11/03/04 重松@修先生の生家訪問並びに墓参

「朝鮮で聖者と呼ばれた日本人」(田中秀雄 草思社)については前に書きました

田中先生の御著を読んで以来、重松@修(マサナオ)先生の古里を、いつか訪ねようと思っていました。そう思っていたら、不思議なご縁で、重松先生のお嬢さまとお知り合いになることが出来ました。更に又その頃に、社員たちが計画する社内旅行で四国へ行こうと言うことになりました。

社員たちの出身地を順番に訪ねようという企画が決定されたようで、先ず最初、社長の出身地・徳島へ行こうということになりました。旅行会社に相談したら、四国全県を回ってはどうかと提案されたようです。私の会社は栃木なので、多くの社員は四国を知らないのです。ハワイ、台湾、ソウルの方が近いとすら言えるでしょう。という訳で愛媛、高知、徳島、香川を通る行程になりました。松山へ下りたのは3月4日でした。松山には私たちの取引会社があり、そこを先ず見学しました。よく知られた会社でしたので、重松晃子(てるこ)さんは、そこを訪ねて下さることになりました。晃子さんはお嬢さまの邦美さんとお孫さんの俊介さん(邦美さんの甥御、晃子さんの孫、重松先生の曾孫さん)がお見えになり、俊介さんの車で案内して頂きました。

先ず重松先生のご生家とお墓を案内して下さいました。

重松先生のご生家はさすがに風格のある建物でした。

重松先生の松代夫人、重松先生、晃子さんのご次男・正文氏、ご主人・俊弌氏の銘が刻まれています。ご次男・正文氏は、若くしてお亡くなりになったのですね。

私たちの泊まっている道後のホテルまで送って下さり、喫茶室で約一時間、お話を伺うことができました。私も団体行動の中で、時間に制約がありました。

一番印象に残ったのは日本へ引き揚げる時のお話で、これは田中秀雄氏の『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』でも一つのクライマックスでした。検事になっていた教え子の導きで「脱出」出来ます。その教え子は、発覚すれば厳罰を受けたでしょう。覚悟の行為と思います。しかも個人でなく複数の人間が係わっています。重松先生に、それに値するものがあったのです。

晃子さんはその時二十歳。
微笑みながら静かに語られるのですが、MPの目を逃れるために貌を墨で塗りたくったなど、体験者だけが持つ迫力がありました。

邦美さんが横から、
「『それから二十年』を書きたいと、祖父からその筆記を望まれたのですが、お嫁に行くことになって果たせなかった、それが心残りです」
と語られました。私は、今からでも如何でしょうか、と申し上げました。邦美さんの記憶と、重松先生の残されたものを調査されれば、十分に一冊の本となるでしょう。重松先生は日記など残されていないのでしょうか。

私はお聞きしたことをメモらず、帰ってすぐ「訪問記」を、このサイトにアップする積もりでした。メモするのは何か気が引ける感じで、そこがアマチュアなのだと思います。記憶の新たなうちに文章にする積もりでしたが、3.11が来ました。

今回の大震災は、私には大きな衝撃でした。
その後、「地震」「津波」「原発」に関心が限定されてしまいました。本当に強烈な体験でした。それは物質的被災でなく、人生観にかかわるものでした。(実際に被災された方々はそれどころでないでしょう)

先月19-20日は、相馬から北上し、名取、仙台、多賀城、塩竃、石巻を回りました。松川浦に入る手前で初めて“それらしき”風景が目に入ったとき、たじろぎました。

洪さんとおっしゃる韓国の知人が4月23日付で手紙を下さいました。テレビで被災地の様子を見て、「韓国戦争」(朝鮮戦争)と比較しておられました。洪さんはおそらく韓国戦争の頃、十歳くらいだったのだろうと思います。韓国からも多大なご支援を頂きました。今もなお募金を継続しているグループがあると、洪さんは記しておられます。

栃木から出発して、福島、宮城を、約760キロ走りました。福島東部から北上しましたが、道路がガタガタ、段差だらけで、打撃の凄まじさが想像できました。夥しい「段差注意」の標識がありました。

私は真剣に生活の移動を考えました。妻の古里・愛媛か、私の古里・徳島への転居を考えました。私の妻は、まったくこだわらない女で、いいよ、という感じでした。「第二関東大震災」への怖れです。これは間もなく確実に来るでしょう。

菅首相が浜岡原発の運転停止を求めました。残念ながら致し方ないと思います。それにしても私のヤマカンは、より確実に早いのは、東海地震よりも「関東」直下型と告げます。これは大火災の地獄図となるはずです。東京湾岸に敷き詰められた燃料タンクの炎上、誘爆。高架道路や立体歩道橋の落下、それによる交通動脈の遮断。消防車も走行不能。・・・

あちこちに無造作に設置されている歩道橋を、私は常に危険物として見ています。交通遮断機です。

しかしどこで何が起こるか、分からない。ニュージーランドで被災した人もいます。じたばたするほど若くない、と自分を納得させました。

この連休を挟んで、ようやく落ち着いて来ました。
いずれ近々、社用絡みでなく松山を訪ねたいと思います。
松山は、山の形からして、まろやかです。

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今回の大震災でわずかに慰められることは、諸外国よりの暖かい言葉、支援でした。私は日本という国・国民が世界から好かれているのだと確信を持ちました。勇気が湧きます。今回ほど日本国旗(日の丸)が世界のメディアに溢れたことはありません。今もなお日の丸を否認する日本人がいますが、もう放っておきましょう。日本はそれが許される国です。その人たちが大好きな国では、おそらく投獄、収容所送りでしょう。

台湾の方々の特別に熱い日本人への励ましは、NHKの報じた『JAPANデビュー アジアの一等国』が、如何に彼等の真意をねじ曲げ悪意のもとに編集されたか、具体的な裏付け証明になりました。

私も又「戦後教育」で育った者です。日本は侵略者・悪者でした。
目を開かせて呉れたのが司馬遼太郎先生の『韓のくに紀行』、そして『台湾紀行』でした。それがきっかけで日本近代史を勉強することが私の中心の読書になりました。重松@修(マサナオ)先生もその線上で知りました。台湾の八田與一技師や鳥居信平技師も知ることが出来ました。

もう7〜8年前になりますか、私は台湾の嘉義市で台湾の方の次の言葉を聞きました。

「日本人が台湾へやってきたとき、連れてきたのは、教師、医師、技師だった。」

つまり、「教育」「衛生」「社会インフラ」だった、と語りました。(「蒋介石が連れてきたのは兵隊だけだ」と、その人は付け加えました)
このことはおそらく「朝鮮」でも同じだったでしょう。台湾と違って韓国では相当に消しゴムが使われましたが。「北」ではなおのこと、完全に消し去られたはずです。
重松先生は何よりも「教師」でした。

私は、どう考えても、日本の「植民地政策」は、欧米列強のそれとは別物と思います。公平な数値でそれを検証し、若い世代に教えなければなりません。
日本の統治期間、その統治の直前、統治終了時の、
1. 平均寿命
2. 人口
3. 識字率
の変化。
それだけで十分です。
それを例えばオランダが400年余統治したインドネシアと比較すれば良いのです。

(記 2011.05.09)