川口・マーン氏の
  [欧州で教会離れが進んでいる]
                  についてのコメント
 

Atsuko Lenarz
(ドイツ Offenbach am Main 在住)

2014.04.11


 

  文芸春秋4月号にドイツ在住の日本人、川口・マーン氏(以下川口氏と略記する)による[欧州で教会離れが進んでいる]という記事が発表された。筆者はクライン孝子様から本記事について感想を書いてほしい、とのご依頼を受けて読んでみたものの、[感想など述べる価値なし!]というのが感想である。 しかし話題が主としてカトリック教会に関することであり、信徒が極端に少ない日本では理解、認識が薄い部分も多いので、事実誤認を訂正すると同時に川口氏の記述について筆者の意見を述べてみたい。

  最初に一言! 川口氏は教会通を自認しているようであるが、それならば日本のマスコミが慢性的に使用する[ローマ法王]という表現は正しい訳語ではないことを基礎知識として知るべきである。Papa(ラテン語及びイタリア語)、Papst(ドイツ語)、pope(英語)、pape(フランス語)などのカトリック教会の正式な日本語訳は[法王]ではなく、[教皇]である。日本ではカトリック教会からの再三の要望を無視して常に法王と訳しているために、[お堅い法律で信徒を縛る時代遅れの堅物]程度の不快なイメージしか湧かないのである。川口氏の記事もこのような初歩的誤認から始まっている。

  最初に川口氏は楽観視できないドイツの教会事情(信徒数の減少、教会の停滞と権威失墜その他)を紹介しているが、これについてはドイツのマスコミ機関が頻繁に報道しており、またカトリック教会もプロテスタントの諸教会も独自に年次統計などを通して信徒の実態を公表しているので、別に目新しい内容ではない。次に川口氏は、教会、特にカトリック教会が金権体質、威圧的、前近代的、差別的、排他的であるなど言い切り、さらに世間一般のみならず信徒の大半までもが書類の上では教会に所属していても、様々な教義内容などまともに信じていないこと、彼等も教会に大きな不満と不信感を持っているなどの隠せない現実についても書いている。この辺りの事情はヨーロッパ=キリスト教社会というイメージが未だに強い日本では余り知られていないので、この点を川口氏が紹介したこと自体には、何の異論もない。また同氏が自分は無宗教者であることを力説しているが、これも全く自由である。しかし問題は川口氏がキリスト教や教会についての正確な知識を全く持たないままに極めて無責任な論評をしたことである。そこで筆者は特に目についた記述や表現について多少のコメントを入れてみたい。

  世間の想像とは異なり、カトリック教会はキリスト教の宗派、或いは宗教の有無を問わず批判者の声には常に耳を傾けて積極的に対話に応じている。教皇庁付属の諸々の研究機関に席を置く学者も、カトリック信徒だけではないのである。しかし川口氏のようにカトリック教会について聞きかじり程度の皮相な半知識、先入観のみを面白おかしい表現で書き連ねるだけの人間を相手にすることはないであろう。

  さて教会の権威失墜、停滞、信徒の離反はなにも今に始まったことではない。信仰のマンネリ化、教会の俗化、信徒の背信などに対する危惧の念は、キリスト教が社会の中に徐々に定着化する過程で既に4世紀から早くも指摘されているのである。
 ある宗教が社会の中で全くの少数派であり、しかもその教義や信条が社会の多数派や時代の潮流に合わない場合には、両者の間には時として摩擦も起こり、緊張感を生み出す。そのために少数者が多数派社会から非難、批判に晒されることは珍しいことではないし、過酷な迫害を受けたこともあった。
  しかしこのような少数派の精神力が次第に社会の潮流を変えて行くほどの影響を及ぼすことも頻繁にあることは、歴史が語る通りである。ところが少数派集団がいつしか多数派に変容して社会の大勢を占め、その思想が秩序を支える要となった場合には、かつての張りつめた緊張感と少数者としての強い自覚は不要となり、忘れ去られてしまう危険性がある。こうして少数派時代の精神的な独自性と輝きを喪失した瞬間に、弛緩、堕落、停滞などの事態に見舞われることが多い。キリスト教会もその例外ではない。ここ数年、マスコミで大々的に騒がれたように聖職者による弁護の余地なきスキャンダルなどから受けたショックが、今後も長く教会内で心理的な尾を引くことは確実であろう。
  しかし過去の歴史を顧みると教会では、存亡の危機にまで追い詰められた時に必ず教会を刷新し、新たに息を吹き返し、失われた名誉と信用の回復を目指す運動が発生する。これがキリスト教の底力とも言えるものである。現在のカトリック教会は丁度、ここに差し掛かっていると言えよう。

  ドイツではもう何年も前からカトリック司教団が[ドイツはもはやキリスト教国ではない。]と公言している。統計の上ではカトリック教徒、各派のプロテスタント教徒を合わせれば全ドイツの人口の約60%を超えているが、信仰の教義内容を正確に把握してこれを確信し、何らかの形で実践しているという信徒は、カトリック教徒では40%ほど、プロテスタント教徒に到っては40%にも満たないのが現実である。実質的に信仰を喪失している多数派の形式的カトリック信徒は、いずれは教会の不祥事に対する怒りなど様々な口実をつけて遅かれ早かれ教会から離脱するであろう。こうなれば真の信徒はまたもや社会の少数者になること確実である。この現状を前に書類上は多数派を占める信徒は、[教会は世間の批判を聞いて、もっと近代化、民主化しなければ少数派として軽蔑されてしまう。]と言うのである。

  何故このような意見が大勢を占めるようになったのであろうか。これは信教の自由、言論の自由など全ての自由が保証されて安定した社会に信徒も教会指導者も完全に埋没し、かつての緊張感を喪失した結果であろう。安定した秩序社会の中で司祭や牧師は信徒に洗礼を授ければそれで十分と思い込み、キリスト教信仰の知識を正しく伝授することも、教会に与えられた最大の使命[キリスト教布教]にも熱意を示さなかった。信徒の側も教会との関係は洗礼と冠婚葬祭程度で、肝心の信仰や教義について学ぶ熱意もなかったことは否めない。従ってキリスト教徒でありながらその内容を殆ど知らず、クリスマスや復活祭を伝統的な習慣として大切にするだけという人間が急増した。筆者はこのような信徒の実態を飽きるほどたくさん見て来た。これでは急激に押し寄せてくる世俗化の波、各種の新思想の前に無批判、無抵抗にあっさり呑み込まれてしまうのは自明である。その結果、所属している教会が前近代的、非民主的、差別的に思えるようになり、世間並の非難をするようになったのは当然の帰結であろう。教会とは、保守的或いは進歩的などというマスコミ的な発想法や基準が通用する場ではないという認識は、完全に忘れ去られてしまったのである。多数派社会に調子を合わせて自らが仕える教会を非難するような聖職者すらドイツ語圏諸国にいるのは、周知の事実である。彼等は世間から[改革派][進歩派][リベラル]などとして大いにもてはやされている。多数派の要望を教会が取り入れれば、事態を改善できると思っているようである。
  教会が統計上、明示される信徒の数のみに依存して安心していた過去の怠慢を反省するようにと、強く促したのは故ヨハネ・パウロ2世時代からであろう。しかしそれまでに圧倒数の教会人は、何でも言いたい放題、書きたい放題という自由奔放な社会に飼いならされてしまっていた。そのために弛緩した教会の現状を治す処方箋は、内部からの綱紀粛正と自覚の向上、自己反省と基本姿勢へ復帰に限ると唱える教皇と、ここに耳を傾けた少数の信徒は、教会内外の世界から事あるごとに反発を買うようになった。[良薬は口に苦し。]だったのである。

  教会批判、攻撃の矛先は、ドイツ語諸国では真っ先に教会税に向けられる。川口氏は、380頁以下でまるで教会のみが教会税を取り立て、好き勝手な方法でこれをもて遊んでいると言いたげである。教会の使命はミサ聖祭などの儀式を行うだけではない。キリストの福音を説き、実践するのが与えられた使命である。そのためには資金は必要であり、ただ喜捨のみで生きるという受動的な姿勢は許されない。教会税は聖職者の生活維持費のみではない。川口氏は、各種の社会福祉・慈善事業、教育費が[教会税で賄われていると信じているドイツ人は多いが、そうではない。]と断言するが、[そうである。]が事実である。最近はリンブルク司教館の新築にまつわる費用総額が大問題になり、司教が不正な手段で違法建築を建てたなどの噂がドイツ中を駆け巡ったが、調査結果によれば教会内での連絡の疎通が不備であったことから、数々の問題が生じて予想外のコストとなり、この点で司教と教会役員等の責任が問われたに過ぎないのである。しかも費用はもとからの教会資産から出ており、税金乱用などではなかった。 また由緒ある教会でありながらも損傷のはげしい教会を修復するなど文化事業も教会税ならではのことである。これは政教分離がドイツ以上に遥かに徹底しているフランスなどでは考えられないことである。宗教的にも歴史的にも重要な教会が荒廃しても政教分離を楯に見捨てられ、信徒の細々とした寄付以外に頼る道がないという困窮状況に苦しむ教会はフランス各地に見られる。

  但し筆者は、教会税の制度が教会だけではなく、信徒の体質をも歪める足枷ともなっていることを痛感している。信徒がこれほどまでに教会から離れてしまったというのになかなか重い腰を上げようとしなかった背景には、教会税による一種の安心感が少なからずの聖職者の心を蝕んでいたことは確かである。しかも信徒であるか否かの識別を、教会税納入を基準にするなど、ドイツの教会でしか通用しないやり方には反発を感じている。しかし筆者はそれ以上に、この税金制度が信徒の根性をも腐敗させたことを言いたい。[税金を払っているのだから、教会は信徒の希望を受け入れるべきだ。]と主張して、教会の神学と教義、規定、歴史的伝統に反する領域に到るまでも[民主主義][近代化・自由化・]の精神を楯にとってずけずけと迫るようになったのである。教会は[お客様のご要望に応じたサービス機関]ではない、という基本的な認識は喪失し、信仰や教義についての理解よりも時代の潮流に仲間入りすることの方が大切になってしまったのだ。そのために自分達の要求を受け入れてくれない非民主的な教会など離脱しよう、という結論に達する。
  こんな状況下で暴露された聖職者のスキャンダル事件などが信徒の教会離脱を一挙に加速化させたことは誰も否定できない。教会を[非民主主義団体][差別団体]と見做している左翼政党や緑の党では教会税廃止論が高まる一方である。カトリック教会内からも教会の刷新、ゼロ出発のためには教会税廃止もやむなしという意見は心ある司祭から既に出ている。これに対して生活維持のために何としてでも教会税の存続、廃止反対を声高に主張するのは、プロテスタント教会である。
  そこで蛇足になるが、宗教法人として認定されドイツ政府との契約で税金を給料から徴収する団体はカトリック教会、プロテスタントの主流派2団体以外にも存在することを川口氏に申し添えたい。それはカトリック教会の儀式などを継承するが神学上の解釈からローマ教皇の首位権を認めない古カトリック教会(altkatholische Kirche. ドイツ語圏内が中心)と、シナゴーグの維持や運営のために税金を必要とするユダヤ人団体である。ある一団体にだけ税金を廃止するという方法は許されない。ドイツで増大の一途を辿るイスラム教徒の団体が国家認定を受けた場合にも、税金徴収の制度を導入する可能性は十分にあるだろう。

  話題変わって382頁で川口氏は[教会は大きな力を行使しており、職員は信者でなければ採用されない。]としている。しかしどのような事業所であっても社員や職員を採用する場合、自社の方針に叶った人材を採用するのは当然である。これは宗教団体が職員を採用する時にも適応されるであろう。この場合には同様の信仰、価値観を持った人物を優先させるのは言うまでもない。これに関連して382頁を読んで滑稽に思ったのは、無宗教者の川口氏の令嬢がよりによって忌み嫌うカトリックの学校に通っていたということである。この学校には宗派、宗教を問わず様々な生徒が通っていたので、[校長は神様だけを信じている世間離れした人ではなく、コスモポリタンだった。]として感心しているようだが、キリスト教の学校は常に宗派、信条を問わず全ての学生に門を開いている。これがキリスト教学校の使命である。因みにフランクフルト市内のあるカトリック教会は、浮浪者や生活困窮者への食事サービスや生活援助相談を行っている。ここで司祭の指導下で活動するたくさんのボランティアには、カトリック信徒以外にもイスラム教徒、ヒンズー教徒など様々である。教会は[カトリック信徒以外はお断り]とは言っていないのである。川口氏の令嬢が通った学校の校長がコスモポリタンだったのは、神を信じると同時にカトリック[公けにして普遍]という語義を確実に把握しているからである。またその活動の源泉がキリスト教信仰にあることを川口氏が気付かなかったのは残念である。
  続いて川口氏は、昨年暴行された女性にピルを拒否したというケルンのカトリック系のある病院の例を持ち出し、教会は非人道的であると非難している。本件は、マスコミでも大きく取り上げられ教会は激しく批判された。しかし肝心の女性の証言もなく、なんの聞き取り調査も行われていないために、最近の調査によると、この事件はカトリック教会攻撃のために尤もらしい理由をつけて仕組んだ一種のやらせだったのではないか、という疑いが濃厚になっている。しかし事件の真相はまだ解明されていないので、筆者はこれ以上のコメントを控えたい。

  同じく382頁で[バチカンは治外法権を行使しており、、、、]とあるが、ヴァチカン市国は国際的に認定された独立国家であることを忘れるべきではない。但しそのヴァチカン銀行のあり方が国際法的に各種の問題を抱えていたことは多方面から指摘されていた。これを受けてヴァチカンの機構の浄化は前教皇ベネディクト16世の強い悲願であったが、この大きな課題を継承して実現に移そうと尽力しているのが現教皇フランシスコである。これは教会自身の深い反省の表れであることを川口氏は認めるべきであろう。

  次に384頁で川口氏は、ヨーロッパ世界の脱キリスト教化現象に対してポーランドでは共産主義体制の崩壊と同時に信仰が息を吹き返した、と言うがこれは完全な事実誤認である。歴史的に同国のカトリック教会は、古くは3国分裂時代、ナチ・ドイツによる支配下、ついでソ連型共産主義体制下にあって苦しんだ国民を精神的に支え、励ました支柱であった。特に共産主義時代はこれに対抗した唯一の抵抗組織であり、見えない緊張の糸がピンと張っていたわけである。このような風土からヨハネ・パウロ2世が世に出たことは良く知られている。しかし共産主義の崩壊によりポーランドの教会は勝利感にひたる暇は殆どなかった。手強い対抗馬がいなくなってしまった瞬間に、教会も信徒も気が抜けて緊張の糸がほどけ、西欧風の自由の波にあっというまに呑み込まれたのである。特に都心部では教会離れ現象が急増し、司祭志願者は減少し、最近では十字架撤去のスローガンを掲げて反教会運動を推進する政党も進出している。しかしドイツとは異なり、ポーランドのカトリック司教団の立ち上がりは早かった。彼等は共産主義時代の抑圧、弾圧を通じて精神的に鍛えられていたようだ。現在、フランクフルトの神学校には定期的にポーランドから司祭候補生が研修に来ている。それはポーランドの非キリスト教化現象もいずれはドイツ並みになることを予知した司教団が、神学生に早くから免疫をつけて十分に精神的な抵抗力を養わせるためだとのことである。
  またフランスでは、完全な政教分離と世俗中心主義により一切の過去の特権を奪われ、司祭の生活もドイツと異なり、生活保護者並みの次元にまで引きずりおろされたが、このようなどん底からカトリック教会はここ数年間で徐々に再生し、成人洗礼も増え、司祭志願者も僅かながら増えている。フランスの教会を訪れると停滞気味なドイツの教会とは明らかに異なる雰囲気を感じる。但し観光客でごったえがえすパリのノートルダム教会などからこのような印象を期待することは出来ない。

  教会への信頼を徹底的に落としたのは、聖職者の青少年に対する性暴行事件であったことは誰も否定できない。そこで川口氏は384頁でカトリック教会の対応が無責任であった、として特に前教皇ベネディクト16世を非難している。はっきり言うが[不祥事の膿を出して、教会はもっと警察と協力しなければいけない。]と教会内で真っ先に発言したのは、元ラッツインガー枢機卿(後のベネディクト16世)である。当時の教会内ではこのような恥じを世間に公表せず、内輪だけで解決してしまおう、という雰囲気が強くラッツインガー枢機卿は、ヴァチカン内部で反対派の枢機卿らに責められ、孤立無援に追い込まれていたのである。ヨハネ・パウロ2世もこのような事件の公表を渋ったと言われている。これが後に教会の隠蔽工作として散々非難され、マスコミはその責任の全てを教皇となったベネディクト16世に押し付けようとしたわけである。[教会の基本姿勢に変化は見られなかった。]という川口氏の勝手な想像とは異なり、カトリック教会では今後の事件再発を防ぐためにありとあらゆる方策を真剣に検討しており、被害者に対する補償や相談も徐々に行われているので、それなりの評価を受けていることを言っておきたい。
  また教皇には[民衆はただ信じれば良い。]という考えしかないように感じられた、とのことであるが、[ただ信じれば良い]とは新興宗教の言葉であり、教会の言葉ではない。前教皇ベネディクト16世は数々の著作や講話を通じて[信仰と理性]のバランスの大切さを唱え、現代第一級の神学者と言われている。[ドイツのカトリック神学界からこれだけの大物は、当分出ないであろう。我々は最大の好敵手を失った。]と言ってこの教皇の引退を惜しんだのは、なんとプロテスタント教会、ユダヤ教やイスラム教の学者なのである。
  さらに385頁で川口氏は、2013年にあった民間の調査機関の発表で大半の信徒がキリスト教の信仰箇条を信じてもいないし、教会の女性蔑視、離婚者や同性愛者の差別などの点で大いに怒りを感じている、と述べている。先に書いた通り、確かにこれは事実である。この現象は、キリスト教ないしはカトリックの神学体系についての理解が信徒の中で完全に失われたことを示している。 カトリック教会の理念は、[男女は平等であるが、同質ではない。]である。女性の人格、品位に対する尊重を説き、女性蔑視と差別の風潮に最も異議を唱えたのは、カトリック教会であることを忘れてはならない。日本でも婦人選挙権獲得の運動、売春女性の更生などの面で最も活躍したのは、キリスト教徒(特にプロテスタント教会)であったことを川口氏は知らないのであろう。教会は全ての人々に常に門を開き、人間としての差別はしていない。ただ[罪を憎んで人を憎まず。]の精神で、許される事と許されない事を区別するのみである。従って相違と差別をはき違え、男女同質論を展開する現代流行りのジェンダー思想に対してカトリック教会は断固、反対している。この点でカトリック教会は保守反動、前近代的という批判にますます晒されること確実であるが、これに直面するだけの勇気と根気が必要とされている。

  川口氏がさんざんに忌み嫌って非難する教会、特にカトリック教会は先に書いた通り、過去にも様々な状況から崩壊寸前にまで落ち込んだことは度々あったが、その都度、徹底的な反省と自己浄化、内部刷新を繰り返して再起し、現在に至っている。数年前にある司祭が言った言葉[教会内にスキャンダルはたくさんありますが、これを克服して再び教会に明るい灯をつけるのが努めです。]を念頭に置いて、ごく少数ながら各地で教会浄化と刷新のために献身している人々は既にいるのである。カトリック教会は無数の聖人を出してきたが、その大部分は一般社会だけではなく教会内での無理解に苦しみ、悪戦苦闘した人々である。現在、教会の内部刷新のために活躍する人々もこの点を良く承知している。教会離脱が近代人の象徴とまで言われている中で、[それでも確信を持って自己の信仰と教会に止まる。]と決意している信徒は、全くの少数派である。この中には最初から現在に到るまで熱心な信徒もいるが、カトリック教会から離脱して何年も過ぎてから再び教会に復帰した人、全くの無宗教から回心した人、或いはプロテスタント教会からの転向者など様々である。

  387頁で川口氏は[牧師や司祭が休暇は取るし、勤務時間は守るし、なんだか公務員のようだと思った]とのことであるが、司祭の生活は完全に24時間体制であり、会社的な勤務時間などはない。プロテスタント教会の牧師とは異なり、司祭はキリストの人生そのままに全身全霊を捧げる存在である。これは家族を抱えた牧師に出来ることではない。この点を判らずして独身制がどうの、、、と叫ぶのは完全な内部干渉である。彼等は誰にも強制されずに自分の自由意思でこの道を選んだのである。途中で何らかの事情により司祭職を放棄した人々などの例外を除けば、これこそがカトリック教会を今日まで存続させている最大の強みである、という意見もある。幸いなことに筆者の周囲の司祭等は、目立たないながらに教会と人への奉仕に献身して人望厚い人々である。司祭数が圧倒的に不足していると言われる現在、一人で数軒もの教会を担当する司祭もいるのである。休暇と言えば聞こえは良いが、彼等とて人間であるから健康のためにスポーツや音楽に時間を費やすこともあるが、大体は研究、巡礼旅行などに充てられ、所謂世間的なレジャーではないことを川口氏に言っておきたい。

  現代は司祭も信徒もその真剣さが最大限に試される時代であり、今や社会の少数者として各種の批判、非難中傷に晒されながら生きなければならない時代に突入していることを心ある信徒は意識している。カトリック教会は日本的な表現を用いれば[和して同ぜず。]である。これに対して[和して同じた。]のがプロテスタント教会の主流である。多数決原理と民主主義的発想を教会内部にまで持ち込み、キリスト教の教義内容に到るまでを多数決の民主主義で決定しようという教会もあるのだ。こうして[社会と共に]を合言葉にしてその潮流に自ら飛び込んだ結果、キリスト教の本質的な要素から逸脱し、存在意義すら消滅しかけているのがプロテスタント教会の大きな悲劇である。このようなプロテスタント教会の現状を教訓にしてカトリック教会には、運営面(特に経済部門)などに関しては近代的、或いは時代に応じた対策や透明性が必要であるが、教義や信仰という時代を超越する本質的な部分に手を加えることは、教会の自滅に通じることを認識しなければいけない。各地の教会で信徒役員として活躍している人々を集めて教皇フランシスコも[カトリック教会は世間的な意味での民主主義団体ではない。]と言明しているのである。無知識、無認識から生じる一般世間の教会批判を真に受けて、これに応じたところで、離反した信徒を取り戻すことは出来ない。一つの時代の好みに応じた宗教は、その時代が去ればお払い箱である。

  最終の387頁では川口氏がドイツでイスラム教徒が増大していると書いている通り、ヨーロッパが遠い将来にはイスラム化するであろう、ということは度々指摘されている。イスラム教徒が最も忌み嫌うのは、キリスト教でもなければ仏教でもなく、無宗教である。イスラム教徒が社会の大勢を占めるような事態になれば、川口氏のように無信仰を自慢げに語る人間の居場所はないであろう。人間の自由意識と責任を尊重するキリスト教会は、離脱者の良心の決定を責めることはしない。これに比して教義に背いたり、他宗教への転向を表明した人間には死刑執行も辞さないのがイスラム世界である。

  日本に一生を捧げたあるイタリア人司祭はかつて[教会に反対したり、抗議することは全く自由だ。しかしその場合には意見の論拠をはっきりと明示してほしい。単純なスローガンだけでは対話は成立しない。]と言ったことがある。筆者はこの言葉をいつも大切にしたいと思っている。しかし川口氏の記事は残念ながらスローガンにすらなっていないと断言したい。瀕死の床で苦しむ病人を見て薄笑いを浮かべている、という意地の悪い不健全な心理を露骨にさらし、自らの無知識、無認識ぶりを露呈した記事から学ぶものは何もなかったというのが、筆者の偽らざる気持ちである。
 

クライン孝子の日記 2014.04.11-1
クライン孝子の日記 2014.04.11-2

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