リンブルク司教の悲劇

Atsuko Lenarz
(ドイツ Offenbach am Main 在住)

2013.10.30

 

  ドイツでは今、リンブルクの司教と司教館建築費用に関する問題を巡って毎日のように論議が沸騰し、教会始まって以来の大スキャンダルとされている。遂には日本の各新聞にまで報道されたように、当初は250万ユーロ(約3億2500万円)の予定であったが度重なる変更で増大し、3100万ユーロ以上にまで上方修正されたのが原因である。今まで殆ど日の目を浴びることのなかったリンブルク司教区は一躍脚光を浴び、テバルツ・ファン・エルスト司教(Dr,Franz Peter Tebartz van Elst、53歳)はマスコミにより凶悪犯人として全世界に紹介される羽目になってしまった。しかし実質的には司教、司教座参事会の諸司祭、教会財産管理委員会、建設会社などの間で連絡の行き違い、誤解その他の複雑な事情が重なり、納得ある説明もなかった点が大いに非難されている。そこで真相を把握するためにドイツ司教団は調査委員会を設置し、作業が始まったばかりなのでしばらく時間がかかるであろうとのことである。その結果、本件は司教一人の責任なのか、それとも事件の鍵を握っているとされる側近や委員会の責任なのか、或いは共同責任なのか、などの疑惑を解消させてから教皇庁が司教について最終的な判断を下すことになった。しかしリンブルク司教館の建築費用を数倍上回るような建物を構築し、豪邸に暮らす司教もいるのに、全く問題にならないのは何故であろうか。今回は事件をこれほどまでに大袈裟に書きたてた背後の事情について筆者の知る限りのことをお知らせしたい。簡単に言えばこの司教追放を計画していた首謀者一同が建築費問題をうまく利用して騒ぎ立て、世間の全面的な支持を得て目的達成に到ったというのが、本件の真相である。これを知るために一応の背景をお知らせするために書いたのが本稿である。


ドイツのカトリック教会の縮図、リンブルク司教区

   ドイツのマスコミは全般的にカトリック教会を時代逆行、保守反動、女性差別団体などと見做して、これを心底軽蔑していることは周知の事実である。しかも世間的な批判や偏見に同調して信徒自らが教会を忌避する姿勢はカトリック教会内部にまで深く浸透している。教会や司祭の名誉を陥れるためにはいかなる手段も厭わないほどにマスコミのカトリック教会叩きの姿勢は徹底的である。そのために教会の教えに忠実に従い、教皇の指針を仰ごうとする良心的な人々は司祭、信徒を問わず[保守・反動][教皇の下僕]などの語で非難・批判に晒され苦しい試練に会うことしばしばである。このようなドイツのカトリック教会の歪んだ状況について [ヴァチカンへの道]誌で度々紹介した通りであるが、今回のリンブルクはその 典型的な縮図である。

   1828年に創設されたリンブルク司教区はリンブルク市とその周辺地域及びフランクフルトやヴィースバーデンなどの都市から近郊の小都市まで全てを包括している。この司教区は第二ヴァチカン公会議の[現代世界に開かれた教会]の精神を楯に取り信徒の意見や多数決原理を重視する教会となり、正統な教会路線から大幅に逸れたために、パウロ6世は当時のケンプ司教を罷免することすら考えていたほどである。この自由主義的な風潮は1982年から2007年まで司教区を指導した後継者カンプハウス司教(Dr.Franz Kamphaus)の時代になると、さらに拍車がかかった。同司教は質実剛健をモットーにした質素で謙虚な人物として現在に到るまでも名声の誉れ高い人物であるが、[司教は教皇によって選ばれるのではなく、聖霊によって選ばれるのだ。]と断言したその姿勢にはローマ教皇庁とは一致しない面が多分にあったことは否定できない。各地の小教区では司祭の自己流発明ミサ、省略ミサなどが横行し、女性が堂々と祭壇に上がり、司祭の援助と称してはミサの司式に近い行為に及んでいたなどの様々な報告がある。或いは世俗の人間顔負けの奇抜な服装の司祭もおり、[司祭の黒服は見る者に不快感を与え、心を傷つける。]などの勝手な論理が堂々とまかり通り、正規の司祭服を着ている司祭に対する信徒の視線は侮蔑的ですらあった。こうしてリンブルク司教区は、[公会議精神を推進する進歩派]の砦と言われ、教会の信徒役員会の組織自体が完全にプロテスタント教会化し、信徒はプロテスタント教会の判断基準で自らのカトリック教会を判断し、これが教会法に違反していると指摘する声は皆無に近かった。司教区はリベラル、進歩派と称する信徒役員会や造反信徒が組織する[我等は教会]などの手中に完全に握られ、カンプハウス司教は正統な軌道から大幅に脱線した教区の状況を知りながらもこれを黙認或いは容認し、統率者として取るべき処置も取らなかったのである。同司教は2007年の75歳誕生日を機に前教皇ベネディクト16世に提出した引退願いは直ちに受理された。中には75歳の定年を過ぎても教皇の懇願で更に数年在職する司教もいることを思えば、教皇庁がリンブルク司教区の風潮を早く改善させたいと願っていたことは一目瞭然である。


現リンブルク司教の姿勢

   このように荒廃したリンブルク司教区に第12代目司教としてベネディクト16世から任命され、2008年1月20日付きで正式に就任したのが今回の事件の主役テバルツ・ファン・エルスト司教である。筆者はこの司教については[ヴァチカンへの道]誌で数回、紹介したことがあるので、思い出して下されば幸いである。新聞はこの司教が教皇の指導方針に忠実で、その信任も厚い人物であることを度々紹介した。これらの報道を読んだリンブルクの教区民は早くも司教に対する不安と嫌悪感を口走るようになった。同司教はリンブルクのドームに正式に着座した後、2008年一月末に初めてフランクフルトのドームを公式訪問したが、筆者の後ろの列では[この司教は保守的だそうで、残念ですね。]の声が囁かれていたのをよく覚えている。要するに司教は教会と教皇に忠実という前評判のために最初から信徒の冷たい拒否反応で迎えられたのである。

   就任後のテバルツ・ファン・エルスト司教が目指したのは、様々な面で正統な軌道から脱線していたリンブルク教区の路線修正と信仰への回帰であった。各地の教会を訪れては、説教の中でベネディクト16世の講話を度々引用しながら、ドイツ社会の再キリスト教化の必要性を熱心に説いて回った。この姿勢を快く思わない司祭や信徒はマスコミ勢力と完全に結託し、新聞や各種雑誌は司教について[教皇の子飼い][保守反動主義者]など数々の誹謗中傷の語を慢性的に飛ばすようになった。正しいミサ聖祭を重んじる司教は司祭の自己流ミサや省略ミサなどを矯正し、教会法に則した正統なミサの実施にも努めた。真摯な態度で典礼を正確かつ荘厳に執り行ったが、信徒やマスコミからは[仰々しいだけで虚飾に満ちた無意味な行列]などと非難される有様であった。宗教者としての尊厳性と温かみを十分に持ち合わせていたこの司教の意図を理解しようとした信徒は余りにも少なかった。逆に好き勝手な風潮を取り締まらなかったカンプハウス前司教を懐かしむ声だけが高まった。司教座参事会員や極めてプロテスタント教会に類似した信徒委員会の役員はここでの諸決定こそが教会の中心であると主張したのに対して、テバルツ・ファン・エルスト司教は、教会の基準はキリストの福音にあることを常に力説した。共に原則論に終始して歩み寄りの兆しはなく、心理的な亀裂は深まり、教会内で司教の敵が次第に増えて行ったのは、大きな悲劇であったと言えるだろう。


司教に対する反抗

   彼等がテバルツ・ファン・エルスト司教を批判・攻撃する機会は意外にも早くやって来た。この事件については[ヴァチカンへの道]58号で紹介したが、要するに2008年8月、ある町の主席司祭Kが同性愛者の集団を公然と祝福した時に、司教が これはカトリック教会の教えに背くものである、としてこの司祭を格下げしたという出来事である。しかしこれを機にマスコミは一斉に司教の処置を不寛容、前近代的、排他的として非難・攻撃し、信徒の多くもここに同調したのであった。制裁を受けた司祭やこれを支持した教会役員等は司教への恨みを忘れなかった。正統な路線から逸脱した教会の軌道修正を望まない多数派司祭や信徒もテバルツ・ファン・エルスト司教が教皇から受けた信頼と名声を嫉み、ここに合流してネットワークを緊密にしながら報復の機会を待っていたのであった。

   しかし世間の誹謗・中傷、造反司祭や信徒の抵抗に左右されず、どこに行っても常に明確な態度で教会と教皇への忠誠をいつも率直に表明した司教に接して大いに励まされた信徒も多い。前任のカンプハウス司教時代には教区の司祭養成所は空き家同然であったが、テバルツ・ファン・エルスト司教の就任後は、司祭志願者の数も僅かながら増加し、毎年数人が叙階されるという明るいニュースも聞こえるようになった。反抗的な信徒の圧力に押され、曖昧な言葉、時には二枚舌すら使う司教が圧倒数を占めるドイツの諸司教に比して、このテバルツ・ファン・エルスト司教は教会の真の刷新を望む良心的な信徒の希望の星とも言える貴重な存在であった。

   しかし司教が自分を失脚させようという陰謀が背後でめぐらされていることに一切気付なかったのは、致命的な欠陥であったと言われている。熱心なカトリック家庭に育った司教が余りにも純朴で世間の荒波を知らず、これに対する免疫がなかったことは、確かなようである。中には意地の悪い記者団の誘導尋問などをうまく切り抜ける司教もいるのだから、、、。テバルツ・ファン・エルスト司教は自分に対するマスコミの攻勢の激しさに驚き、悪意に満ちた意地の悪い質問から逃れるために報道陣などとの接触を極力避けるようになった。そのために司教は[自閉症]であるとの噂がまたたくまに広がってしまった。


司教館建築計画

   このような状況下で工事費250万ユーロの予定で2010年から始まったのが司教館の修理・改築兼新築である。工事が始まった瞬間に[カンプハウス前司教は質素な生活に徹したのに、今度の司教は何故司教館を新築するのか!]との批判を開始したのは、日頃司教を良く思わない信徒等であった。この誤解を解くために司教事務所は[老朽化した司教館の修理・改築は既にカンプハウス前司教時代から決定されていました。]と公表しても効果はなかった。前司教は住むべき司教館をアフリカの難民に提供し、自らは司祭養成所の一室に住んだために慈愛に満ちた司教とされていた。しかし司教館が難民に住み荒らされて損傷が目立っていたことは全く報道されず、信徒を無視した自分勝手な贅沢司教の汚名のみが宣伝されるようになった。


インド飛行

   マスコミの宣伝により司教の名声に陰りが見えて来た頃、司教はインドに出張した。貧民救済のために集めた募金をインドの教会に手渡すためであった。その際司教はビジネスクラスの切符を購入したが、過去に数回アジア・アフリカ方面に出張していた司教代理人から譲られたマイレッジを加算して実質的には一等でインドに飛んだのである。これを大々的に取り上げて[インドの貧民窟に一等席で飛んだ司教!]とのセンセーショナルな記事を発表したのは、大衆週刊誌Spiegelである。

   出張でビジネス・クラスや一等で飛ぶ司教は他にも幾人もいるのに、テバルツ・
ファン・エルスト司教だけが攻撃の矢面に晒されたのである。それまではマスコミの誹謗・中傷に反論もせずじっと耐えていた司教であったが、さすがにこの時は神経を刺激されたようで、遂に名誉棄損として雑誌社を告訴した。しかし報復として雑誌社も司教を訴えたのである。その際の聞き取り調査で[私はビジネス・クラスで飛びました。]と言ってしまったために虚偽の申告をしたかどで逆に裁判所から追訴される羽目に陥ってしまったのである。司教自身はビジネス・クラスの航空券を購入したので、マイレッジ加算のことは念頭になく、ビジネス・クラスで飛んだと思い込んでいたのかもしれないが、、。今度はまたたくまに嘘つき司教の汚名が全国的に広がった。司教に同情する人々は週刊誌の中傷記事など、無視していればこんな事態は避けられたはずと言うが、その意見は正しいであろう。


司教追放運動の開始

  こうして司教の評判が悪くなったことを見届けてから、反司教派の司祭21人(内2名はイエズス会士とフランシスコ会士)は彼等が既に2012年に司教宛に出した手紙を公表した。世間には[教区内の疎通を円滑にしてほしい。]という司教への嘆願書として紹介されたが、内容は同性結婚の許可、女性司祭、司祭独身制廃止などドイツで慢性的に討議されるお馴染みの要求のみであった。これに署名したのは、前述した通り同性愛者を祝福したために司教から制裁を受けた司祭Kや司祭の独身制廃止を公然と唱える司祭等である。中心人物はテバルツ・ファン・エルスト司教の厚い信任を受けて2010年8月からフランクフルト市の司祭団主席に就任したE神父である。しかしこのような勝手な諸要求に対して司教は即答しなかった。そのために[非民主主義者、独裁者]としての司教の姿が大々的に宣伝されてしまった。質悪な司祭とこれを支持するマスコミの意図的な悪宣伝のためにテバルツ・ファン・エルスト司教の対外的なイメージは全国的に悪化する一方であった。

   しかもこの間、司教事務所は当初の予算を何度か上方修正し、その経過に関する司教事務所の発表が不鮮明であったことが最終責任者としての司教の名声を決定的に悪化させてしまった。何かの口実をつけて司教追放を目論んだ人々にとってこれほど良い贈り物はないであろう。新聞、雑誌は毎日のようにこの問題を取り上げたが、それはもはや常識的な批判としての限度を遥かに超え、完全な人格攻撃であり、司教の日頃の努力を知る人々はその都度、大きく心を痛めた。

   さてフランクフルトのドームでは毎年8月25日に守護者聖バルトロメウスの祝日を祝っているが、今年は祝日ミサが先に挙げた司祭団主席E神父による司教への闘争宣言の場と化したのである。ミサに次いで信徒役員代表H氏は、他地区の教会からまでもやってきた大勢の信徒を前に司教への抗議状が読み上げ、これにサインをするように呼びかけた。ミサがこのような教会内の権力闘争同然の目的に利用されたことについて疑問を感じることもなく、割れるような拍手が長々と続いた。新聞やテレビは[司教の独裁に対して蜂起した司祭と信徒]として彼等を英雄視し、何も事情を知らない大半の読者はこれを鵜呑みにしたことは確実である。

   テバルツ・ファン・エルスト司教はこの時まで各種の非難に晒され孤立無援に追い込まれていたが、遂に教皇庁に助言を求めた結果、調停と調査のためにヴァチカン市国政庁長官ラヨロ枢機卿が9月に訪独した。枢機卿は対立する当事者双方に和解と平和的な解決を促した。これを受けて司教は報道陣を前に[私の態度が皆様に誤解を与えたことは深くお詫び致します。]と謝罪した。しかし反司教グループはこれを機にいよいよ闘争を激化させたのである。10月に入ると司教とラヨロ枢機卿の合意により、初めて工事の総経費は3100万ユーロ以上になることが発表された。度々建築計画が変更され、室内の調度品の配置などで作業のやり直しなどが重なったためである。この過剰な予算超過にリンブルクは勿論のこと世論は激怒し、司教に辞任を求める声が一挙に高まった。

   マスコミは完全に司教を極悪非道の悪人の烙印を押し、一致こぞって贅沢司教、詐欺師、ウソつき司教、偽善者、ならず者、二重人格者、精神分裂者、自閉症なありとあらゆる罵詈雑言の限りを尽くして前代未聞の非難・弾劾を繰り返した。リンブルクのドーム前に集まった人々も[質素だった前司教に比べて今の司教は本当に不快な人間です。早く出て行ってもらいたいものです。]と露骨な発言が毎日のように紹介された。[超豪邸]に住む[贅沢三昧に溺れる司教]としてテバルツ・ ファン・エルスト司教は一躍ドイツ中にその名を知られるようになった。しかし注意すべき点は、超豪華と言われる司教館の内、2-3室(含・司教用小礼拝堂)が司教個人の部屋であり、他は応接室、事務所、会議室、教区センターその他教会運営に関係する公共の部分であることだ。この点を司教事務所、後には司教自らが[これは私一人の物ではなく、リンブルク教区民のための公共の建物です。]と度々説明したが、これに耳を貸す者はなく、大邸宅に独身の司教が一人で好き勝手な生活を営むために巨額の大金を使って建てたと言う報道のみが流された。折しも教皇フランシスコがその名に相応しく司祭等に清貧を訴えたことを利用して、[リンブルク司教の贅沢ぶり]が報道され、世間の怒りを助長させた。日頃は教皇の言葉など馬耳東風のドイツ社会で、今回の教皇の発言は司教攻撃のために余りにも タイミングが良かった。与野党の政治家までが堂々と司教弾劾の声明を出した。彼らがどこまで今回の事態を把握しているのかは、不明である。しかしリンブルクの総工費を上回る大豪邸に住む他の司教に対しては全く批判の声は聞かれない。それはこれら司教が常時、信徒やマスコミにおもねりその支持を得ているからである。


司教団と教皇庁の反応

   ドイツ司教団は本件に関して全く沈黙し、ごく数人を除けば誰一人としてテバルツ・ファン・エルスト司教のこれまでの誠意や努力を擁護する司教はいなかった。

   費用総額が発表されたとたんに司教団会長ツオリッチ大司教(フライブルク)は、[テバルツ・ファン・エルスト司教など相手にする価値なし。]と言い切った。この後同大司教とテバルツ・ファン・エルスト司教は別々にローマに飛び、個別に教皇に面会して意見を仰いだ。ツオリッチ大司教は教皇に司教を罷免するように懇願し、司教は自分の運命を教皇にお任せしたい旨、伝えたと観測されているが、どちらの場合にも会談内容は公表されていない。

   その後、10月23日に教皇庁は中間解決法を出した。その結果、テバルツ・ファン・エルスト司教を当面の間、司教職から解放して休職状態にし、事情が許せばまた復帰できることを規定すると同時に、従来の司教代理のk師に代わって新たにw神父を任命し、混乱した教区の整理を委託した。これは事態を鎮静化させ司教をこれ以上の不当な攻撃から守りたいという教皇の意向であった。しかし司教の追放運動の首謀者は自分達の勝利とばかりに早々と歓声を上げたのである。また司教を罷免しなかったことに対して、早くも教皇に怒りをぶつける信徒も増えて来た。


節度を越えたマスコミの過剰報道

   今回ほど一人の人物に対してこれほどの集中攻撃がなされたことは前代未聞である。ラジオ・ヴァティカンのドイツ語報道官としてローマに住むドイツ人イエズス会士H神父は時として公然と教皇批判の姿勢を露骨に見せることがあり、今回の事件でも最初は司教追放を支持するようなニュアンスを漂わせていた。しかしさすがに完全無欠な人間を装うマスコミの執拗な追及姿勢、司教のみを極悪非道の人間として追い詰め、精神が破壊されてしまうのではないかと案じられるような報道の姿勢に対してさすがに批判的な態度を示した。しかも司教の母親や兄弟などには嫌がらせや脅迫電話、手紙、メイルが殺到するために神経が疲弊し国外移住すら考えているとのことである。異常なまでに加熱した司教弾劾の報道に対してはプロテスタント教会からも批判が出たほどである。ドイツ人はメディア陣のみならず教会関係者までもが[許し]と[和解]の精神を忘れてしまったのであろうか、と問う声は次第に高まっている。

   建築資金の不透明性について司教を批判することは許されるであろうが、そのために前例を見ないほどの恐ろしい人格攻撃にまで発展し、最初から司教追放を目論んだ陰謀が背景にあることは全く無視され、一方的に怒りを煽り立てたマスコミの姿はお世辞にも健全とは言えないのではないか。


事件の本質

   建築費問題を最大限に利用して今回の司教追放運動などで度々インタビューに応じて名を上げたのは、全てテバルツ・ファン・エルスト司教を恨む反抗司祭や信徒役員会、或いは[我らは教会]などの活動家である。この点に気付く人は少ない。一方、教皇庁では今回の事態は建築費問題を遥かに超えてリンブルク司教区の本質に根があるという認識が既になされているとのことである。

   世間に訴えて司教をならず者扱いし、失墜させようとした裏には下記のような陰謀があったことを各国の教会専門家が指摘している。つまり来年はケルンとフライブルクの大司教の引退が予定され、テバルツ・ファン・エルスト司教がその後任としてどちらかの大司教に就任するであろう、との推測がドイツ中に流れていた。そこで教皇の信任厚い司教を嫉む反対派が一致団結して昇進を阻止しようとし、運よく見つけた司教館の建築問題を最大限に世間に訴えて、司教追放運動を展開したと言われている。このような陰湿な陰謀を企んだ人々が今や教会の民主化と自由のために立ち上がった英雄とされているのである。司教がたとえ名誉回復されても二度とリンブルクには戻れないであろうとの観測が強まる中、長年司教批判・攻撃の最先端を行ってきたはずのフランクフルター・アルゲマイネ誌が10月25日、今回の運動は[自分達の望む教会像に合わない司教を追放するのが目的だった。]と本音を打ち明けたのである。


結論

   今回の報道ではテバルツ・ファン・エルスト司教を知る人々、或いは教会と教皇に忠実な人物として同司教を高く評価する人々の意見は全く無視され、全ての人間が一致団結して司教追放を望んでいる、という内容に終始した。情報操作が人間に与える影響の恐ろしさとはこのようなものであろう。勿論、司教の失策について論議するべき点はあるだろう。しかし数人の建築家は、持続性のある頑丈な建物を構築しようと思えば、建設途中で変更する箇所も多く金額が予定よりも大幅に上回ることは当然である、との発言を行っている。しかも完成した建物は建築技術の粋を集めた傑作とされ、芸術関係の雑誌では大いに称賛されているのである。アメリカのある建築家はこれだけの立派な建物であれば3100万ユーロは膨大なコストとは言えないとまで述べている。アメリカでは建築費用のみに興奮して司教に抗議するよりも、将来の諸司教が代々使用する建物としての持続性を考え、長期的な展望で物事を判断するべきではないか、との見解を表明し、むしろドイツ人の狭量な心理が批判されている。さらに今回の事件でリンブルクは一躍有名になり、見物客が大挙して押し寄せ、市としては観光収入が一挙に増大して喜んでいることも報道されている。また司教の豪邸のみをフランシスコ教皇の[清貧]論を根拠に責める人々自身は、物質生活に溺れているという偽善性も曝け出された。教皇自身[清貧]はイデオロギーではない、と言われていることを思い出してほしいものである。

   今回の件で真の敗北者はカトリック教会そのものであろう。この事件はリンブルク司教区のみならずカトリック教会全体のイメージを決定的に落としてしまった。全ての人々との平和、友好をモットーにするはずの教会のこのような醜い内幕が完全に世間に知られた以上、教会の名声は更に落ちること確実である。この事件を通じて教会指導者は信徒の信仰・教会離れを嘆く前に、自らが徹底的な自己浄化をしなければ失われた名誉と信頼を取り戻すことは出来ないことを悟ってほしいものである。問題は、司教が小さくて質素な家に住めばそれで解決するなどの簡単なことではないのである。司教追い出し作戦を実施した司祭や信徒は今後も司教に勝手な要求を次々と叩きつけ、拒否された場合には僅かなスキをついてまたもや次の作戦行動を取り世論を味方にして大騒ぎすることは確実である。将来の司教にはこのようなリンブルクの陰湿な風土を前にして、これに対応するだけの強い免疫、或いはこれを切り崩すほどの実行力を行使することが望まれる。

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