10/09/13 [追記]2011.02.23吉本信之氏の紹介 お孫さんによる「朝鮮農村物語」アップ
「朝鮮で聖者と呼ばれた日本人」
田中秀雄(草思社)


 

これは良い本でした。このような人物を発掘して下さった著者に感謝します。
日本人は日本国家の必要から朝鮮へ出て行きました。あくまで我が国の必要からです。当然のことでしょう。しかしその統治は、少なくとも台湾・朝鮮を見る限り、欧米列強とは「別物」であります。簡単に言うなら、相手国民を人間扱いするかどうか、ということです。

田中秀雄氏のこの本は、私たち読者は原資料の点検はできないのですから「勘」に頼るしかないのですが、非常に誠実なものと思いました。3.1運動についてもその必然が丁寧に記されています。この運動(暴動)の流れで、主人公の重松@修(マサナオ、マサは高+昇)は3月5日、右太腿貫通・瀕死の銃撃を受けます。必死に治療したのは朝鮮人の医者でした。戦後、厳重な監視下にある重松を手引きして逃し帰国させたのは、朝鮮人の検事でした。今は北朝鮮となっている場所に、見ることは出来ず、おそらく現存する可能性もないですが、重松@修の顕彰碑があったのです。

詳しくは是非、この「良書」を買って、読んで下さい。

田中秀雄という方は私の記憶にありませんでしたが、映画評論もされる、と読んで、この本↓を思い起こしました。

この本は私に、映画というものの深いおもしろさを教えたものでした。「映画評論」というもののレベルを超えた文化論、近代史論でした。「朝鮮で聖者と呼ばれた日本人」はその硬質の文章に感心したのですが、成程、「映画に見る東アジアの近代」と、文章から受ける感じが同じでした。私は田中氏の他の著作を知りませんが、一流の方と思います。

さて、「日韓併合」ですが、最近の産経新聞(8/28)で、「日帝時代」を知る元韓国空軍大佐の崔三然氏(81)が、下のように語っています。

−−韓国と台湾は日本統治時代にインフラが整備されていたと

「戦前、鉄道、水道、電気などの設備は日本国内と大差なかった。これは諸外国の植民地経営と非常に違うところです。諸外国は植民地からは一方的に搾取するだけでした。日本は国内の税金を植民地のインフラ整備に投入したのです。だから住民の生活水準にも本土とそれほどの差がありませんでした

−−教育はどうでしたか

「私は日本統治時代の教育も受けました。当時、日本国内で行われていた学校教育と差がありませんでした。また日本の陸軍士官学校には朝鮮人の入学を認めていました。当時の諸外国では自国の陸軍士官学校に植民地の人間の入学を認めたりしませんでした。つまり日本は教育においても差別をしていなかった。当時の諸外国は本国と植民地を明確に差別していました。植民地とは搾取の対象として経営するものであって差別されて当然でした。日本は差別をしないように併合したわけで、いわゆる諸外国の植民地支配とはまったく違っていた」

崔三然氏が特殊なのではありません。上のように語る韓国人は多くいます。枚挙にいとまがないと言えます。「朝鮮日報」にすら掲載されています。例えば、

http://www.chosunonline.com/news/20040303000075
記事入力 : 2004/03/03 19:33:24
「1920〜30年代の成長率4.1%」

http://www.chosunonline.com/news/20060218000015
記事入力 : 2006/02/18 11:47:10
日本統治時代の韓国人の平均身長

http://www.chosunonline.com/news/20041120000000
記事入力 : 2004/11/20 09:48:58
ソウル大教授「日本による収奪論は作られた神話」

「日韓併合」が良いことであったか悪いことだったか、どっちか、私に判断できません。良い部分もあったし悪い部分もあったということでしょう。「日韓併合」は日本にとっても得策でなかったと、今になれば言えます。しかし韓国も、日本が併合しなければ独立してやっていけたのでしょうか。ソウルにある「独立門」は、日本からの独立ではありません。清国からの独立です。その清国を追っ払ったのが日本です。

出典を明示できませんが作家の韓雲史先生は、「良い日本人もいたし、悪い日本人もいた。良い朝鮮人もいたし悪い朝鮮人もいた。そういうことだ」と語っておられたと思います。日本を過度に弁護する必要はない。日本の悪行は究明し反省しなければならない。しかし台湾や韓国に対する“植民地政策”は、欧米列挙のそれとは質の違うものであることを、日本人は認識しなければならないと思うのです。


今年は日韓併合から100年ということで、色んな動きがありました。菅総理の「談話」も発表されました。

私が所属するカトリック教会でも、司教協議会会長である大司教が、このような「談話」を出しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/100707.htm
日韓関係については、

今年の8月22日は日本が韓国を併合し朝鮮半島を植民地化した「韓国併合」条約締結100年にあたります。この歴史の大切な節目に、私たちカトリック教会の責任を含め、日本の植民地政策がどのようなものであったか、それが人々をどう傷つけてしまったのかを真摯に振り返ることが大切です。

そして、

神の前に勇気を持って自らの過ちを認め、赦しを請うことは自らを卑下することではなく、かえってキリストが求める真の人間の姿に近づくことなのです。この姿勢をもってこそキリストは、「敵意という隔ての壁を取り壊し」、真の和解へと私たちを導いてくれるのです。

私はこのように言いたいです。

神の前に勇気を持って自らの意図を語り、理解を求めることは自らを誇示することではなく、かえってキリストが求める真の人間の姿に近づくことなのです。この姿勢をもってこそキリストは、「敵意という隔ての壁を取り壊し」、真の和解へと私たちを導いてくれるのです。
 

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[追記]2011.02.23

先月(1月)29日、「ノムさんの時事短評」というサイトのこのページを読んで下さった方からお手紙を頂き、そのご縁で重松@修先生のお嬢様、お孫様から、重松先生の貴重な、『朝鮮農村物語』『続 朝鮮農村物語』をお貸し頂いております。

手紙を頂いたのは吉本信之とおっしゃる方で、この19日(土)に、「朝鮮で聖者と呼ばれた日本人」著者・田中秀雄先生のご講演を、吉本さんのご案内で拝聴できました。田中先生へも挨拶することが出来ました。吉本さんは京都府から出て来られたのでした。都内在住のお兄様とご一緒でした。お兄様は中学一年まで朝鮮におられたそうです。吉本さんは四歳で、小さかったので朝鮮の記憶はほとんど無いとおっしゃっていました。私より一つ年上で、お手紙から受けた印象と一致して、本当に品の良い方でした。

講演会のあと懇親会があり参加したかったのですが、23時までの予定でした。それから横浜まで帰らなければなりません。私は翌日日曜日、8時15分のミサで「詩篇朗唱」の役割でした。声を出す役目で、それなりの睡眠時間が必要でした。

私は吉本さんという方を皆様へ紹介したくなりました。
頂いた資料を、ご了解の下、アップ致します。そして改めて、『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』をお読みになるよう、お薦め致します。

吉本信之氏 2006.03.26
吉本信之氏 2010.03.27

驚いたことに吉本さんは貴重本である『朝鮮農村物語』を、私に下さいました。ビックリしました。野村さんのような人に、持って、読んで貰いたいと。お言葉に甘え、ありがたく拝受致しました。

[更に追記]
会社の業務で来月4日は松山にいます。吉本さんの手引きで重松先生のお嬢様(既に80を超えておられますが)をお訪ねすることになっています。そのことを吉本さんに報告しましたら、下のようなメールを頂きました。

3月4日にお会いなさるとのこと、これも不思議な縁ですね。
重松理事が右足大腿部貫通銃創の重傷を負われたのが3月5日ですね。(92年前の大正8年3月5日)
この季節になると『朝鮮農村物語』のこの場面を思い出します。

 

[重松先生のお孫さんによる『朝鮮農村物語』のWebサイトへのアップ]

これも吉本氏によって教えられましたが、このような↓サイトがあります。
http://ameblo.jp/uha876/
どうぞお読み下さい。