第二ヴァチカン公会議前後の教会

付 「君が代」の編曲者

2012年12月       青  山    玄


はじめに

  筆者は16年前に発行された『ヴァチカンの道』(年に3回発行)の21号から、依頼を受けて毎号寄稿して来たが、今年の夏の68号で終刊と聞いたので、最後に「終末的様相を呈する時代に備えて」と題する一文を載せてもらった。しかしその後、野村勝美氏から、印刷せずにホームページで続けるから、今後も執筆して欲しいとのご依頼を受けたので、これまでに執筆した拙稿と部分的に重複することもあるかと思うが、過去のカトリック教会をあまり知らずにいる若い世代のために、これからも筆者が見聞きしたことに基づいて執筆を続けてみたい。なお野村氏からは、これまでにこの機関誌に載せた拙稿も全て送って欲しいとの依頼であったが、筆者は2009年の秋までキャノンのワープロを使っていて、パソコンで書いて寄稿したのは同年12月の60号からなので、CDに入れることのできる60号からの拙稿だけを届けることにした。ただし、1999年8月の29号に補足的に載せた「『君が代』の編曲者」と題する短文は、今年も横浜の一信徒から「コピーして送って欲しい」との依頼があったので、この拙稿の末尾にパソコンで書き直し、少しだけ追記して読者に提供したい。


第二ヴァチカン公会議前に筆者が日本で見聞きしたカトリック教会の動向

  筆者は戦後の1947年8月、旧制の新発田中学5年の夏に受洗し、翌年3月に多治見の神言修道院に入って神学生になった人間で、多治見高校3年の時も新制の南山大学在学中も、戦前に来日したドイツ人司祭たちの指導を受けており、一緒に生活していた修道士たちも、日々出会う信徒たちも、戦前の敬虔なカトリックの伝統を受け継いで信心に励んだり、宣教に心がけたりしていたので、筆者はここで戦前のカトリック者たちの信仰生活をほとんどそのままに体験させて戴いた。すなわち十字架の道行の祈りやロザリオの祈り、あるいは5月の聖母月の信心や6月のイエズスの聖心の信心等々に励み、1830年にパリにご出現なされた聖母マリアが身につけるようお勧めになった不思議のメダイも身につけて、聖母崇敬に努めていた。小学1年の時に中国との戦争が始まり、小学5年の時からかなり徹底した軍国主義教育を受けて育った筆者は、天皇陛下のため、祖国のために命を捧げて尽力するのが、あの世の祖先に喜ばれる生き方、極楽で永遠に幸せに生きる道と信じていたので、日本が戦争に負けたのは大きな心理的打撃であった。でもその体験が契機となって、筆者の心が戦後に新しい生き甲斐を求めていたのか、公教要理を学んで浄土宗の阿弥陀信仰からカトリックの神信仰に転向した時には、深い喜びと新しい意欲を覚えた。その数カ月後から多治見修道院で身につけた、全知全能の神の働きや導きに対する信仰と従順、並びに聖母マリアを心の母として崇め、その勧めによく従うことは、今でも筆者の信仰生活の基盤となっており、入信してまだ日浅い筆者の心を導き助けてくれた恩師や知人たちには、今でも深く感謝している。
  しかし、終戦直後の経済的にまだ貧しかった国内事情の下で、1949年に聖フランシスコ・ザビエルの来日400年祭を祝った頃からは、日本国もカトリック教会も、アメリカを始め諸外国からの大きな援助を受けて急速に発展し始め、海外から数多くの宣教師や修道会員たちが渡来したので、1950年代の中頃にはその人たちの色彩豊かな新しい活躍で教会も修道院も学校も次々と新築され、わが国におけるカトリック布教は、戦前とは異なる新しい活気に満ちた様相を呈し始めた。まだ神学生であったその頃の筆者は、初めはカトリック教会がこのようにして日本国に深く根を張るに至るものと思っていたが、数年後には、自分が学んだ戦前の伝統的カトリック精神の立場から観ると、戦後の新しい教会活動の中にはあまりにも個人の企画や人間の理知的思考が多すぎて、神の導きに対する信仰感覚や従順の精神が不足している、と批判的に考えるようになかった。神のために働こう、金集めや教会建設に励もうとしている宣教師たちの熱心はよく分かるが、何よりも人間側の企画や要望を優先して、その実現のために神の助けや恵みを祈り求めるように見えるのは、本末転倒ではなかろうかと考え始めたからである。当時の筆者が、神言神学院の修練長で神学生指導司祭でもあった、ドイツ人のトナイク神父(1907-94)から学んだ信仰者の生き方は、主キリストや聖母マリアがお示しになった模範に倣って、何よりも神の御旨に従う従順を大切にし、日々小さなことに至るまで神の僕・神の婢として生きることであったが、民主主義・自由主義の精神が社会にも教育界にも普及し、経済的にも発展しつつあった50年代の日本では、宣教師たちの心も一般社会のその空気に汚染されたのか、教義の理解や外的規則の順守については伝統に忠実であっても、実生活においては主キリストや聖母の生き方から離脱していたように思われてならなかった。50年前後の頃に若者たちの間に広まったカトリックへの改宗ブームが、52年4月にサンフランシスコ平和条約と日米安保条約が発効した直後から急激に消滅し、受洗した若者たちの棄教が50年代中頃に多かったのも、宣教師たちの生き方があまりにも主キリストや聖母の生き方と違っていて、神からの豊かな保護や導きの恵みを、受洗者たちに伝えていなかったからではないか、と筆者は考えていた。中学時代に筆者の同級生で、筆者より三カ月ほど遅く47年の秋に受洗した相馬研吾氏は、50年代中頃に東大の大学院で生物学の研究をしていたが、その数年前にカトリックの洗礼を受けた大学生たちが教会の主任司祭たちに理解されず、その冷たい言葉に傷ついて次々とカトリック教会から離れて行ったことを、筆者に語ってくれたこともあった。
  同じ頃筆者は、日ごろ親しくしていたドイツ人のライニルケンス神父(1893-1976)から、将来のカトリック教会についての少し不安な話を聞かされた。神父は1920年に来日し、鶴岡教会で長年勤務した後、1948年10月から多治見修道院内で、来日する外国人宣教師たちのための日本語教師になられたが、私が一時的にそのお手伝いをしたこともあって、神父は私に何でも親しく話して下さるようになった。神父は50年代中頃に今で言ううつ病のような症状を煩うようになって、その治療のため57年に帰国し、そのまま再び来日することはなかったが、帰国直前に私に対して、大戦後のアフリカではイスラム教の進出が目覚ましく、カトリック信徒は各地で集団棄教してイスラム教徒になっているという話をし、「今までのようなカトリック布教では先はない」と言われた。その言葉の意味はその時にはよく分らなかったが、59年に司祭に叙階されてローマに留学したら、次第に判るようになった。


第二ヴァチカン公会議前に筆者がローマで学んだカトリック教会の動向

  長年の宣教活動で無数のアフリカ人を信者にした後、その恐るべき集団棄教を体験してアフリカから追放された一人の宣教師は、後年ローマに留学していた筆者に、「私たちは全ての真理を正しく教え、彼らはそれをよく理解して神に美しい立派な祈りや宗教祭儀を捧げていた。云々」と語ったが、筆者はそれを聞いて、アフリカ人たちに教理を理知的に正しく理解させ、掟や典礼などを立派に順守させることには成功していても、人々の奥底の心を神の現存や働きに目覚めさせ、日々神の御旨中心に生活させる所にまでは導かず、キリスト教信仰を彼らの心の奥に根付かせなかったのではないか、と思った。それに比べると、イスラム教の宣教師たちは何よりも神に対する徹底的従順を強調し、各人の心を日に5回の礼拝と掟の遵守という実践を介して、神への従順を中心に相互に堅く団結させる指導に成果をあげ、キリスト教宣教師たちからは厳しく排斥されていた呪術的民俗信仰の指導者たちをも、あの世の神からの声を伝えるパイプに成り得る、と容認していたそうだから、白人たちの築き上げた宗教文化や理知的原則を中心とせずに、唯一神の導きに対する従順の内にアフリカ民族の奥底の心を目覚めさせ、アフリカ人たちを相互に堅く結束させて、欧州諸国から独立した新しい国造りに挺身させたのではなかろうか。当時のキリスト教界では「集団的棄教」と言われたが、彼らはアブラハムの神を棄てたのではない。神への内的従順心や清貧の精神などが弱まって、世俗化していた西欧人の理知的キリスト教を棄てただけなのであろう。
  子供の時から聖母崇敬に励んでおられた教皇ピオ12世(在位1939-58)は、教皇に登位して間もない39年4月に、毎年5月の聖母月に家族そろって聖母の保護を願い求めるよう強く勧めているが、この年の9月に第二次世界大戦がヨーロッパで始まったことを思うと、長年ドイツに教皇大使として滞在し、ナチスの危険な動きを掴んでいた教皇は、遠からず大戦によって困窮することを察知し、祈りで聖母に頼ることを強く勧めたのだと思う。そして42年10月31日には、ファチマの聖母の勧めに従って、戦禍に苦しむ全人類を聖母の聖心に荘厳に奉献し、その特別の取次を願っている。翌年6月に発布した回勅”Mystici Corporis”の中では、キリストの神秘体と聖母との関係についても論じ、教会論と共に聖母についての研究も促進した。大戦中は国際通信が大きく制約されていたため、これらの事は諸外国には殆ど知られずにいたが、45年に終戦を迎えると、カトリック界では新たに聖母神学がブームになり、大きく発展し始めた。それで教皇は48年5月1日に回勅を出して、42年にヴァチカンでなされた聖母の聖心への全人類の奉献を、各教区・小教区・家庭でも繰り返させた。
  教皇は50年11月1日に、使徒教令を出して聖母の被昇天を信仰箇条として宣言し、53年12月8日からの一年間は聖年として、54年12月に聖母無原罪の信仰宣言百周年を迎える前に、聖母崇敬に励むよう全世界のカトリック教会に勧めた。54年11月1日、教皇は5月31日を「世界の元后」の祝日と定めたが、50年代に入ってからの教皇が、これ程熱心に聖母マリアの崇敬を全世界に広めようと努めた背後には、前述したアフリカ諸国でのカトリック教会の危機があったようである。察するに教皇は、キリスト時代のファリサイ派のように全てを理知的に考え判断して、あの世の神の新しい働きや「時の徴」を見分ける奥底の心の信仰感覚を眠らせている、欧米諸国のカトリック者たちの奥底の心を目覚めさせるため、ポルトガルのファチマやその他の地でご出現になった聖母の声に素直に従うことや、聖母崇敬に励むことを強く勧めたのではなかろうか。それは伝統的なカトリック神学を歪めることになる、などという批判もあったようだが、教皇は、キリスト時代に神がそれまでとは違う全く新しい働きかけを為されたように、恐ろしい原始爆弾が次々と造られ、東西の危険な冷戦状態が続いている現今の末期的世界情勢においても、神は聖母マリアを介してこれまでとは違う全く新しい呼びかけや働きかけをしておられるのではないか、とお考えになったのではなかろうか。ローマに留学していた頃の筆者は、聖母崇敬を推進したピオ12世の姿勢を、このように受け止めていた。教皇は、54年12月に重病になり、一時は再起不能とまで言われたそうだが、同年暮れに不思議に健康を回復された。教皇庁は黙しているが、その時教皇一人のおられる室内から、女の人の話しておられる声が聞こえたと語る世話人の言葉から、聖母が教皇にご出現になったのではないか、という噂も民間に広まった。56年5月15日の回勅”Haurietis Aquas”によって、教皇はイエズスの聖心に対する信心の神学的基礎を明確に教えているが、その中でも聖心の信心と聖母信心とを結んでなすように勧めており、58年のルルドの聖母出現百周年記念にも、ルルド巡礼を頻りに奨励しておられるので、ピオ12世は、最後まで聖母崇敬とその呼びかけに従うことを重視しておられたようである。
  ローマのグレゴリアナ大学で59年から宣教学を学んでいた筆者と同期のブラジル人神父から、60年春に、イエズス会の教授の一人が講義の中で「近年諸宗教という言葉をよく聞くが、神の御前には全てが一つの宗教である」と話している、という話を聞き、筆者は後で、ヨハネ福音10章に読まれる「よい羊飼い」の譬え話の中で主キリストが「私には、この囲いに入っていない他の羊たちもいる。その羊たちも導かなければならない。彼らも私の声を聞き分ける。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と話しておられることを思い出した。そして主は、洗礼を受けてご自身が創立なされたキリスト教会のメンバーになった人たちだけを救おうとしておられるのではなく、聖書もキリスト教も全く知らない異教徒や無宗教者であっても、この世に生を受けたことに感謝し、少しでも世のため人のために成ろうとする愛に生きているなら、ご自身の声を聞き分けてそれに従おうとする人として受け入れ、キリスト者に対するのとは違う仕方で、あの世の永遠に続く人生へと導いておられるのではなかろうか、と考えるようになった。もちろん、それならばキリスト教会も宣教活動も不要だ、などという極端な考えはしていない。主キリストの特別の御意志で創立された教会も、宣教活動も、ミサ聖祭やその他の秘跡も、皆必要なのである。主の受難死と復活の功徳による救いの恵みを、全人類の上に豊かに呼び下すために。したがって、神の御摂理に導かれ、神から選ばれてキリスト教会のメンバーとして戴いた私たちキリスト者は、自分たちの教会のためばかりでなく、全人類の上に主キリストによる救いの恵みが神から豊かに注がれるよう、主が教えて下さった仕方で尽力しなければならない。しかし、主が弟子たちにお授けになった教えや秘跡を受け継いで特定の信仰生活を営むのは、全人類の中の少数グループであっても構わないのだ、そのキリスト教信仰のグループがあの世から呼び下す救いの恵みは、その囲いの中に入っていないで信仰に生き、神に愛されている無数の人たちにも豊かに注がれるのだから、と筆者は考えるようになった。百人隊長の願いをお聞きになった主はついて来た人たちに、「あなた方に言っておく。多くの人が東からも西からも来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、国の子らは外の闇に投げ出されるであろう」(マタイ8: 11-12)と話されたが、実際キリスト以前の人類、並びにキリストの来臨以降に生れた人類の中には、その百人隊長のように洗礼は受けていなくても、神による救いの恵みに浴する人は無数にいるのではなかろうか。私たちキリスト者は、そういう人たちのためにも大きく開いた奉仕愛の精神で、主と一致してミサ聖祭を捧げるよう神から召されているのではなかろうか。筆者のこのような考えは、公会議の直前頃から公会議後にかけて、ローマで一緒に暮らしていた一部の人たちの間で広まっていたように思う。公会議顧問としてローマに屡々滞在し、大きな働きを為したカール・ラーナーが1965年に「無名のキリスト者」についての研究を公刊したのは、公会議前後頃にローマにいた一部の人たちの声を反映したのだと思う。
  公会議が始まる直前の62年夏のことであったかと思うが、教皇ヨハネ23世が、イタリア共産党が社会のために為している働きを高く評価する発言をなされたら、そのお言葉は教皇の写真と共に大きく印刷されて、共産党員たちにより街角の随所に張り出されたことがあった。そしてその後の国会議員選挙に共産党は議席数を大きく伸ばしたが、その後頃であったかと思う。一人の共産党員は筆者に、「党員になったら教会に行かないことになっているので、自分は教会には入らないが、日曜日に教会に行く妻子を車で送り迎えしており、信仰を失った悪い人間ではない。貧しい人たちの生活向上のために社会悪と戦っているのだ。教会があまりにも富裕層と結託しているのが良くないのだ」というような話をした。公会議中であったか公会議直後であったか記憶が定かでないが、イタリア共産党の党首が死去した時、教皇パウロ6世がその葬儀をラテラノ大聖堂で挙行することをお許しになると、全国から非常に多くの共産党員たちが参集して大聖堂前の広場を埋め尽くし、大きな十字架を背負ったり大声で聖歌を歌ったりしていた。涙を流してその感激を語る共産党員を見て、筆者が、この公会議によってこれまでのカトリック教会と共産党員たちとの忌まわしい隔ての壁も取り除かれるに到るであろう、との印象を持ったことも付記して置きたい。
  筆者はローマでイエズス会が経営するグレゴリアナ大学の教会史学部に正規入学をした最初の日本人であるが、修士コース段階で各人の部分的研究を同僚に発表し、その質問や批判などを受けるExertitiumと称する研修時間には、スペインやインドや南米などの学生が、過去のカトリック教会内に定着していた聖職者中心主義に対する批判的な研究発表をするのを度々聞かされた。筆者はそのような研究発表はしなかったが、当時の日本の教会でも主任司祭が殿様のようにワンマンに振る舞い、全てを自分の望みのままに上から決めて、配下の信徒団をそれに従わせていた事例は多かったように思う。公会議前頃のローマには、「異邦人の頭たちはその人民を支配し、偉い人が人民の上に権力を振るっている。しかし、あなた方の間ではそうであってはならない。云々」(マタイ20: 25)の主のお言葉に従って、司教も司祭も全世界の創り主であられる神の愛の立場から、教区の信徒だけではなく、その教区に住む異教徒や不信仰者たちを含めて、全ての住民に下から謙虚に仕える姿勢を強調する人たちもいた。それで筆者は、公会議後のカトリック教会では司教も司祭も、上から信徒団を指導するのではなく、社会運動も慈善活動も信徒たちに主導権を渡して、下からそれに奉仕するようになるのではなかろうか、などと想像していた。
  2年前の12月に『ヴァチカンの道』63号所収の拙稿にも述べたことだが、「よりよい世界」の運動で著名なイエズス会の説教師ロンバルディ神父が61年11月に発行した『Concilio, per una riforma nella carita(公会議、愛における改革のために)』と題する著作に対して、当時のローマにいた保守派枢機卿たちから厳しい批判があったことも、ここに付記して置きたい。カトリック教会の活動を少しでも現代社会の実情に適合させ、実り多いものにしようという善意に溢れたこの進歩的著作それ自体は真に結構なものであったが、ただその中で神父が使用したriforma(改革)という言葉について、一人の枢機卿がイタリアの新聞に載せた非難は、公会議の草案準備に携わっていた進歩派の人たちの注目を引いた。その枢機卿によると、イエズス会の創立者聖イグナチオは「改革」という言葉を賢明に避けていたそうである。16世紀の宗教改革時代には、それまでのカトリック的伝統に対する否定的意味合いが強かったからであろう。上述の拙稿にもあるように、トリエント公会議(1545~64)の開催を意図してその準備を推進したパウロ3世教皇(1534~49)は、教会の「頭と肢体の改革」という言葉を使って呼びかけていたが、プロテスタントの諸派がこの「改革」という言葉を過激な意味で頻繁に使うのを見て、聖イグナチオは、その言葉を慎重に避けたのではなかろうか。ロンバルディ神父は、すぐに保守派枢機卿たちからの非難に服して教皇庁に対する従順を表明し、この後3年間ほどは一切の社会活動から身を引き、ローマ郊外の家に謹慎した。そして公会議の草案を準備していた各委員会も「改革」という言葉を避け、「刷新」「活性化」などの用語を使うようにしたので、議決された第二ヴァチカン公会議の公文書の中には、「改革」という言葉は読まれない。2千年近いカトリック教会の歴史を調べると、教会の創始者・救い主イエスの愛の御精神に背いていると思われる嘆かわしい出来事や教会組織、信仰生活の低迷などは、カトリック教会の流れの内に山ほどあるが、しかし、その山積する見苦しい泥土のようなマイナスを肥しのようにして、神はいつの時代、いつの世紀にもそこに清く美しい信仰と愛の花を咲かせる信仰者や聖人たちを輩出させている。ちょうど泥水の中でのみ美しい花を咲かせる蓮のように。外的人間的にはどれ程無価値に見えても、教会のその流れには、恐ろしく神秘な神の愛の命が籠っており、人知で知り得ない遥かに崇高な御計画に基づいて、神は今も全てを世の終りの完成に向けて生かし動かし導いておられのではなかろうか。このような教会観に立ち、信仰をもって恐ろしく神秘な神の働きや導きに思いを馳せる時、この世の外的な事象に基づいて何かの人間的理論や改革論を教会に導入しようとする試みは、大いに慎むべきであろう。

 

第二ヴァチカン公会議中の出来事で、筆者が見聞きしたカトリック教会の動向

  公会議が始まると、まず比較的によく準備されていた典礼憲章の草案から、その採択について審議されたのは良かったと思う。典礼についてはどこの国の司教も自由に発言でき、公会議総教父の動向を観測できるからである。この公会議の経過については、筆者が1977年春に受講生たちのために発行した『近代教会史』の中に簡潔に叙述したのでここでは詳述しないが、62年11月14日に典礼憲章の議案の基本的主旨を採択すべきか否かについての予備票決がなされたら、賛成2,162票、不賛成46票であった。この最初の票決以来、進歩派の公会議教父たちは、その後も次々と圧倒的多数票で保守派の主張を切り崩して行ったが、62年秋のこの第一会期にベルギーのド・スメット司教が、教皇庁内の保守派の了解を得て提出された議案の中に見られる勝利主義・聖職者至上主義・法律主義がキリストの「旅する教会」の精神と合致しないと述べて、列席者一同に深い感銘を与えたことや、12月4日にスーネンス枢機卿が「世界に開かれた教会」の理想を強調したことは注目に値する。ヨハネ福音書6章15節によると、主は偉大なパンの奇跡の後に御自身を王にしようとした人々を避けて一人山に逃れたそうだが、これが新約時代の現代に私たち聖職者たちの生きるべき姿なのではなかろうか。ローマに参集していた多くの公会議教父たちを感動させた「旅する教会」や「世界に開かれた教会」の理念が、当時の日本のカトリック教会でどのように受け止められたか知らないが、筆者はそれを、まだローマ教皇庁を中心とする教会制度も教会法もない、主キリストがその使徒たちを、この世の富も社会的地位も持たない貧しさのまま、神への従順一筋に生きる愛の信仰者として全世界に向けて派遣なされた時点に立ち帰って、今の世界に対する福音宣教をあらためて柔軟に考究させる理念と考えた。聖霊は、主キリストによる教会創設時代の精神に立ち返らせることによって教会を若返らせようと、公会議教父たちの間に働いておられるのだ、という印象を受けた。
  しかし、公会議の時には聖霊の働きだけではなく悪霊たちも激しく働く、と教会史の教授たちから聞いていたので、それは公会議が終わってからでないと判断できないであろうと思ってはいたが、多少の警戒心をもって観察していたら、今回の公会議では、どうも第一会期が終わった直後の頃から悪霊たちが働き始めたように思われてならない。筆者と同じローマの本部修道院に生活していた一部のドイツ人若手司祭たちの間で、これまで教皇庁を中心として根を張っていた保守派枢機卿たちの見解が、圧倒的多数の公会議教父たちによって退けられたことから、この公会議によってカトリック司祭たちの生活は大きく変わり、プロテスタント牧師たちのように結婚生活が認められるようになるかも知れないという夢が、囁かれ始めたからである。筆者はそのような話に全く興味がなかったが、63年秋の第二会期途中になって、若手聖職者たちの間で広まっていたそのような新しい教会制度に対する憧れが、意外と大きな力を持っていたことを思い知らされるような事件が起こったことに驚いた。これについては既に2年前の12月に、「第二ヴァチカン公会議の評価」と題して執筆した拙稿にあるので、なるべく重複を避けたいが、聖母についての新しい議案が、63年10月29日に1,114票対1,074票というわずか40票の差で退けられ、聖母マリアについての議案はプロテスタントに対する配慮から大きく縮小されて、教会憲章の最後の章(第8章)にごく簡単に書き改められることになったからである。筆者はこの変更のために尽力したウィーンのケーニヒ枢機卿とは、66年5月にウィーンの司教座大聖堂で約2千人の若者たちに堅信の秘跡を授ける時の司教ミサで共祝したこともあり、枢機卿の話をすぐ間近で聞いたこともあるので決して不快の念は持っていないが、63年10月末のあの票決が、公会議によるカトリック教会の立て直しが悪魔勢力の働きによってプロテスタント的改革へと歪められ、第二ヴァチカン公会議が教皇ヨハネ23世やパウロ6世が意図したような実を結べなくなった分かれ目の時点であったと、今でも考えている。

 

第二ヴァチカン公会議後に、筆者が見聞きしたカトリック教会の動向

  これについては筆者がすでに2年前の12月に、「第二ヴァチカン公会議の評価」と題して執筆した拙稿にも述べたので重複しないようにしたいが、ただ筆者が2009年夏に「司祭年を迎えて思うこと」と題して執筆した拙稿にある、公会議の影響で司祭職から離れた人の数だけでも、まずは1970年までここに記して置こう。
  1964年  640名   
  1965年 1,124名      
  1966年 1,418名      
  1967年 1,759名
  1968年 2,298名
  1969年 3,039名
  1970年 3,160名
  これ以降は、2009年夏の拙稿参照。
  これは、教皇庁から公表された司祭職から離れた人の数であるが、この他にも、教皇庁に届けずに結婚し、司祭職から離れた人が少しはいるかも知れない。1970年を最高にして、この数値はその後少しずつ減少するが、それでも筆者が上述の拙稿後半に、「筆者が公会議後に日本のカトリック教会で見聞きしたマイナス面」と題した小見出しの下に記したことは、公会議の意図した教会刷新が、わが国のカトリック教会ではほとんど結實しなかったことを示している。ローマ留学を終えて帰国した筆者が、70年前後頃に全国各地のカトリック教会を訪問して一番残念に思ったことの一つは、聖母マリアに対する崇敬や信心が、司祭をはじめ多くの信徒たちから軽視されていることであった。あるプロテスタントの学者は、カトリック教会が第二ヴァチカン公会議によって大きくプロテスタント諸派に近づいたのは、プロテスタントのエキュメニズムの影響を受けたのであろうなどと話していたが、聖職者中心主義が濃厚で頻りに「典礼改革」などの言葉が叫ばれていた70年代のわが国のカトリック教会は、そのような印象をプロテスタントの人たちに与えていたのかも知れない。しかし、筆者がローマで公会議から学んで来た信仰精神は、人間が主導権を取って聖書を研究し、それに基づいて教派を組織したり、改革したりするようなエキュメニズムの流れは、「ファリサイ派のパン種」を宿しているとして退け、プロテスタント諸派にも諸宗教にも大きく心を開いてはいるが、それは聖母マリアのように神の新しい働きや導きに従おうとする精神に根ざしている。
  余談になるが、筆者の手元には、福島県須賀川市のヨゼフ根本幸雄氏が78年2月11日に改訂発行した『ラ・サレットの秘密』と題する20頁の小冊子があるが、それによると、聖母マリアは公会議が始まる直前の62年9月19日(ラ・サレットの聖母の祝日)に、アンドレ・アルトッファー神父に現れて、次のようにお語りになったという。「ラ・サレットの出現の時に、私が与えた告知の一つ一つに関して、あなたが私に尋ねたいと思う質問に、私自ら答えるでしょう」と。そして聖母はお答え下さる日を同年11月4日と指定なされたので、神父がそれまでに準備して36の質問を提出し、聖母がそれにお答え下さったという。聖母とのその質疑応答がこの小冊子に載せられているが、神父はそれを同年12月2日に、25人の面前で語ったのだという。今の世界をあまりにも悲観的に捉えているこの質疑応答に筆者は重きを置いていないが、その中で一つ筆者の注目を引いたのは、第22の質問にお答えになった聖母のお言葉の中で、「全ては第二バチカン公会議にかかっている、と私はあなたに答えたはずです。第二バチカン公会議はよく終るか、あるいは終らずじまいになるかのどちらかになるので、私はそう言ったのです」「もし悪く終るとすれば、事態はさらに悪化するでしょう」「第二バチカン公会議が現在最も大きな山場なので、最初の一撃が加えられるのは、公会議以後になるでしょう」とある事であった。その一年後の10月下旬に、上述したように聖母憲章の議案が退けられて、聖母については教会憲章の第8章に簡略して述べられているだけになったのであるから、上述の聖母の言葉を引用するなら、公会議はよく終わらずじまいになったのではなかろうか。とすると、これからの世界には悪霊たちの働きが多くなり、大災害や戦争などの不幸が諸所で発生するのかも知れないが、聖母の取次を願うことに努めて、その被害をなるべく少なくしたいものである。

 

 

「君が代」の編曲者

1999年8月の『ヴァチカン道』29号所収の拙稿    青 山   玄

  1960年の夏休みにドイツ南西部のザール地方のある田舎町のカトリック教会を訪れた時、高齢のオルガニストが日本人に会うことができたことを喜び、「私は日本の国歌『君が代』を作曲したドイツ人フランツ・エッケルト(Franz Eckert, 1852~1916)の孫弟子です」と言って、握手を求めて来たことがあった。それでその時の私は、「君が代」はエッケルト氏が作曲したのだと思ったが、帰国して昭和初期の『日本カトリック新聞』を調べていたら、昭和12年12月12日号の2頁に、エッケルト氏のことが「君が代」編曲の父として紹介されていたので、あのオルガニストが私に少し不完全に語ったのであることを知った。
  この新聞記事によると、熱心なカトリック信者フランツ・エッケルト氏の長女エメリー・マルテル夫人(子供の時から日本育ちで、日本語は堪能であったと思われる)は既に60歳の老婦人であるが、その長女が修道女となって朝鮮の元山ベネディクト会修道院にいるので訪問したら、当時韓国人教化のために「君ケ代の由来」と題する教育映画を利用していた日本の朝鮮総督府では、マルテル夫人の来日を歓迎したそうで、同夫人は京城(今のソウル)帝国大学でも、前年11月に日独防共協定(昭和12年11月に日独伊防共協定に、15年9月に日独伊三国同盟に発展)が締結されたのを記念して、日独の友好関係や「君ケ代」に盛られた日本精神などについて講演した。夫人はこの後、朝鮮総督府からその教育映画を借りて11月下旬に京都を訪れ、アメリカ人のバーン京都教区長の後援を得て、関西各地で講演したようである。例えば大津教会のベースフル神父の尽力で、滋賀県師範学校で講演と映画の会が催された時には、生徒が400人も集まって「君が代」を斉唱した後、青木教頭の開会の辞と、反共運動とカトリックの立場についてのカトリック者山中伝道士の話ののち、マルテル夫人が亡父の編曲した「君が代」の由来について話し、続いて映画が上映されたそうである。
 この新聞記事からは離れるが、明治2年に薩摩藩の砲兵隊長であった大山巌は、英国公使舘護衛歩兵隊の軍楽長であったJohn William Fentonから人を介して、英国の貴賓が来日するに当たって日本と英国の国歌を演奏する必要があるが、日本には儀式用の国歌があるのかと尋ねられて、関係者たちと相談の上、平素自分たちが愛誦している琵琶歌「蓬莱山」に引用されている「君が代」の歌詞を選び、フェントン氏にその作曲を依頼したのだという。これには多少の異説もあるようだが、いずれにしろ国際的外交儀式上の必要性から、古今和歌集巻第七の賀歌の冒頭に「題知らず、よみ人しらず」となっている「君が代」の歌詞にフェントン氏が作曲したものが演奏されたそうである。しかし、日本語の解らない英国人の作曲であったため、曲がにぎやか過ぎて当時の日本人の声や音律になじまず、明治9年11月3日の天長節を最後に演奏されなくなり、代わって日本海軍軍楽隊の音楽教師として招かれ、明治12年にドイツ人フランツ・エッケルト氏をその一員とする、楽譜改訂委員会が明治13年7月に設置されたのだという。
 再び上述の新聞記事に基づいて述べると、エッケルト氏は外国の管弦楽はいわゆる日本精神には適合しないと考え、まず日本の伝統的音楽を研究し、日本固有の雅楽に基づいて作曲するのが最良と判断したそうである。そして宮内庁雅楽課の林廣守氏がエッケルト氏の協力を受けて作曲した曲譜を推薦したが、この記事にある「隠れたる天才」という言葉が、エッケルト氏が林氏を評して言った言葉であるとすると、まだ西洋風の音楽教育のなかった時代に、林氏は余程音楽的才能に恵まれた日本人だったのではなかろうか。日本の伝統的雅楽のゆっくりとした曲を耳にしたエッケルト氏は、それがどこかカトリック教会で歌われているグレゴリアン聖歌に似ていると感じたようで、林氏と共にグレゴリアンの曲も取り入れて、「君が代」の曲譜を創作したそうである。それで、「君が代」の歌い出しは、12世紀以来カトリック教会で荘厳に歌われている復活祭ミサの続唱の歌い出しがそのまま採用されている。こうして作られた曲に、エッケルト氏は西洋風の和声をつけて、軍楽隊による荘厳な演奏を可能にしたようである。
  エッケルト氏は、後に陸軍戸山学校・近衛師団軍楽隊・宮内省音楽隊の音楽教師を歴任し、英照皇太后崩御の折にはその大葬行進曲を作曲しているが、明治31年に一旦ドイツに帰国し、34年に再度来日して京城に住み、音楽教師として信心深い余生を送った後に、大正5年8月に帰天した。
  話は違うが、ブラジルに生れ、戦後の1947年に神言会司祭として叙階された大沼正雄神父から聞いた話によると、日本人移民でカトリックに改宗したブラジルの信徒たちは、ポルトガル語の聖歌集はあっても日本語の聖歌集はまだ持っていなかったので、大沼神父が入植地の教会で初ミサをささげた時は、みんなで聖歌の代わりに「君が代」を斉唱したそうである。もちろん宗教的意味を込めてであろうが、「君が代」がそのようにも転用できる歌詞なので、微笑ましい。


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