第二ヴァチカン公会議の評価

2010年12月       青  山    玄


はじめに

  今年の1月に本誌の発行者からカトリック・アクション同志会のため、「第二ヴァチカン公会議は何であったか」という議題で話して欲しいとの依頼を受け、1月18日に東京のイグナチオ教会の4階ホールで、少し自由な形で筆者がローマで見聞きして来たことや今思うことなどを2時間ほど話したが、この依頼を受けた直後の頃は、どんな話が求められているのかについて判断に迷っていた。本誌の発行者も読者も、公会議後のわが国のカトリック教会の動向について批判的になっていることは知っていた。しかし、あの公会議そのものに対する本誌発行者たちの批判は聞いたことがなく、筆者はあの公会議そのものは高く評価していたので、この二つの違いをどう説明したら良いかに迷ったのであった。すると1月12日に澤田昭夫氏から、公会議や最近のカトリック教会関係の資料が数点郵送されて来た。その中には、澤田氏が86年11月24日にカトリック・アクション同志会例会で為した講演の要約文を始め、『月曜評論』平成12年5月号に採録された同氏の論文「カトリック教会の左傾化」や、その他の小論も含まれていた。筆者はそれを見て安心した。1980年前後やそれ以降の時点では、公会議の時に活躍した進歩的神学者たちの多くも公会議後のカトリック教会の動きに批判的になっていたので、公会議そのものは良かったが、それを受け継いで実を結ぶべきその後の教会のマイナス面について説明すれば良いのだ、と思ったからである。出席者20名程のその講演会で、筆者がどのような話をしたかは覚えていないが、都合によりその講演会に出席できなかった赤羽根恵吉氏からの要望を受け、部分的にその時の話と重複するが、あらためて筆者が見て来た第二ヴァチカン公会議の経過と、その後のカトリック教会の動向などについて回顧してみたい。しかし、誤解がないように始めに断って置くが、第二ヴァチカン公会議の論議や決議はカトリックの神学や聖書学の発展には多くの好ましい成果を挙げており、筆者がここで取り上げるのは、実践面での成果だけについてである。


公会議開催前後の幾つかの個人的体験

  筆者は本誌35号 (2001年8月)に、「私の見て来た公会議とカトリック教会の現代化」と題して執筆したことがあり、本誌26号(1998年8月)から50号(2006年8月)にかけて18回にわたり執筆した拙論「新しい司祭像を求めて」の末尾48号以降にも、公会議開催前後頃のカトリック教会の動向に触れていて、それに続く本誌51号(2006年12月)と52号(2007年4月)に、「公会議前のカトリック教会像」と題する拙論の末尾にも、上記と同様の小見出しをつけてローマ留学中の筆者の見聞について述べたことがあるが、ここでは部分的にそれと重複しながらも、なるべくそこに書かなかった断片的見聞を幾つかお伝えしたい。
  その一つは、確か1960年5月頃であったと思うが、筆者と同期にグレゴリアナ大学に入り布教学の修士課程を履修していたブラジル人神父から、イエズス会の一人の布教学教授が「諸宗教という言葉を頻繁に耳にするようになったが、自分は宗教は根本的に一つしかないと考えている」と話している、という話を聞いたことであった。その教授の名前も、またどういう意味で「宗教は一つ」と言ったのかなどの詳細は知らないが、教会史学を専攻していた筆者にとり、これは第二ヴァチカン公会議の精神を顧みる時、いつも脳裡に去来する言葉となった。この世の外的形態に囚われ勝ちな私たち人間の視点から見ると、人類社会に存在する数多くの宗教は、それぞれ形態も教えも信奉する神々も大きく異なっているので、現実には多数の宗教が存在すると言わざるを得ないが、しかし、人の心を内側から御覧になるあの世の神の視点からすると、現実には一つの宗教しかない、と言ってよいのではなかろうか。ちょうど数多くの言語・人種・文化などに分かれて生活している68億人の人類も、その存在の本源であられるあの世の神の御前では一つの人類共同体であるように。筆者がローマ郊外のネミ修道院に滞在していて、65年にドイツ人のJosef Goldbrunner神父から学んだ人生論によると、20歳代に男女の愛についての優れた作品を、30歳代に社会問題を鋭く分析する作品を世に送った優れた小説家たちは、40歳代から50歳代にかけての頃から、この世の現象の背後に深く隠れているものに心眼を向けるようになり、それまでとは違う遥かに深みのある作品、規模の大きな作品を書くようになるそうだが、筆者はその頃、第二ヴァチカン公会議を企画し主導している進歩派教父たちも、人生後半の優れた作家たちのように、現実の雑多な人類社会の背後に隠れて働いておられる神の御手に心眼を向けながら、全人類が、神の意図しておられる一つの宗教の内に一致共存する道を準備しようとしているのではなかろうか、などと考えたりもしていた。
  次に、本誌35号の8頁と48号19頁にも書いたことだが、「よりよい世界」の運動で著名なイエズス会の説教師Ricardo Lombardi神父が61年11月に発行した、『Concilio, per una riforma nella carità(公会議、愛における改革のために)』と題する著作に対する、当時ローマにいた保守派枢機卿たちからの厳しい批判のことも忘れられない。カトリック教会の活動を少しでも現代社会の実情に適合させ、実り多いものにしようという善意に溢れたこの進歩的著作それ自体は真に結構なものであったが、ただその中で神父が使用したriforma (改革)という言葉について一人の枢機卿がイタリアの新聞に載せた非難は、進歩派の人たちの注目を引いた。その枢機卿によると、イエズス会の創立者聖イグナチオは「改革」という言葉を賢明に避けていたそうである。16世紀の宗教改革時代には、それまでのカトリック的伝統に対する否定的意味合いが強かったからであろう。
  このことについて思い出すのは、1512年5月10日にルネサンス教皇の一人ユリウス2世が開会した第五ラテラン公会議の開会演説を担当したアウグスチノ会総長ヴィテルボのエジディウスが、「必要なのは人間が聖なるものによって改造されることであって、聖なるものが人間によって改革されることではない」と強調し、「改革」という言葉を使ったことである。この公会議は次のレオ10世教皇のよって受け継がれ、教会の制度について数多くの新しい規定を定め、宗教教育や書籍の検閲に関する教令なども発布して、1517年5月16日に閉会したが、その同じ年の10月31日に、アウグスチノ会の司祭ルターがあの95ヶ条の論題を教会の門扉に打ちつけ、そこから宗教改革の動きが始まったのであった。すると年輩の人たちが多く参加して5年間かけて審議し、12の全体会議で議決した第五ラテラノ公会議の規定は、若い人たちの要望を中心とする宗教改革の急速な広まりによって完全に無視されるに到り、カトリック教会の一致団結のため、伝統的信仰や教義にまで立ち返って全てを新たに見直し、新たな信仰教育や新たな規定を定める必要性に迫られた。こうして1545年から64年までかけてトリエント公会議が開催されたが、プロテスタント諸勢力をも除外しない公会議の開催を意図してその準備を推進したパウロ3世教皇は、まだ教会の「頭と肢体の改革」という言葉を使って呼びかけていた。しかし、様々な紆余曲折を経て非常に苦労しながら進展する公会議の成り行きを見て、伝統の新たな発展と刷新を望んでいた聖イグナチオは、「改革」という言葉を慎重に避けたのではなかろうか。このトリエント公会議が良い成果を挙げ得たのは、その会議を通して働かれた神の霊の導きに従って伝統の刷新に励んだ聖人たちが、各地に多く輩出したからであろう。ロンバルディ神父は、すぐに保守派枢機卿たちからの非難に服して教皇庁に対する従順を表明し、この後3年間程は一切の社会活動から身を引いてローマ郊外に謹慎した。そして公会議にかける草案を準備する各委員会も「改革」という言葉を避けて、「刷新」「活性化」などの用語を使うようにしたので、議決された第二ヴァチカン公会議公文書の中には、「改革」という言葉は読まれない。
  もう一つ、本誌35号と48号にも付言したことだが、62年の春ごろにローマ郊外の避暑地ネミの丘上に、全世界に散らばって活躍している神言会司祭たちに、交替で半年間の休養と研修の機会を提供するため多くの個室を備えたネミ修道院が完成すると、そこがまずは公会議の典礼準備委員会を始め、公会議関係の様々の会議や集会に借用されるようになり、世界各地からの神言会司祭たちの研修に使用されるようになったのは、65年の夏からであったと思う。62年の夏から学位論文の作成に着手した筆者は、通学の必要がほとんどないため、毎年秋の公会議会期中にはローマの本部修道院にある筆者の個室を、神言会員の司教の宿泊用に提供してネミ修道院に移り、香部屋係のドイツ人修道士の手伝いをすることが多かった。それで、典礼委員会の典礼学者たちから個人的に話を聞いたり、森に囲まれた広い修道院の構内を一緒に散歩したりすることもあった。ミサの呼称に、古代教会のEucharistia (感謝)に倣って「感謝の祭儀」を導入する提案をして他の委員たちの賛同を得たイエズス会の典礼学者Jungmann神父と散歩していた時には、ラテン語のミサ用語を日本語に翻訳する場合、格調高い文語体に翻訳した方が相応しいという情報があるが、日常の話し言葉(口語体)で美しく翻訳することはできないであろうか、という質問を受けた。筆者は59年1月に司祭に叙階された後に、「高山右近の列福を求める祈り」であったかと思うが、口語体の綺麗な祈りを見て感心したことがあるので、日本語の話し言葉でも時間をかけて磨き上げて行けば、美しいミサ典礼を作り上げることはできると答えた。するとユングマン神父は、是非時間をかけて立派な口語体のミサ典礼を作って欲しいと話された。
  このネミ修道院で公会議の下働きのような仕事もしていたら、公会議場で提出された典礼憲章の議案に賛成、不賛成、または条件付き賛成の三つから投票によって選ぶよう、公会議場で教父たちから求められたことがあった。条件付き賛成の投票をした教父たちは、別紙にどの個所をどのように変更したら賛成するかを、後でラテン語で記して提出することになっていた。こうして提出された意見書を下働きの神父数人でタイプし、典礼委員会総会の出席者たちに提出するために印刷する仕事を手伝っていたら、その中に長江 恵司教が書いたタイプライター用紙2枚半ほどの長さになる意見書があった。それらの意見書はいつも必要枚数より数部余計に印刷されていたので、筆者はそっと長江司教の意見書を1部懐に入れ、将来何かの研究の参考にするため読んでみることにした。当時公会議のperiti(学識経験者)数十名の中に、日本から選出された上智大学教授のフィステル神父と南山大学教授のファン・ストラーレン神父の二人が含まれていたが、このファン・ストラーレン神父が65年11月に、公会議中に教父たちに配布された議案の全てを筆者に残して、「宜しければ将来の研究資料にして下さい」と言った。その資料は公会議開催中は秘密文書とされていたものだが、あまりにも大量なので留学を終えて帰国する前に処分してしまった。今思うと、あの時せめて聖母マリアについての議案だけは手元に残して置くべきだったと悔やまれてならない。しかし、長江司教の意見書だけは、将来何かの役に立つかも知れないと思いつつ70年代の後半まで手元に置いていた。しかし、その間に日本のカトリック典礼も大きく変わり、一度長江司教に手紙を書いたことはあるが、そのラテン語の意見書は一度も読まずに処分してしまった。


ヨハネ23世教皇の公会議開催意図と、公会議会期中に生じた幾つかの新しい変化

  77歳の高齢で教皇に選ばれたヨハネ23世は、約3ヶ月後の59年1月25日聖パウロ改心の祝日に、当時の恒例に従って聖パウロ大聖堂でミサをささげ、その年の施政方針のような話を為すことになっていた。温厚な人柄の故に進歩派の枢機卿たちからの反対が殆どなく、80歳近い高齢のため、わずか数年と思われる短い在位期間にこれまでの教皇庁の伝統に大きな変化も導入しないと思われたので、教皇庁の保守的枢機卿たちは教皇選挙の直前に、このヴェネツィア大司教を招いて特別の宴会を開き、支持を表明したと聞いている。その新教皇が居並ぶ枢機卿たちを前にして、どのような話をなさるかに人々の関心は大きかったと思われる。教皇はおもむろに口を開くと、教会が現在直面している大きな諸問題を克服するため、ローマ教区会議と公会議を招集すると話し始め、教会法を改定する意向も表明した。そしてカトリック教会刷新のためばかりでなく、カトリック教会から離れているキリスト者たちを教会との一致に呼び戻すためにも公会議を開く、と付言なされた。それはほんの数分の短い談話で、教皇はそれ以上に話を続けられなくなり、静かに降壇してしまわれた。教皇が後で数回繰り返された証言によると、公会議を開くという考えは初めには全くなく、登壇した時にふとインスピレーションのように自分の心に与えられたもので、それを口外した教皇自身その思わぬ考えに感動し、話が続けられなくなったのだそうである。
  教皇はその後、公会議の招集を神の御旨と確信し、公会議の目的をしばしば「教会のaggiornamento (現代化)」という言葉で表現した。教皇は御自身の内に働いて下さった聖霊が、この公会議を介してもっと大きな働きをして下さると期待しておられたようで、59年春にはまだ全てのキリスト者の一致を促進するという目標に、かなりの重点を置いて話しておられた。しかし、新教皇の全く新しい画期的動きに驚いた保守的枢機卿たちがやがてその公会議の開催を遅らせ、できれば阻止しようとする批判的動きを示し始めると、同年6月に公会議の目標をまずカトリック教会の刷新に絞り、カトリック信仰の強化、信徒の道徳の刷新、教会法の改定の3点を掲げて、60年6月5日の聖霊降臨祭には10の準備委員会を設置した。そしてその後まもなく、マスコミ機関のための事務局と、キリスト教一致推進事務局とを設置し、後者の事務局長としては長年の聖書研究を通してプロテスタントの学者たちと親しくしていた、ドイツ人イエズス会員のベア神父を任命し、同時に彼を枢機卿の高位にあげた。そして翌61年5月15日に回勅”Mater et Magistra”を公布して、労働問題に対する歴代教皇の進歩的見解を一層推進させたが、同じころ度重なる発言の中で、考えの異なる人々(例えばイタリアの共産主義者たち)とも大きく心を開いて協力し、一緒に未来世界を開拓しようとする姿勢を示しておられたことは、多くの人の注目を引いていた。この観点から振り返ると、マスコミ機関のための事務局やキリスト教一致推進事務局の設置は、教会の現代化を目的とする新しい公会議の開催を、従来の公会議のようにカトリック教会内部の力だけに頼って進めるのではなく、教会外にも積極的に情報を提供してその協力を得ようとする意図を、教皇は既に60年6月頃から抱いておられたように思われてならない。教皇庁内の保守派勢力は、教外諸勢力の支援を受けようとする教皇の姿勢のためにますます動き難くなり、既に公会議開催の前から、保守派勢力の動きに対する批判の言葉がいろいろと教会の内外に囁かれて、苦労しているように見受けられた。
  公会議開催直前頃の動向や各会期の詳しい経緯などについては、前述したフィステル神父を始めとして多くの人たちによって執筆されており、筆者も南山出版の『近代教会史』の中に略述しているので割愛するが、後述することとも関連するその中での二つの動きについてだけは、ここで紹介したい。
  その一つは、63年10月下旬、公会議第二会期中になされた聖母についての議案をめぐる票決である。第二ヴァチカン公会議での票決は、62年11月14日に典礼についての議案の基本的主旨を採択すべきか否かの予備票決がなされた時、賛成2,162名、不賛成46名と、進歩的典礼の議案に賛成した公会議教父たちが保守派教父たちに圧倒的勝利を収めたのを最初として、殆どいつも進歩派が保守派に大差で勝利を収めていたが、63年10月に委員会が準備した聖母についての議案が提出された時には、公会議教父たちの見解が殆ど対等に大きく二つに分かれた。マニラのサントス枢機卿が10月24日に、現代世界のため聖母の持つ特別の使命や尊厳、並びに主キリストに対する独特の深い関係を尊崇する立場から、提出された聖母についての新しい議案の必要性を力説すると、ウィーンのケーニヒ枢機卿は、公会議の基本路線を現代社会へのカトリック教会の適応問題一つに統一した方が合理的に纏まっていて理解され易いという実際的理由と、プロテスタントを顧慮してのエキュメニカルな理由から、提出された聖母についての議案は大きく縮小して教会についての議案の一部となすことを主張した。種々の論議の後、四日後の29日にそれについて票決したら、1,114票対1,074票というわずか40票の差で、聖母についての議案は縮小され、教会憲章の最後の章(第8章)に書き改められることになった。大戦後のピオ12世在世中にマリア学が盛んになり、聖母についての議案にはその成果が大きく盛り込まれていると期待されていたが、プロテスタントに対する配慮からそれらの多くは削除されたようである。それでも、例えば教会憲章61項には「マリアは恩寵の世界において我々にとって母であった」という言葉があったり、67項には「聖なる教会会議はこのカトリックの教理を熟慮の上、云々」と、公会議公文書の中では初めて1回だけここに「カトリック」という言葉を登場させたりして、プロテスタントとは違って、聖母マリアを「我らの母」として崇敬するカトリック者の信心業などについて言及している。しかし、上記のサントス枢機卿たちにとっては真に物足りないものであったと思われる。筆者は私家版の拙著『一杯の水』148頁辺りやその他の所で、66年に一か月余りウィーンに滞在した時実際にケーニヒ枢機卿の話を聞き、一度はウィーン大司教区の若者たち2千人程に5人の司教が堅信の秘跡を授けるミサに招かれて、一緒にその堅信式のお手伝いをしたことなどについても書いたことがあり、同枢機卿が大きな善意をもって公会議場で発言なされたことはよく心得ているが、後で回顧すると、この枢機卿の発言で聖母についての議案が退けられた63年の秋頃から、悪魔の力が教会内に激しく介入し始めたように思われてならない。
第二のことは、公会議の第二会期の頃からローマで頻繁に見聞きするようになった改革推進の動きである。既に公会議前にも一部の若手聖職者たちの間では規則遵守一辺倒のような従来の教会を批判し、改革させようとする動向は見られた。筆者がローマに留学していた60年6月に、日本では全学連の学生たちが大規模のデモ行進をして国会の敷地内に突入したと聞いたが、その少し前の4月か5月頃、プロテスタント諸派に対してバランスの取れた理解を示していた近世教会史担当のヴィロスラーダ教授(スペイン人イエズス会員) のラテン語による講義を聴いていたら、突然筆者より一年上のイエズス会員の学生が質問を始めた。その学生の国籍は知らないが、ドイツ人かアメリカ人ではなかったかと思う。彼はスペイン人教授の返答を聴いても満足せず、時間をかけて執拗に教授の見解に対する批判的質問を投げていた。この出来事に驚いたのは筆者だけではなく、その場にいたカプチン会やフランシスコ会の学生たちも、後で「イエズス会が二つに割れている」などと話し合っていた。優秀な学者を多く集めているイエズス会は、それまでは会員が相互に堅く団結していたので、筆者も先輩たちから「論文を作成する時はイエズス会員の学説はなるべく批判しないように。後で必ず仕返しされるから」などと忠告されていた。同様の言葉は、一緒に学んでいたカプチン会やフランシスコ会の学生たちからも聞かされていたが、この60年頃からはイエズス会内部で、年輩者と若手研究者たちとの間に見解の対立が生じ、それが次第に深まって行ったように思われてならない。70年代になってから年輩の温厚なイエズス会員たちから、それに関連した言葉を幾度か断片的に聞かされたからである。カトリックの伝統思想を外敵から護り発展させるため、上下に堅く団結し活動して来た選り優れた精鋭部隊のようなイエズス会の内部に分裂が生じ、若手部隊の一部がその矛先をそれまでの伝統を変革させる方に向け始めたようである。筆者の尊敬していた年輩のイエズス会員の一部は、それによって公会議によって始まった教会の新しい動きが崩され兼ねない、と心配もしていたようである。1950年代の始め、テイヤール・ド・シャルダン神父がローマのイエズス会総長の許に来て、どれ程理を尽くして願っても教職に就く許可が与えられなかったことが、あるいはイエズス会内でのこのような対立の発生と関連しているのかも知れない。
  戦後の民主主義教育・自由主義教育を受けたカトリックの若手聖職者や神学生たちは、59年1月に教皇が公会議の開催を公言なされた頃から、上長の言行を批判して現状の改善・改革を要請するブラック・レターをより上位の上長に書き送ることが多くなったようで、例えば公会議で取り上げるべき議題についての意見を聴くため、教皇庁が諸修道会の総長会議を開催しても体の不調を理由に代理者を送る修道会が多く、公会議直前頃のローマでは、「総長病」という言葉が流行していた。聞くところによると、多くの総長が若い会員たちからの苦情が多すぎて、胃腸病を患っているとのことであった。筆者の見聞きしたところ62年の冬か春ごろからは、ローマにいた一部の若手聖職者たちが、公会議の開催に否定的であった教皇庁の保守派枢機卿たちについて露骨な批判を口にするようになり、この動向は上述したように公会議の第一会期に保守派が大敗すると、彼らは次第にこれまでのカトリックの伝統をもっと大きく改革し、プロテスタント教会に近づくことを望むようになったように思う。筆者の親しくしていた神言会のイタリア人神学生は65年春の終生誓願宣立を1年間延期したが、彼はその時筆者に、「この公会議でカトリック司祭にも結婚する道が開かれるのではないか。云々」と、自分の誓願延期の理由を説明していた。しかし翌年、その望みが断たれると修道会を退会した。64年秋の公会議第三会期には、深刻な司祭不足に悩んでいた中南米の司教団から、カトリック司祭にも希望者には結婚を許可する道を開いて欲しいという強い提案がなされ、公会議場で討議されたことがあった。しかし、筆者の記憶違いでなければ65年秋か公会議直後頃に、司祭の独身制を特別に高く評価していた教皇パウロ6世が、「もうこれ以上この制度について議論しないで欲しい」と公会議教父たちに願ってこの案件は退けられ、カトリック司祭に結婚を許さない千数百年来の伝統は、そのまま現在も続いている。本誌59号 (2009年8月)所収の拙稿「司祭年を迎えて思うこと」をお読みになった読者は、64年から77年にかけて全世界で司祭職を離れた司祭数の多さに驚かれたであろう。それによって中南米ばかりか、欧米の多くの国々でも司祭数の不足が深刻な事態になり始めたが、教皇パウロ6世は、全人類の救いのため一切の人間的思惑を捨て去り、神の御摂理一つに全てを任せて従順に生き抜かれた大祭司キリストの美しい司祭像を現代世界に証しするため、司祭数の大減少も覚悟してあの論議打ち切りをお決めになったのだと思う。筆者は今になっても、人間的思惑を全て退けて神の御摂理一つに従おうとなされた教皇のあの決定は、それで良かったと考えている。


筆者が公会議後に体験した、第二ヴァチカン公会議のプラス面

  公会議の最初の三つの会期に度々破竹の勢いを示していた進歩派の教父たちは、第四会期に現代世界に対するカトリック教会の姿勢や方策が討議されるようになったら、それまでの多少楽観的な態度を変更し、もっと現実的に慎重に考えようとする動きを示していたが、こうして65年12月8日に聖ペトロ大聖堂広場で荘厳ミサをささげた後に、教皇が現代世界に対する全教会の愛のしるしとして、世界諸国で働いている幾つかの慈善事業に合計9万ドルの寄付をなしたり、種々の身分の人々に宛てた公会議教父たちの七つのメッセージをフランス語で朗読なされたりして公会議を閉会なさった時、筆者は、いよいよこれから全世界に向けて大きく門戸を開いた新しいカトリック教会の時代が始まったのだという、明るい希望に満ちた喜びを感じた。教皇もその年のクリスマスに、「公会議はその本質上永続すべき事実であり、教会はもはや公会議以前の状態に戻ることはできない。新しい時代が既に始まったのである」などと笑顔で話しておられた。
  この公会議がもたらした積極的側面での幾つかの変化を箇条書きにしてみると、
① 教会を神からの恵みを人類に伝える普遍的な原秘跡(ursacramentum)と考え、組織や制度に留まり勝ちであったこれまでの静的姿勢を改めて、他宗派や他宗教にも歩み寄り全人類に積極的に奉仕しようとする「旅する教会」の精神を示したこと。
② 洗礼によりキリストの普遍的祭司職にも参与している信徒の役割や使命を重視して、ローマ教皇庁中心の従来の聖職者至上主義や中央集権体制などを改め、信徒や各国地方教会の声も吸い上げながら、共に考え、共に働こうとしていること。
③ 古来の伝統的ラテン語の典礼祭儀を大切にしながら、それと共存させる形で新しい典礼祭儀も産み出し尊重して、この相異なる両者の共存や擦り合わせで、どちらの祈りや典礼も、民衆に根ざした豊かなものに発展させるようとしていること。
  と表現してもよいであろう。ここではこのうち①の、他宗派や他宗教に開かれた教会の姿についてだけ、筆者が体験したことを簡単に紹介してみよう。記憶が定かでないが、確か63年に立正佼成会の庭野日敬師が教皇パウロ6世を訪問して歓迎されたのを始めとして、その後は日本のいろいろの宗派の代表者がローマ教皇を訪問し、一度は日本の仏教諸派の代表団が柴山禅師を長としてローマに来訪したこともあった。当時はテレビが世界的に普及し、ジャンボ・ジェット機が国際旅行を便利にしていたので、ヴァチカン公会議の動きもマスコミを介して日本に詳しく伝えられ、これからは世界の諸宗教が提携して人類の内的仕合わせのために貢献する時代なのだ、と考えられたのであろう。
  筆者は66年8月下旬に帰国し、その年の春に完成した現在の神言神学院に住んでいるが、ローマを去る時、それまでの5年間ローマの神言会修道院にいた時だけ、その修道院の近くにある大きなサン・ベネデット教会で、毎日曜日午前に3時間ほどイタリア人の聴罪をしてくれたことに感謝を表明した主任司祭から、筆者が聴罪していた第八告解場での筆者の前任者が、今東京の駐日教皇大使館にいるから、帰国したらそのイタリア人神父を訪問して欲しいと依頼された。それで66年秋に、珍しくドイツ人のWüstenberg駐日教皇大使の参事官をしていた、そのモンセニョール・アチェルビ師を訪問して歓談したら、翌年の5月始めに、神言神学院聖堂の献堂式のためWüstenberg大司教に伴ってアチェルビ神父も名古屋に来て、5月3日の献堂式前後に数日間滞在した。教皇大使は教皇庁からの勧めに基づいてか、この機会に伊勢神宮を訪問したいのでその便宜をはかって欲しい、と予め名古屋の神言会に依頼していたので、南山大学を介して伊勢神宮に予約し、5月2日に南山大学の沼沢学長とボルド神父ら、それに教皇大使の通訳を依頼されていた筆者も随伴して、教皇大使とその参事官と共に近鉄特急で伊勢を訪問した。伊勢市駅で下車してタクシーに乗ろうとしたら、駅長さんが飛んで来て、隣の宇治山田駅で待っていた伊勢神宮の送迎車から電話があって、今こちらに向かっているからタクシーに乗らないで暫く待つようにと告げられた。そして間もなくタクシーよりも半メートル余り後方に長い立派な送迎車が二台到着し、それに乗せられて伊勢神宮に迎え入れられた。皇族でも神道信者でもないので、五十鈴川畔でのお浄めの儀式のようなものはなかったが、接待は皇族並みのようであった。そして御祈祷の儀式に参列していたら、その日のために作られた新しい美しい祝詞に、教皇大使は「この日伊勢神宮に派遣された特派教皇大使」とされていた。大使一行を歓待した人たちは皆神道の服装であったが、最後に応接室で来訪を感謝し歓待した伊勢神宮の館長(?)さんは洋服姿で、以前に一度ヴァチカンを訪問し教皇パウロ6世に謁見する栄誉に浴したなどと、諸宗教の代表者たちが国際的に睦まじく話し合い協力し合う時代の到来したことを慶賀していた。これが、筆者が他宗教の本部を訪問し優遇された最初の体験であった。
  本誌54号 (2007年12月)所収の拙稿に「公会議後の日本で体験したことの一端」と題して述べていることと重複するが、筆者はその後、公会議第一会期に日本のプロテスタント諸派を代表しオブザーバーとして出席した東大教授有賀鉄太郎氏の後を継いで、第二会期から第四会議まで出席した同志社大学教授土居真俊氏からの招きを受けて、京都のNCC宗教研究所主催の「諸宗教を学ぶゼミナール」に、69年から2000年まで積極的に参加した。高野山で開催された69年のゼミナールは三泊四日であったが、その他の時はいずれも二泊三日で、高野山・比叡山を始めとして、京都の知恩院・万福寺・西本願寺・東本願寺・ハリストス教会・伏見の稲荷大社、また身延山の日蓮宗や、東京の立正佼成会本部・ユダヤ教本部・イスラミック研究所・立川の真如苑本部、更に亀岡と綾部の大本教本部、出雲大社や岡山県の金光教本部、門司の上座部仏教本部等々多くの所に、その宗派で重んじられている僧坊や信徒宿泊所などで泊めて頂きながら、その宗派の勤行や礼拝行事を間近に参観したり、その宗派の一流宗教者から宗派の教えや組織や活動状況などについて詳しく学んだりしたことは、筆者の信仰生活にとっても得る所が少なくなかった。第二ヴァチカン公会議の新しい路線に対してはどの宗派の本部でも関心を示しており、筆者がカトリック司祭であることを知ると、特別に親切にしてくれた人たちもいた。そしてどの宗派でも、私たちの信奉している全能の神や復活の主キリストが密かに現存し、信仰に生きる人たちの中で働いておられるのが感じられた。
  上述の本誌54号の拙稿には、真如苑本部で研修を受けた時の体験やその他について記したが、それらを少しだけ補足すると、幕末明治の庶民層に根を張って発展して来た天理教・金光教・大本教などは、キリスト教と同様に天地万物の創造主を神と崇めているが、信徒の子供たちの多くが大学に進学する時代を迎えて、いつまでも創立期の庶民向け説法を続けていては信徒の信仰心を深めることができないので、大学院で宗教学を専攻させた信徒たちに、宗派の教理を大学出身者の宗教的ニーズに応えるものへと発展させる使命を与えていた。例えば筆者が81年秋に金光教本部を訪れた時には、そこにそのような人たち数人を集めている小さな研究所があって、彼らは筆者に「我々は、聖書を唯一の信仰基盤としているプロテスタントの人たちとは神信仰について話し合うことができない。しかし、カトリックは聖書よりも神秘な神の愛と働きを第一の基盤としているので、そのカトリックの信仰についてもっと知りたいのだ」などと話していた。そして「無名のキリスト者」について書いたカール・ラーナーの著作を研究している、とも語っていた。筆者はそれを聞いて、第二ヴァチカン公会議を開催させてカトリック教会の伝統を全人類に開かれたものとなさった神は、これらの諸宗教の中でも積極的に働いて多くの信徒を導き、やがては全人類を神の許に一つの群れに集めようとしておられるのだと思った。そしてその後で、東京の国学院大学で日本宗教学会の学術大会に出席したら、金光教のその若手研究者たちからそこで声をかけられ、本当に嬉しく覚えた。その数年前であったかと思うが、天理大学で宗教学会の学術大会が開催された時には、参加した学者たちの多くは、天理教の「おやさと48号館」という大きな一流ホテルのような建物に宿泊したが、筆者は既に天理教の人たちに目をつけられていたようで、「カトリックさん」と呼ばれてそこでも優遇されていた。そして最後の懇親会の時には、「おやさと48号館」の大広間で当時の第五代真柱(しんばしら)様ご夫妻のすぐ傍で席を与えられ、酒を注いでもらったりした。それでこの機会に筆者が子供の頃によく耳にしていた「天理教に入ると財産をつぶす」という苦情を持ちだして、大正から昭和初期にかけての第三代真柱様のことも尋ねて見た。カトリックのローマ教皇の中にも、中世末期やルネサンス時代にはお金集めをして酷い不評を買っていた人が何人もいるが、第三代真柱様もそのような性格の方だったようである。しかし、集めた寄付は良い目的のためにどしどし支出した、偉大な企業家の一人だったようである。キリシタンものや中国からの貴重な古い文化財など、当時でなければ蒐集できなかったような文化財が天理大学の博物館に多く貯蔵されているのを見ると、神は天理教の中でも力強く働いておられたのだ、という印象を受けた。そして今はまた新たな形で、神は天理教を介しても、神信仰における全人類一致のために働いておられると申してよいのではなかろうか。
しかし、日本のカトリックを代表する人たちが第二ヴァチカン公会議の精神とは違って、教会外の諸宗教に積極的関心を持とうとせず、政府に対して公然と左翼的発言をすることが多くなるにつれて、一時は盛り上がっていた諸宗教側のカトリックに対する関心も、次第に薄れて行ったように思われる。筆者の属する神言会では創立者の時から毎月一度聖霊の賜物を願うミサを捧げる慣習を堅持しているが、筆者はそのミサを全教会のためばかりでなく、全人類のため、特に今聖霊の導きや助けを必要としている人たちのために捧げることにしている。すると日本のカトリック者たちの間ではあまり耳にしないが、異教徒の日本人たちの間では聖霊が大きな働きをして下さるようなので、筆者は神に感謝している。20数年前から無教会主義の幕屋運動の機関紙『生命之光』が、その編集者から筆者の許へ無料で郵送されて来るが、そこにはかなり頻繁に聖霊による癒しや導きの体験記が載っているので、筆者は広い心でその運動のためにも神に祈っており、福者マザー・テレサのように、宗派を超えて全ての人に積極的に神の愛をもって奉仕するのが、第二ヴァチカン公会議の精神と思っている。


筆者が公会議後に日本のカトリック教会で見聞きしたマイナス面

  公会議が閉会してから45年も経っており、その間に信徒数も殆ど増えず、教会内での活気も失われて来ているように見える日本カトリック教会のマイナス面は多くて何を書くべきかに迷うが、紙面の都合もあるので、神が公会議を通してお示しになり筆者がローマで学んで来た教会の新しい信仰精神の観点から、二点だけ指摘してみたい。
  その第一は、神が大らかな広い御心で全人類の中に現存し、多種多様の仕方で人々を導き助けておられるのに、日本カトリックの指導層はその神の働きを総合的に洞察してそれに従おうとはせず、人間側で考え出した種々のこの世的理念や改革案にこもって、わが国のカトリック教会を指導しているのではなかろうか、という印象である。現代人は昔よりも遥かに多様化しているので、昔の教会のように一部の人たちの考えを中心にして教会全体を指導しようとしても、人々の反応は保守や革新に分かれるだけで、公会議を開催させて教会を現代化し、もっと信徒の声に耳を傾けるように、また諸宗教とも協力して全ての人に神からの恵みを伝える普遍的原秘跡となるように、と積極的に指導しておられる神は、その呼びかけに従わないグループの中ではお働きにならないように思われる。神は2千年来の教会伝統を重視し尊重しつつも、それと共存させて現代人類のため下からの新しい奉仕的活動を始めるよう強く望んでおられるようである。
  長年本誌に執筆しておられる澤田昭夫氏の主張には忘れてならない貴重なものがたくさんあるが、しかし神は、その主張とは違う形でも現実の教会を導いておられることを見落としてはならない。例えば、氏の主張する「向東」は古来東方教会でも西方教会でも大切にされて来た貴重な伝統であるが、神は教会がその伝統一辺倒に固まるのをお望みではないようで、古来次々と現実に働きかけてその伝統の例外も教会内に多く導入して下さっている。例示するなら、コンスタンティヌス大帝が1世紀の聖ペトロの古い墓の上に建設させた聖ペトロ大聖堂は西向きになっている。それが16世紀に新築された現在の聖ペトロ大聖堂も西向きで、西日が射す時には本祭壇後方のステンドグラスの絵が眩しい程に美しく輝く。そして4世紀半ば過ぎに建設されたローマの聖母聖堂も、その上に建設された現在のサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂も、聖ペトロ大聖堂の建つ北西方向に向いて建てられている。古代教会史を調べると、東方の司教団とローマ司教、アフリカの司教団とローマ司教などの対立があり、それぞれ聖エイレナイオス司教や聖チプリアノ司教らが心を開いて神の新しい介入に従うよう司教たちに説き、ローマ司教と共存の信仰精神で解決している。『使徒の宣教』10章に述べられている聖ペトロの体験を見ても、私たちの信奉している神は、順調に発展していると思われる教会に、時々それまでの伝統とは違う新しい仕方で活動するようにお導きになる神である。主キリストの体である教会は、主と共に神の僕として己を無にし、神の御旨への徹底的従順に生きるべき存在なのだから、それまでの伝統や人間が考え出す理念を最高の基準とはせずに、常に神よりの新しい導きに従うよう心掛けるべきであろう。
  そのためには、心を大きく開いて神のお創りになった全世界や全人類の動向、並びにその中での教会の使命などを総合的に洞察するように努め、特に各人の心に働きかける神の声や、神からの助けを求めている弱い者、小さい者たちの声に、謙虚に心の耳を傾ける必要がある。神は屡々多くの人から無視され勝ちな小さな出逢いや出来事を介して、私たちをお導きになるからである。主は「ファリサイ派のパン種」に警戒するよう弟子たちにお命じになり、そのお言葉はマタイもマルコもルカも書き伝えているが、当時のファリサイ派は全ての律法をできるだけ忠実に守り、社会道徳に背くような罪は何一つ犯さず、人間的社会的には尊敬に値する人たちで、その生き方に誇りを感じていたと思われる。では、なぜその生き方に警戒するよう主がお命じになったのであろうか。思うにそれは、宗教教師であった彼らの心が、ユダヤ教の不動の教義と規則、並びにそれらを遵守すべきこの世の人々にだけ向けられていて、神をこの世から遠く離れたあの世に鎮座しておられる存在と考えていたからではなかろうか。そのため、ご自身を神として振る舞われる、下層社会からの出身者主イエスに躓き、その言行を神に対する赦し難い冒涜と受け止めたのだと思う。あの世の命に復活なされたその主は、今は私たちの間に隠れて現存し、私たちの全てを観ておられるのではなかろうか。昔のファリサイ派のように何か不動の理知的原理を打ち立てて教会や周辺社会を改革しようとするのではなく、神の僕、神の婢として聖霊の導きに従い、福者マザー・テレサのように柔軟な開いた心で悩みを抱えた現代世界に奉仕しようとするのが、今回の公会議の精神であろう。日本のカトリック教会にはそのような精神で生きている人たちもいるが、全体的にはまだ目に見えない神の臨在や導き・働きよりは、目前の事象にだけ注目している人たちが多すぎるように思われる。これは全世界の今のカトリック教会でも目に立つ現象であるが、神の導き・働きに信仰を持って従うのでなければ、人間の努力をどれ程結集しても、複雑になっている現代人の心や現代世界を新しい愛の精神で若返らせることはできないであろう。2千年前にユダヤ社会のため大きな善意をもって働いていたファリサイ派の努力が、この世に臨在して働かれた神に対する信仰の目覚めに欠けていたため、エルサレムの滅亡という大惨事を招いてしまったが、黙示録3章に描かれているラオデキア教会のような生ぬるい信仰生活の状態に留まっているように見える今の日本の教会にも、神からの恐ろしい試練を受ける日が近づいているのではなかろうか。神が一番問題にしておられる罪は、私たちの心の奥底に根ざす自分中心の「古いアダム」の不従順の罪一つであろう。厳しい天罰を容赦しない神に対する怖れからもその罪を悔い改め、神の僕・婢として主キリストと共に徹底的従順に生きたいものである。
  公会議後の日本の教会で目につく第二のことは、古い伝統との共存や信徒の声を重んずる公会議の精神にはそぐわない、「改革」の動きである。上述のように公会議は「改革」という言葉を避けていたが、公会議後のわが国では「典礼改革」だの何だのと頻繁に「改革」という言葉が使用され、首都圏から遠く離れていて70年代前半頃まではまだ田舎都市の雰囲気を残していた名古屋に住む筆者には、その動きはいつも首都圏から数年遅れて名古屋の諸教会に伝わって来るように感じられていた。すなわち首都圏では既に60年代後半から一部のイエズス会員たちの熱心な呼びかけで、カトリックの典礼を新しいものに改革しようとする動きが具体化していたようだが、それが若い信徒や神学生たちの交流を介して名古屋に伝わって来たのは、学生紛争が盛んであった70年を過ぎてからのようである。70年代前半には、神言神学院にあった古い立派な祭服やアルバ、以前に司祭たちが入祭時に使用していた黒い布製の四角帽ビレタや使い慣れたカリス、古い赤・白・黒・紫・緑のストラ、ラテン語の式典書やミサ典書などは、何時の間にか全て「香部屋」と言っていた祭具や祭儀の準備室から消えており、祭服やストラは全て今全国で一般的に使用されている新しいタイプのものに統一され、式典書もミサ典書も日本語の新しいものだけに入れ替わっていた。当時の神学院長は典礼も「香部屋」も全て若い神学生たちに任せていたようだから、おそらくその日本人神学生たちが「名古屋は遅れている」という東京方面からの声に促されて、古いものを古道具屋などに売り飛ばし、新しい祭具に変えたのだと思われる。後年名古屋の古い信者たちから聞いた話だが、長年使い古したと思われる古風の立派なカリスが、古道具屋に飾られているのを見たそうである。これは明らかに教会法に違反する犯罪だと思うが、70年代には典礼改革のため若い人たちによって平気でそのようなことが行われていたようである。やがて東京の一部で流行したらしい、祭壇を食卓と見なす新しいやり方でミサ聖祭をささげることが神学生たちによって一時的に導入され、筆者の恩師でローマで典礼学の博士号を取得していたドイツ人ラング神父は、ローマの新しい規則に基づいて何を言っても受け入れられないからと、その後は公会議後にローマの認可で発行された新しいラテン語のミサ典書で、毎朝早朝に個人ミサをささげるようになった。高齢の神父なので不慮の事故に備えるため、筆者もラング神父の隣の祭壇で同じ時間帯にラテン語で個人ミサをささげていたが、その時使用した公会議後に発行されたラテン語のミサ典書は、教皇庁から全ての小教区に一冊だけは備えて置くようにと指令されたものである。しかし、筆者は日本のどこの教会に行っても、ラテン語のそのミサ典書は一冊も見ていない。個人ミサをささげることは公会議でも許されており典礼憲章に明記されているが、その頃の神学生たちは「個人でささげるミサはミサではない」と、東京の人たちが批判していたと話していた。どうもこの70年代前半頃から、日本のカトリック教会は公会議の意図した路線から大きく逸脱し始めたように思われてならない。礼拝堂を祈りや宗教目的のためにだけ使用していた名古屋のプロテスタント牧師たちは、カトリックの諸教会が70年代から、社会的な諸種の行事にもその聖堂を使用させていることに驚いていた。筆者は諸方面からの依頼を受けて全国各地の教会を訪ねているが、そこで度々耳にしたのは、日本語典礼の言葉や訳語についての批判であった。読者も同様の批判を耳にしておられると思うからここでは省くが、聞くところによると、日本の典礼委員会による典礼改革に対する一切の批判は、かなり早い段階で日本司教団から厳しく禁止されているのだそうで、筆者は知らずにいたが、カトリック新聞などではそういう批判の声を載せてはいけない事になっているのだそうである。しかし、下からの声を吸い上げずに上からの改革を押し付ける仕方は、明らかにこの度の公会議の精神に背いており、信徒の心の中に教会に対する魅力も意欲も失わせ、次第に上述した黙示録3章のラオデキア教会のような、「熱くも冷たくもない、生ぬるい教会」にしてしまうのではなかろうか。
  聞くところによると、81年2月に来日されたローマ教皇は、日本での天皇との会見や諸宗教の代表者たちとの会見を強く望んでおられたのに、それが実現しなかったのは、日本の司教団がそれまでの靖国反対運動などのためか、神道や諸宗教との関係が悪化していたことによるのだそうだが、これも公会議の精神にもとる真に残念な結果であったと思う。長崎での野外ミサの時の教皇の話は事前に日本文と英文でマスコミに渡されたそうだが、そこに読まれた「この国は明治天皇によって与えられた宗教の自由を、もう一世紀以上も享受しています」の言葉も、日本司教団の進言で削除されたのだそうである。教皇は日本に向かってローマを発つ時も、日本を去る時も、「天皇陛下に深く感謝しています」と繰り返し公言なされたそうだが、インドやその他多くの国々を訪問なさった時とは違って、わが国では天皇にも他宗教の代表者たちにも会見できなかったことは、大きな驚きであったと思われる。わが国の教会が第二ヴァチカン公会議の精神から離脱していることを象徴的に示した、一つの残念な不祥事だったのかも知れない。公会議の精神を体得し実践しないなら、神の霊は生き生きと効果的に働いてくれないのではなかろうか。聖アウグスティヌスの「善き網によっては善き魚も悪しき魚も捕えられるが、悪しき網によっては善き魚は捕えられない」という言葉が、思い出された。


訂正 : この拙稿が出版された後に、野村勝美氏からピーター・ミルワード著/関栄一 訳 『教皇の日本巡礼記』のコピーを添えての懇切な指摘があり、教皇は実際に昭和天皇を表敬訪問して、「会見は予定をはるかに超え、天皇陛下は通常の儀礼に反して、この賓客をご自分で玄関までお送りになられた」由を知った。筆者が情報を正しく調べずに、教皇の天皇に対する表敬訪問が実現できなかったと書いた間違いを指摘した下さった野村氏に感謝し、読者に深くお侘びしたい。又、同日(1981.2.24)午前には「諸宗教代表者の集い」が開かれており、29人が代表として参加、教皇と共に祈ったと記録されている。

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