190年に教皇によって列聖された。彼の死後聖ベルナルドが著した『マラキの生涯』によると、聖マラキは生前にも死後にも、取次ぎを願って祈る人たちの病気を癒す奇跡をなしたり、優れた予知力によって人々を助けたりしていたそうである。1148年に彼がフランスに来たのは、神からの啓示に基づいて認めた、世の終わりまでのローマ教皇の特性についての文書を教皇庁に渡すためだったのではなかろうか。聖マラキのその予言的文書は、彼の死後なお5年程生きていた聖ベルナルドによって教皇庁に届けられたようだが、そこには聖マラキが大司教であった時の教皇チェレスティヌス2世(1143〜44)と、それ以降のローマ教皇112人の特性と思われるものが、通常二つ乃至三つのラテン語の言葉で簡潔に表現された一覧表が記されていた。112人の教皇の中には15世紀始め頃のアビニョン教皇庁時代の対立教皇もその登位年順に記録されているが、教皇名は一切記されていない。この文書は教皇庁で恐らく門外不出とされいたと思われるが、450年ほど後の1595年に、オランダ生まれのべネディクト会員アーノルド・デ・ヴィオンが、ヴェネツィアで出版した著書『Albor
Vitae(命の木)』の最後の数ページに収録されている。筆者はそのコピーを入手しただけであるが、「命の木」という題名は、神が創世記2章に楽園の中央に成長させられたという善悪の知識の木と並ぶ、命の木を指している。私たちはこの「命の木」からも学ぶよう、努めるべきなのかも知れない。
13世紀以来徐々に大きく建設され、1823年の火災で焼失した後に1854年に再建されたローマの聖パウロ大聖堂の中央身廊の側面には、聖マラキのこの一覧表に基づいて112の小さな円枠が設けられ、そこに教皇チェレスティヌス2世を始めとする歴代教皇の顔が刻み入れられているが、無数の大きな大理石でこの大聖堂の再建を支援し献堂した教皇ピオ9世(在位1846-78)は、12世紀から当時までの各教皇在位の時代を調べた上で聖マラキの予言的文書を神よりの啓示と信じ、その予言に基づいてこれらの円枠を造らせたのだと思われる。そこで余談になるが、そのピオ9世の人柄について筆者がイタリアで見聞して来たことに基づいて、少しだけ私見を述べて置きたい。筆者はローマのグレゴリアナ大学で教会史を研修した時に、1961年の後期であったかと思うが、当時ヴァチカン古文書館館長を兼務していた、高齢のイエズス会員Joseph
Grisar(1886-1967)教授の最後の講義「ピオ9世について」を受講する好機に恵まれた。この教授の案内で私たち受講者は、一度ヴァチカン古文書館内に案内され、通常は専門の研究者であっても参観する機会に恵まれることの少ない、紀元800年にシャールマニュ大帝とローマ教皇との間で締結された条約の原本やその他、数々の非常に貴重な古文書の現物を実際に手に触れて観ることができ、感激した。
この教授の講義が行われていた期間に、筆者はピオ9世の出身地セニガリアの神学校から、神言会のパドヴァ神学校のイタリア人神父を介して、12月3日に聖フランシスコ・ザビエルについて話をして欲しい、との依頼を受けた。イタリアに来て1年数ヶ月の筆者には、まだその依頼を引き受けるほどイタリア語を話す事は出来なかったが、その神父の話では、ピオ9世は1862年に日本26聖人を列聖し、67年に日本205福者を列福するなど、キリシタンにも日本国にも大きな関心を持っておられた教皇なので、その故郷の神学生たちは日本人司祭に会うことを望んでおり、ザビエルについての話は自分がするから、日本人の顔を見せて一言挨拶するだけでも良いから、依頼を受けて欲しいとのことなので、ローマとパドヴァの中間にあるアドリア海側のセニガリアの町まで、三日二晩の一人旅をした。後で考えると、この旅行は神の摂理によって筆者に与えられた特別のお恵みであったようである。というのは、筆者はこの機会にピオ9世の生家を訪問して、そこに展示・収録されている多くの資料を見聞し、その一部をコピーして、間もなく「教皇ピオ9世の生い立ちと公会議招集までの歩み」と題するイタリア語の小論文を作成し、Grisar教授に提出することができたからである。教授からも評価されたこの論文は、後年補足されて邦訳され、1979年9月発行の『南山神学』第2号に収録されている。筆者はこの論文作成の過程で、ピオ9世は子供の頃から聖母マリア崇敬に熱心な聖者なので、いつか列聖される日が来るであろうなどと考えていたが、教会史上最も長い32年間という教皇在位を記録したピオ9世の言動には、この世の実証主義的理性には説明し難い不可解なことが少なくないようである。Grisar教授は、ヴァチカン古文書館に保管されているピオ9世関係の全ての文書を通覧したそうだが、それらの文書の一部は公開すると今の時代の人たちから大きな誤解を招く虞があるので、公開することは出来ない、と講義の中で力を入れて話しておられた。当時イタリア政府関係の歴史家たちから、ピオ9世の書き残した文書の公開を望む要望がなされていたので、筆者はその時それは政治外交問題に関する文書のことかと思ったが、後述するように、今ではもっと別の出来事についての文書ではなかろうか、と思い直している。
ピオ9世は1830年にパリでの、また1846年にフランスのラ・サレットでの聖母の御出現にも積極的に関心を示しており、ご自身でもあの世からの呼びかけに心を開いている預言者的精神の持ち主であられたので、1848年6月にイエズス会神学者Carlo
Passagliaら当時一流の神学者20名からなる委員会を設置して、聖母マリアの無原罪問題について研究させ答申させたが、その神学者委員会からの否定的な答申に抗して、54年12月8日に大勅書を発布して聖母の無原罪を信仰箇条として宣言した。それで当時の合理主義的神学研究の立場を捨てきれずにいた上述のPassaglia教授は、ローマを離れてイタリア統一を目指して政治的にローマ教皇領と対立していた北イタリアのピエモンテ・サルディニア王国の領地に移住したが、聖母無原罪の信仰が、58年にルルドに御出現になった聖母のお言葉に保証されて各地に広まり始めると、ピオ9世は69年12月8日から第一ヴァチカン公会議を開催して、教皇による信仰宣言などの不可謬性を議決させる方向に、公会議を導き始めた。Grisar教授が文書の公開に強く反対したのは、これらの動きにまつわる教皇の言動に、合理主義・実証主義の支配する流れの中で生活している今の世の人たちの誤解を招く虞があるからなのかも知れない。しかし、次の教皇レオ13世(在位1878-1903)が1881年に、歴史学者たちによる原典史料に基づいた客観的教皇史研究を可能にするために、ヴァチカン古文書館に保管されている各教皇の関係資料は、その教皇の死後100年を経ないものは未公開のまま保管するが、それ以外のものは全て学者たちによる研究のために公開するとお決めになったので、当時の歴史家Ludwig
von Pastor(1928没)は、16巻に及ぶ浩瀚な教皇史(一般に「ルネサンス教皇史」と呼ばれる)を執筆することが出来た。それで筆者は、1978年にはピオ9世関係の文書も全て学者たちの研究に提供されると期待していたが、なぜか未だにそれは未公開のままになっている。何故なのだろう、と考えていたらふと、その公開を阻止する理由は、百数十年前の教皇庁の政治外交問題でも、当時の合理主義・実証主義の流れでもなく、それらの文書には教皇庁の将来に関わるピオ9世の預言者的な言葉が含まれているからなのではなかろうか、と思うようになった。いつであったか筆者は一度この紙面で、偉大な預言者聖ヨハネ・ボスコが世の終わり前に教皇がヴァチカン宮殿を去る幻示を観た事を書いたが、その聖ヨハネ・ボスコと臨終の時まで親しくしておられたピオ9世は、聖マラキの予言的文書などからも、ローマ教皇庁の将来について大きな不安と悲観的幻想を抱き、そのことで度々苦しんでおられたのではなかろうか。そこで次に、その聖マラキの予言的文書がピオ9世とそれ以降の教皇たちについて、どのように記しているかをごく簡単に垣間見てみよう。
聖マラキの予言的文書に読まれるピオ9世と
それ以降の教皇たちについて
聖マラキの予言的文書には、ピオ9世についてCrux de cruce(十字架の十字架) と記されているが、筆者が聖人と信じているピオ9世のご生涯は、まさに「十字架の十字架」と言ってよいように思われる。アンコーナに近い商人町セニガリアの支配階級に生まれた教皇は、保守勢力にもフランス革命後の革新派の諸勢力にも等しく心を開いて、両派の協力で新しいキリスト教世界を造ろうとしていた人で、1827年に35歳でスポレトの大司教に任命されると、進歩派の自由主義者たちに対する教皇庁の極端な弾圧政策に反対し、その4年後には教皇領内で革命の動きを扇動したとして警察から追求されていた若いルイ・ナポレオン(ナポレオンの甥で、後のナポレオン3世)を匿い、その母と共に司祭をつけて密かにスイスに逃してあげた。それでその温厚な人柄の故に保守主義者の間でも民衆の間でも人望が厚く、1840年に枢機卿にあげられ、46年6月にはわずか2日間の選挙で、当時としては異例に早く教皇に選ばれた。教皇領の国王としては、積極的に産業革命を導入して鉄道の建設を始めたり、教皇領の国防を担当していた極度に保守的であったオーストリア軍からの自由を望む進歩派の要求に従って、教皇領の国防軍を創設したり、48年3月には教皇領のため上下二院から成る議会政治の設立を宣言し、その憲法を公布したりした。しかし、この48年2月に出版された『共産党宣言』が翻訳されてヨーロッパ各国に広まると、パリの2月革命を始めとして、ベルリン、ブタペスト、ウィーンなどに革命の火の手があがり、11月には教皇領の下院議会開会日に首相ロッスィが暗殺された。教皇ピオ9世も身の危険を痛感し、変装して密かにナポリ王国のガエータに逃れた。そしてかつてその命を助けてあげた新しいフランス共和国の主権者ルイ・ナポレオンに援助を要請して、ローマの秩序がフランス軍によって回復された後、50年7月にローマに戻ることができた。教皇はこの苦い亡命期間中に、聖母が46年9月にフランスのラ・サレットで二人の牧童メラニーとマクシメンに御出現になって告げられた、様々の悲観的な警告を入手してそれに傾倒し、同じ頃に聖マラキの予言的文書にも強く惹かれたのではないかと思われる。そこには御自身の教皇在位期について、「十字架の十字架」と述べられていたからである。詳述は避けるが、ピオ9世の教皇在位期はまさにこの言葉通りと申してよいように思う。
次のレオ13世は、Lumen in caelo (天空にある光)と予告されているが、1891年の労動回勅 ”Rerum novarum” やその他の回勅は、まさにその言葉通りの新しい道を近代社会に生きる教会に示しているように思う。しかし、この論稿が長くならないように、この教皇以降の教皇の事跡については削除することにしたい。次の教皇ピオ10世についてはIgnis
ardens(燃える炎)と予告されているが、この「燃える炎」は、典礼運動の奨励と聖体拝領の奨励などによって大きく達成されたように思う。その次の教皇ベネディクト15世はReligio
depopulata「人口の少なくなった宗教」と予告されており、これは第一次世界大戦によって敵味方双方の多くの戦士や住民が失われた状況での、宗教の新しい建て直しのことを予告していると思われる。その次に選ばれたピオ11世は、Fides
intrepida (恐れを知らぬ信仰)と予告されているが、この教皇がそれまでの全ての王国の国王が住民に対する支配力を失い、新たに住民主権の民主主義的政治勢力の強まる時代の流れの中で、主キリストを王と戴く「王たるキリスト」の祝日を定めたりしたことは、注目に値する。その次のピオ12世はPastor
angelicus(天使的牧者)と予告されている。筆者が神学生時代にラジオやテレビで得た数多くの情報を照らし合わせても、ピオ12世はまさに「天使的牧者」そのもののような教皇であったと言ってよい。その次のヨハネ23世についてはPastor
et nauta(牧者と水夫)と予告されていたので、筆者は神学生時代に同僚たちと、次の教皇には恐らくアメリカ人が選出されて、従来のヨーロッパ主導の教会内に新しい流れが始まるのではなかろうか、などと話し合っていた。しかし、70歳代後半のイタリア人ヨハネ23世が登位なさったので、マラキの予言通りではないのではと考えていたら、三カ月程して新教皇が公会議の開催を公言し、教会の現代化を目指して教会の伝統を初代教会のように柔軟な若々しいものに刷新する意向を開示なさった時、筆者は「牧者と水夫」という聖マラキの予言通りの教皇と感じるようになった。そしてその後に登場したパウロ6世教皇の時には、まさに聖マラキのFlos
florum (花たちの花) という予言通りと思っていた。しかし、その直後に登位したヨハネパウロ1世教皇については、「de medietate
Lunae (月の半分より)」という聖マラキの予告の意味が不明で、いろいろと見解が分かれてといるようなので、ここでは私見を控えたい。教皇パウロ6世は晩年、二、三の枢機卿がユダヤ系銀行業者にヴァチカン銀行の経営を譲り渡してしまったことで、「悪魔の雲がヴァチカンに入ってしまった」と嘆かれたと聞いているが、筆者も、国際的に独立国として認められいるヴァチカン市国内で、他国の税務監査を受けない銀行の運営には大きな不安を抱いている
。教皇ヨハネパウロ1 世がわずか一ヶ月程後で死去したのは、そのヴァチカン銀行関係者の排除問題と関連しているようである。次の教皇ヨハネパウロ2世は、De
labore Solis(太陽の働きより)と予告されており、教皇として為すべき諸問題を優先してこのヴァチカン銀行問題を後回しにしたため、この問題には関与せずに諸外国を歴訪し、数多くの大きな成果をあげたが、その後の教皇たちは、このヴァチカン銀行問題で苦慮しておられるのではなかろうか。前の教皇ベネディクト16世が引退なされたのも、その問題を断固として解決する心の若さの不足と関連しているであろう。この前教皇ベネデイクト16世について聖マラキは、Gloria
olivae (オリーブの栄光)と予告しているが、オリーブは殉教を連想させるから、優れた神学者であられる教皇が現代社会のマスコミから受けた数多くの批難・中傷を考慮する時、この表現は適合しているのではなかろうか。
聖マラキの予言的文書には、このGloria olivaeの教皇の次には、次のように記されている。In persecutione extrema
S.R.E.sedebit Petrus Rom. Qui pascet oves in multis tribulationibus; quibus
transactis, civitas septicollis diruetur, et Judex tremendus judicabit
populum suum. (最終迫害において、聖なるローマ教会にローマ人ペトロが着座しているであろう。彼は多くの苦難の中で羊たちを牧するであろう。これらのことが過ぎ去ると、七つの丘の町は崩壊し、恐るべき審判者が御自身の民を裁くであろう)と。聖マラキの文書の最後に読まれるこれらの言葉は、実際に事が実現してからでないと正しく理解できないと思うが、今の段階で仮に筆者の想像をめぐらすならば、ここに述べられている「ローマ人ペトロ」は現今の教皇フランシスコを指していると思う。ピオ9世が聖パウロ大聖堂に設けた112の円枠の最後を満たす現教皇は、聖ヨハネ・ボスコが予見したように、いつかは大きな勇気と決断心の内に教皇庁を去り、ヴァチカン市国を解体して、一介のローマ市民になられるのではなかろうか。それによってヴァチカン銀行問題は解消されるであろう。しかし、それがなされる時に受ける「最終迫害」と言われているものが、どのようなものなのかは不明である。察するにそれは、国家権力のような何かの法制的権力による迫害ではなく、もっと流動的で捉えようのないような噂の流布やマスコミなどによる内的迫害を指しているのかも知れない。前教皇のお心を悩まし引退に追い込んだのも、そのような迫害であったと称しても良いであろう。しかし、ヴァチカン市国が解体されると、すぐに七つの丘の町ローマが崩壊し、主キリストが再臨して最後の審判をなさる、という意味で上述の引用文を理解すべきではなく、シャールマニュ大帝の時から1200年以上も続いた教皇の領地が無くなっても、それによってカトリック教会は、主キリストによって創立された直後頃の内的状態に立ち返り、新たに若々しい希望と意欲をもって働き始めるのではなかろうか。全てが極度に多様化し分散の動きを孕んでいる現代世界の流れを観ていると、カトリック教会だけではなく、他の諸宗教も、数多くの伝統的各種共同体も、未曾有の巨大な過渡期の海流へと押し流されており、遠からず人類社会は新たな全地球的変動の嵐に悩まされるのではないかと思われるが、如何なものであろう。メシア再臨の直前頃に到来するかも知れないそのような精神的嵐に対して、どのように対処すべきかについては、次号で考察してみたい。
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