ドイツの教会刷新を阻む諸問題について
 Atsuko Lenarz
(ドイツ Offenbach am Main 在住)
2015.12.09
 

  西ヨーロッパ諸国のキリスト教離れと世俗化の現象については最近の日本の新聞各紙でも時折、報道されている。各国での実態は様々であるが、全体としてキリスト教精神に基づいた伝統的な価値観や常識的な倫理観念は喪失し、かつては全く問題外、想像外であった事象が今や新時代の潮流として社会の大勢を占めるようになった。これに批判の声を挙げることは難しい。特にドイツにおいてこのような声は直ちに「超保守主義者」、「宗教原理主義者」、「ネオ・ナチ」などの罵声で総攻撃を受けるからである。前教皇ベネディクト16世が引退直前に集団謁見の場で言われた言葉「多くの人が当然だと考える決定に公然と反対することは容易ではありません(1)。」は今や完全に現実となった。世俗化・非キリスト教化の波は教会の信徒や司祭をも巻き込んだ結果、教会の本質を忘れて人間本位の好き勝手な要求のみを掲げるようになってしまった。こんな状況下の2013年3月16日に登場したのが現教皇フランシスコである。教皇が選挙後にひしめき合う群衆の前に姿を見せ、第一声として「buona sera(今晩は)!」と挨拶した瞬間から庶民的で親しみ易いというイメージがあっという間に定着し、現在に到る迄爆発的な人気を博している。これほど教皇の人気が高まれば、教会もさぞかし繁栄するであろうと誰しもが考えるであろう。ところが現実は全く逆なのである。

  今年7月17日、ドイツのカトリック司教団は前年度2014年のカトリック教会離脱者の数を公表した。それによると2013年の教会離脱者は178,805人で、司教団はその数の多さに息を呑んだそうであるが、2014年度はこれを更に上回る217,716人となり、過去最高数となった。しかも教会に留まるカトリック教会の信徒数23,939,472 人の内、日曜日のミサへの出席率は10.8%である(2)。 マスコミ関係者はこの実状を見て「フランシスコ教皇旋風にもかかわらず、、、」と論評した。他方、プロテスタント系教会の離脱者数はカトリック教会以上であり、日曜礼拝への出席率は10%にも満たない。この統計をもとに「教会離脱者の数は増えてもカトリック教会とプロテスタント教会の信徒を合わせれば人口の約60%になる。ドイツ人の半数以上はキリスト教徒なのだ。」などの甘い幻想に浸っている教会関係者は今もって多い。しかしここ数年間で一般の世論調査機関や各司教区が独自に教区民を対象に行った統計や意見調査などから判明したのは、カトリック信徒の圧倒数(80-85%)が教義に関する知識や関心は皆無に近いこと、教会の戒律などを煩わしく感じ、教義や戒律の内容を修正或いは緩和してほしいと願っていること、さらには司祭の独身制度の廃止、女性の司祭叙階、教会内での同性結婚、安楽死などを認めるべきだと考えていることなどである。この調査結果はミサなどへの定期的な出席率が極端に低いことを思えば十分に肯けることである。ヨーロッパ社会の世俗化と精神的な退廃を1950年代から既に察知して教会に大きな危機が訪れることを警告していたのは当時の教皇ピウス12世(在位1939-1958)であるが(3)、その予測は見事に的中したと言えよう。教皇の憂慮は全く無視されたが、現在のような惨状は教会が第二ヴァチカン公会議以後、信徒の精神的指導を全く怠っていたためである、と指摘する声も遅まきながら漸く聞かれるようになった(4)。


  これを要約すると下記のような諸点である。

  1. 教会、学校、家庭などで真面目な宗教教育は殆ど行われていない。例として信徒の心理を傷つけないとの配慮から煉獄、地獄、最後の審判などについての言及はなく、告解も殆ど行われず安易な救済論のみが浸透してしまった。

  2. 洗礼や堅信などは人生の単なる通過儀礼と化してしまった。

  3. クリスマスや復活祭など祝祭日は商業化され、季節の風物と化してしまった。

  4. 婚姻の秘跡と不解消性についての正しい説明もないままに教会結婚式を行い、結果として離婚は激増。再婚後に聖体拝領が出来ないことを信徒の権利侵害と見做し、離婚者を差別する不寛容な教会というイメージを植え付けてしまった。


  ある司祭の講演によると幼児洗礼の後、一度も教会に姿を見せず基本的な祈りは勿論のこと、十字の切り方も知らない子供を連れた親が突然やって来て、初聖体を権利として要求するケースは頻繁であり、これを断ることが出来ないとのことである。結局は形式だけ初聖体を受けた子供が次に教会に顔を出す堅信式は、教会卒業式に等しいとのことである。これに類する例は筆者もたくさん見聞している。

  それでは信徒がこれほどまでに教会から離反しているのに、教皇人気だけが異常に高いのは何故であろうか。それは常に「貧者の救済」、「許しと慈愛」などを説く現教皇フランシスコがマスコミにより「教義に固執しない」、「形式にこだわらない」リベラルな改革教皇と宣伝されているからである。これにより信徒は寛容なフランシスコ教皇は「保守的で威圧的なベネディクト16世」と異なり、「規則ずくめで窮屈なカトリック教会」を気軽で自由なものにしてくれるはずだ、という期待を強く抱くようになった。彼等にとって「相対主義の独裁」の危険性と「真実の信仰への回帰」を必死に訴え続けた前教皇ベネディクト16世の声は耳に痛く、煙たい存在だったのである。しかし勝手な思い込みで現教皇を一方的に礼賛するマスコミの論調に批判的な信徒は、その背後には前教皇ベネディクト16世に対する怨恨の情が潜んでいる場合が多いことを見抜いている。

  現教皇への誤った期待だけが高まっている現状を見て、ドイツのカトリック司教団は教皇が説く「許しと慈悲」を受けるには犯した罪の悔悟が必要であることを喚起させるべきであった。しかしベネディクト16世時代の末期に各地で相次いで暴露された司祭による青少年への性的虐待事件以来、マスコミの猛攻撃を連日のように受けた教会と司祭は、世間のお笑いと軽蔑の対象でしかなかった(5)。そのために意気を喪失したドイツ司教の大半は襟元を正さないままに、過去の反省、教会の近代化と透明性、新時代への対応を口実にして非キリスト教化した現代社会に尺度を置いて、世間の批判をかわそうとしたのである。今や福音書の見地から高い理想や信念を語ることは少なくなる一方で、堂々と真実の信仰の尊さを語るごく僅かの司教は司教団内でも孤立しているのが現状である。

  低迷するドイツの教会の精神的な刷新を妨害する要因の一つとされているのは、教会税である。信徒間でも不評なこの制度を導入した歴史的な事情については省略するが、ドイツでは市民の住民登録用紙や給与証明書に所属宗教を記入する欄がある。但し本欄は政府と協定を結んでいない教団(プロテスタント系各種の小教会、東方正教会、仏教協会、イスラム教、モルモン教等)の信徒や無宗教者には不要である。しかし宗教法人として認可されたローマ・カトリック教会、復古カトリック教会(6)、プロテスタント教会主流派の信徒は所得税の8-10%を教会税として給与から天引きされている。これを管轄するのは税務署である。そこで教会を離脱するには税務署で必要な書類手続きを終了すれば、自動的に教会に連絡が行く仕組みになっている。教会とは全く無縁になってもこの手続きを経ない限り書類の上では信徒として扱われ、税金が徴収される。或いは正式に教会を離脱した信徒が再び信仰を取戻し、教会復帰を望む場合も税務署で教会再入会に伴う納税手続きをしなければ、信徒とは見做されない。こんな訳で書類上の信徒の数を把握することは、教会税などの制度がない他国に比べると比較的に容易である。教会離脱者がその理由として挙げるのは、「行きもしない教会に税金など払いたくない。」という言い分である。またマスコミにより教会の不祥事(司祭による幼児虐待事件等)が大々的にしかも執拗に報道される毎に数千人から数万人が教会離脱届けを出すが、その時の理由は「教会に愛想が尽きた。」である。

  次に今年8月にある世論調査機関はドイツのカトリック信徒を対象に、教会に留まる理由についての調査をした。それによると信徒の半数以上が「教会離脱を考えたが、やはり教会という組織に所属していれば精神的に安心である。」と答えた。「自分の信仰を大切にしたいから。」、或いは「失った信仰を再び見出したから。」という答えはごく少数でしかなかった(7)。 
 さて教会税を巡っては慢性的に論議が絶えず、左翼政党、各種の無神論・無宗教者団体などは「政教分離の原則違反」、「前近代的」などの論理でその廃止を声高に叫んでいる。前教皇ベネディクト16世も教会税の制度には懐疑的であったと言われていたが、司教団は「ドイツ事情を知らない教皇の無責任発言」の一言で一蹴しただけであった。しかし教会離脱者が増加の一途を辿るのに教会税の支払額は増大し、ドイツの教会は世界で最も裕福とされているのは、国としての経済状態が良好だからであろう。徴収された税金は司教や司祭の人件費、物件費、運営費、教育費、福祉事業費や教会傘下の諸団体に充てられている。従って国家から給与を受ける司祭の経済的な生活は安定しており、建物としての教会の現状も良好である。これは政府の援助が皆無のために司祭が経済的に切り詰めた生活を営み、修復費用に事欠く荒れ放題、倒壊寸前の教会も多いフランスとは大違いである。またカトリックの学校教育やカリタス、赤十字などの国際的な援助機関も教会税や信徒の寄付金に大幅に依存している(8)。そこで教会税が万一、廃止された場合には司祭の経済生活は勿論のこと、教会の活動資金、教育面と福祉面や由緒ある教会の建物維持などの文化面でも大きな混乱が生じることは必至である。

  このように教会税の利点は大きいが、同時に問題点も多い。何故なら多くの信徒は教会税支払を楯に取り、信徒の好みに合った教会の実現を迫って好き勝手な要求を次々と突き付けてくるからである。しかし各種の信徒団体や与野党の政治家がカトリック教会に対して「女性差別」、「人権蹂躙」などの非難の声を高めても司教団はその批判を巧みにかわすことに躍起になるだけで、教会のあるべき根本姿勢について納得ある説明をすることが出来ない。教会離脱者が増加すれば教会財源も減少し、生活維持や活動に支障が生じることを最も恐れているためである。教会は祷りとミサ聖祭、宣教により真実の信仰を説く場所であり、「お客様のご要望に応じたサービスを提供する場」ではないという認識は双方共に薄くなっている。国から支給される給与で生活の安定した司祭が布教への熱意を失い、洗礼の後は冠婚葬祭等の儀式を執行するだけの機能に堕してしまう危険性が極めて高いことはしばしば指摘されている。その反面、信仰の自覚に徹した少数の良心的な司教や司祭は「超保守主義者」としてマスコミの非難、攻撃にさらされている。しかし司教団は不当な誤解を受けて苦しむ信仰の同胞に対して極めて冷淡である。このような現状の中、最近では「教会の浄化と再出発のために、教会税廃止はやむを得ない。」、「教会税こそが私達司祭を無能力者にしてしまったのです。」などと発言する司祭の声もごく僅かながら聞こえるようになってきた。いずれにしても教会税の見直し、或いは何らかの修正が必要な時期に来ていることは確かであろう。

  次に正統な信仰とそれに相応しい態度を表明するべきはずのドイツ司教団が世俗社会への迎合ぶりを露骨に示したのは、今年10月4日~25日まで「結婚と家族」をテーマにローマで開催された世界代表司教会議(シノド)であった。シノドを招集した教皇の意図は、崩壊の危機に面した家族の救済、貧困家庭の援助、健全な家族生活の意義などを討議することであった。しかし日頃からカトリック教会の自由化、特に離婚後に再婚した信徒の聖体拝領の許可、及び教会内での同性結婚容認を要求するマスコミは、これこそがシノドの中心議題であるかのように宣伝し、これに呼応して本当に問題をすり替えてしまった司教もいたのである (9)。
  ドイツ司教団の会長マルクス枢機卿に到っては「ドイツの教会はローマの支店ではない。」と公言し、多数派信徒の要望が認められなければローマからの分離も辞さないという強硬な態度を見せつけた。これに対してアフリカ、東欧の諸国及びアメリカの司教団の中から強い怒りと批判の声が高まった。各種の論議が渦巻く中で正統な教義に基づく明確な態度と発言を教皇に求める声は信徒の中からも大いに高まり、署名運動すら行われた(10)。これに対して教皇は直接の返答を避けたが、会議終了後に各国の代表諸司教により発表された最終文書は、様々な意見を巧みに調整し、大体が現状維持の路線に落ち着き、教義からの脱線、教会の分裂という最悪の事態は回避できたようである(11)。尤もこの文書はカトリック信仰を正しく守ろうとする司教や信徒からは表現曖昧、核心が不鮮明として批判されている。また数人のドイツ人司教は同性愛者に冷たい文書として不満を表明した。この人々にとっては同性愛という行為がキリスト教理念に背いていることなど念頭にないのであろう。

  ドイツ司教団は何故、これほどまでに強気の発言が出来るのであろうか。それは教会税やミサでの献金の一部が教皇庁にも送金されており、これが教皇庁の財政を補助する一部として大きな役割を演じているからである。この点こそが教皇庁に対するドイツ司教団の最大の強みであると同時に、教皇庁にとっては最大の弱みである(12)。教皇庁への財政援助を楯に取ってここに圧力をかけるドイツの教会指導者の態度と、「貧しい教会」を説きながらも経済面ではドイツに依存する教皇庁の姿勢は、特にアメリカで手厳しく批判されている(13)。

  現教皇がドイツ司教団やリベラル派枢機卿等の言動を抑えきれないもう一件の事情については、以前から醜い噂が流れていた。これが単なる陰湿な憶測ではなかったことは、ヨーロッパ某国のある枢機卿自らが最近打ち明けた発言から判明した。それによると超リベラル派として名高いこの枢機卿は、ヨハネ・パウロ2世時代の末期から他の数人のリベラル派枢機卿(内2人はドイツ人)や司教と緊密なネットワークを組んで、既に次期教皇の噂が高かったラッツインガー枢機卿の選出を断固阻止し、彼等がリベラル派として注目していたベルゴッリオ枢機卿を支援する決定をしていた、ということである。その念願が叶わずラッツインガー枢機卿がベネディクト16世として登位したために計画が挫かれた彼等は、同教皇のイメージ低下に繋がる情報を流し続けながらじっと時を待ち、2013年2月の教皇引退を機には関係者に徹底的な根回しを行い、遂にベルゴッリオ枢機卿をフランシスコ教皇として選出したというのである。本件を打ち明けた枢機卿は、自国の大掛かりな幼児虐待事件の隠蔽政策を指図した重要参考人として警察に連行され、取り調を受けた人物である。ところが幼児に性的危害を与えた司祭に対して寛容ゼロを叫んだはずの現教皇はこの枢機卿を家族問題についてのシノドの席上に顧問として招聘した。しかもその前には真実の信仰と伝統的な家族形態の重要さを力説して前教皇から厚い信頼を得ていた某枢機卿を左遷し、ヴァチカンの中枢部から締め出していたのである。現教皇のこのような措置について理解に苦しむ教会関係者は多く、批判の声も出ている。マスコミの激しい批判にじっと耐えて、多数派信徒の勝手な要求をキッパリと退けていた過去の諸教皇に比べると、現教皇の口調が余りにも融和的、態度不鮮明で何か物足りないという印象を与えたのは、先に挙げたリベラル派の諸枢機卿への恩義を感じているからであろう、という観測はヴァチカン内外で囁かれている。もしこれが本当に事実ならばアメリカのヴァチカン通ジャーナリストが最近、主張したように教皇庁自体が抜本的に姿勢を改めてリベラル派・改革派と称する勢力から解放されなければ教会の事態は好転しない、という意見は正論であろう(14)。

  このように現教皇への懸念が高まる中、11月20日に定期訪問(アド・リミナ)のためローマを訪れたドイツ司教団を前に、教皇はドイツの教会現状を深く憂いて、ドイツの教会に欠如している諸点(神と人間に奉仕する司祭としての自覚と意識、教会の霊性等)を非常に具体的にしかも極めて手厳しい表現で指摘された(15)。これは万人に寛容な人物として親しまれる現教皇としては異例のことで、稀に見る率直な言葉であった(16)。教皇はドイツの教会の実情を知ってよほど驚かれたのであろう。今まで「慈愛と許し」だけを説く優しい教皇の下で教会は自由化され、信徒の要望も叶えられるであろう、などの甘い期待を寄せていた大半の司教にとって今回の教皇の厳しい勧告の言葉は全く番狂わせだったのではないだろうか。現在に到る迄、ドイツ司教団は教皇の批判と勧告の語に対して全く無反応であり、固く口を閉ざしたままである。シノドの際に「教会の自由化が認められなければローマからの分離も辞さない」などの大胆な発言をしたが、筆者は現在のドイツ司教団にはそんな「勇気?」はないと見做している。今後の動向は不詳であるが教皇の面前では表面的に服従と忠実を誓いながらも背後では、正統な教義や規律を無視して自己流の教会を目指そうとする教会の動向を黙認するという臆病な二重姿勢を維持するのではないかと案じている。いくら教会の刷新と若返りを口先だけで唱えても、このような二枚舌では教会の名誉と信頼を回復することは出来ないこと確実である。現状のままでは教会離脱や人口の老齢化により信徒数と司祭数が減少するのは自明のことである。いずれは教会が過去の遺物になってしまう可能性も排除できないことを予告する声は方々で聞かれている。

  この最悪の事態を回避するために教会は、信仰のために教会に残ろうという少数の真面目な信徒をもっと大切にして、その誠意を裏切らないよう努力することが先決であろう。そのためには司祭も信徒も税金への依存体質から脱却すること、両者共に今や社会の少数者であることを意識すること、多数派社会から受ける様々な誤解や非難を正しく論駁する勇気と強い精神を養うことが教会関係者一同に課せられた急務ではないかと思う。同時に「リベラル派教皇」を宣伝するマスコミ報道に惑わされないように警戒しなければいけない。ドイツ司教団に向けたフランシスコ教皇の勧告を注意深く読めば、この教皇が必ずしもリベラル派の枢機卿やマスコミの期待に沿った人物とは言えないことに気付くはずであろう。


(1)「霊的講話集2012・2013」、ペトロ文庫2013年、389頁
(2) http://www.kirchenaustritt.de/statistik
(3)「Pastor bonus Texte zur priesterlichen Heiligung」 Priesterseminar St. Petrus, Wigratzbad 2011,44頁以下
(4) http://www.kath.net/news/51761
(5) http://www.kath.net/news/49888
(6)復古カトリック教会(Altkatholische Kirche)。 1870年7月18日、第一ヴァチカン公会議で
論議された教皇首位権と不可謬説を否定し、ローマ・カトリック教会から分離した一派。
ドイツ語諸国に多い。典礼儀式はカトリック教会に類似しているが、女性の叙階、
司祭の結婚を承認しており、最近では聖公会との連携を深めている。
(7) http://www.kath.net/news/51613
(8) http://www.catholicherald.co.uk/issues/december-12th-2014/why-the-german-church-is-rich-and-arrogant/
(9) http://www.kath.net/news/52441
(10) http://www.kathnews.de/petition-ergebene-bitte-bittet-papst-um-feierliche-lehramtliche-erklaerung
(11) http://www.kath.net/news/52949
(12) http://www.focus.de/finanzen/news/vatikan/einnahmen_aid_13407.html
(13) http://www.kath.net/news/50652
http://www.thecatholicthing.org/2015/08/24/october-revolutions/
(14) http://www.kath.net/news/52710
(15) http://www.kath.net/news/52962
http://www.kathnews.de/papst-erinnert-die-deutschen-bischoefe-an-die-innere-verbindung-von-eucharistie-und-priestertum
(16) http://www.kathnews.de/papstanpsrache-an-di-edeutschen-bischoefe-schweigen-im-blaetterwald

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