宣教する意志がなければ信徒は増えない
2015.08.13
カトリック山手教会所属信徒
野 村 勝 美
「カトリック生活 9月号」に、
[尊者・北原怜子]
の特集がある。
その冒頭に岡田大司教の文章がある。その中で、「教会の使命は、主イエスの使命を引き継ぎ、神の国の福音を宣べ伝え、神の支配が実現していること。神の国がきていることを指し示すことにほかなりません。」
と語っておられる。
このような場合、何故、「教会の使命は」というのだろうか。端的に「司教の使命は」「聖職者の使命は」と、どうして語らないのだろうか。語らないのは、そう思っていないからだと思う。
私には、この方々の発言は、政治的発言以外、意味そのものが分からない。文章のタイトルは、「言葉と行いの一致のうちに」である。御自分たちの行いの、どこがこの言葉に一致しているのか、それを教えて頂きたいものである。そうすればご発言の意味が理解できるのではないかと思う。
いずれにせよ、
「神の国の福音を宣べ伝え」、
宣教を使命、と語っておられる。しかし、私にはむしろ、宣教に対する阻害要因を、司教自らが作り出しているように見える。本文は次の2点からその検討をする。
1) 司教並びに聖職者の「政治的発言」
2) 神道への敵視
カトリック中央協議会発行の、『日本カトリック司教協議会 イヤーブック2015』に、「主要国(地域)別カトリック現勢 2012」という資料がある。アジアの項から数カ国を拾い出してみる。(同書p.182より)
カトリック信徒数と総人口に対する割合を記す。割合は筆者が計算した.。
国(地域)
総人口
カトリック信徒数
割合(%)
イスラエル
7,901,000
266,000
3.37
香港
7,155,000
547,000
7.65
台湾
23,529,000
243,000
1.03
インド
1,213,370,000
19,762,000
1.63
インドネシア
247,214,000
7,534,000
3.05
日本
127,606,000
542,000
0.43
韓国
50,345,000
5,310,000
10.55
マレーシア
29,337,000
1,095,000
3.73
ミャンマー
60.976,000
675,000
1.10
パキスタン
174,442,000
1,221,000
0.67
フィリピン
97,463,000
80,241,000
82.3
スリランカ
21.004,000
1,536,000
7.31
タイ
68,252,000
361,000
0.53
ベトナム
88,773,000
6,573,000
7.40
日本のカトリック人口比率は、イスラム教国であるインドネシア、マレーシア、パキスタンに較べても、低い。司教団は当然この数字を知っているはずであるが、この数字を使っての検討は、聞いたことがない。
以下、
私は宗教学者でも哲学者でもなく「商売人」なので、俗な視点から見解を述べる。
福音書の主イエスの言葉、「全世界に行き、造られたすべてのものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16-15)
これが会社で言えば「定款」の、事業目的第一項である。冒頭に記した岡田大司教も、そう語っておられる。
教皇を社長とし、枢機卿を取締役とすれば、教区司教は各地に派遣された支店長である。日本に派遣された支店長は、(今は全員日本人であるが)、業務成績を全く上げていないと言える。
私たちの世界では、そのような支店長は更迭される。そうしなければ会社は潰れるからである。しかし日本のカトリック教会ではそのようにならない。2013年7月に解任された(強く辞任を求められた)、さいたま教区長・谷大二司教が、日本のカトリック史における唯一の例と思うが、その真相は信徒に分からない。現在さいたま教区は教区長不在で、東京教区長・岡田大司教が「教区管理者」として担当しておられる。その岡田大司教が「さいたま教区管理者」としての立場で、教区信徒に対して本年6月29日付で書簡を出している。
「一昨年の7月、谷大二司教が辞任されて以来約2年が経過しました。思いがけないこの出来事に出会い、教区は試練の時を過ごしてきました。」
日本カトリック司教協議会の会長であり当該教区管理者である岡田大司教に、「思いがけない」と言われては、信徒は口を開けるしかない。口開放で残るのは不信である。本当に知らないのか。知らないのなら真相を調べたのか。今も分からないのか。とぼけているのか。谷司教の解任が不当なものであれば司教団として谷司教を守らなければならない。解任が正当なものであれば、その骨子は、信徒に知らさなければならない。支店長が突然、社員に理由を一切告げずいなくなったのである。一般社会ではあり得ないことである。その理由の公示が出来ないなら、「秘密保護法」反対などと、言わぬことである。
私は仕事について、下のような算式を使ってきた。
もう50年近く前、はたち台の時である。成果=方法×能力×努力
ずっと後になって、著名な大経営者が、
[成果=考え方×能力×努力]
と教えておられることを知った。「方法」よりも「考え方」の方が、より本質的・広範囲であると思う。しかし私は若いときに思い至った私の公式を、今も使いたい。この算式の大切なところは、足し算でなく掛け算であることである。一つがゼロであれば、答えはゼロになる。優れた能力が必死の努力をしても、方法が誤っていれば、成果は無になる。
私には日本の司教様方の能力や、努力の程を査定できない。しかし「方法」は、明らかに間違っている。それは夥しい政治的言動であり、その一環としての神道への敵視である。これが多くの日本人の心を逆なでし閉ざしている。そのことに司教方は気づいていないようである。
営業マン(宣教者)に必要なのは、何よりも、繊細な神経である。相手に聞く耳を開かせることである。
1. 政治的言動の悪影響私が営業マンとして駆け出しの頃、上司に戒められたのは、客先で「政治の話をしてはならない」ということであった。理由は簡単で、客先には色んな考えの方がおられる。むしろ、同じ考えの人などいない、と思った方が良い。営業は商品を売り込むのが目的で、わざわざ反感を持たれたり、逆に迎合の元になる話は避けるのが、当然の配慮である。目的は商品の売り込みで、自分の主義の拡散ではない。
同様に野球の話もするなと言われた。大阪だからみんな阪神ファンとは限らない。巨人ファンもいっぱいいるし、アンチ巨人もいる。
まあ今は野球そのものにそれほどの熱狂はないが、当時は結構、野球で感情的になる人もいたのである。更に戒められたのは、同業者・競合会社への悪口である。それは何よりも自分の品性を下げる。競合会社を出入りにしている交渉相手も多く居る訳であるから、悪口は、相手担当者の気分を害するだけである。私の営業マンとしての原則は、競争相手の悪口を言わぬこと、そして競争相手より少しでも高い値段で受注すること、であった。安く出来る場合でもしなかった。ほんの少し、高く売った。ほんの少し、というところが大切である。安くすることによって、相手は、もっと値切れたのではないかとの悔いを残す。それを断ち切ってあげるのも営業マンの配慮である。信頼は値引きによってでなく、値引きしないことによって得られるのである。司教団が進める、分かりやすさ目的の文語体による祈りの廃止は、要はディスカウント、値引きである。値引によって値打は確実に下がるが、人の購買意欲を高めるか。事実を検証してみたのか。人は常に質のより高いものを求める、という視点はあるのか。
以上の私の原則から言えば、司教団は、やるべきことを何もせず、やってはならぬことを全部やっている、困り者集団に見える。
最近(2015.04.21)岡田大司教は日本共産党機関誌 『しんぶん赤旗』 に日本カトリック司教協議会会長の立場で登場し、日本共産党に対して、「私は日本共産党とは思想的に異なりますが、共産党が日ごろ言っていることには賛成です。改憲の動きの強まりのなかで、平和の擁護を貫いている共産党にはがんばってもらいたいと思います。」
日本共産党の政策への支持を、明確に表明している。これは、「宣教者」として、考えられぬほどの愚かな発言である。(司教団の発したあらゆる政治的発言は、日本共産党の政策に合致している。“思想的に”どこが違うのか、私には見出せない)
今の司教団は戦前の司教団を「戦争に協力した」と責めている。30年か50年先、「当時(今)の司教団は無神論者に協力した」と記されるであろう。
司教団はその政治的発言を福音の実行であると解説しているが、(「なぜ教会は社会問題にかかわるのか Q&A」 Q1)、それならば日本共産党も福音を実行していることになる。
更に俗な検討を加える。
政党支持率の最新資料がある。
出典: [時事通信]
(調査結果は毎月更新されている。上の表は2015年7月時点のものである)
「支持率調査」というものがどれだけ現実と整合しているのか疑問であるが、ある傾向を示していることには間違いないと考える。最新の7月で検討するなら、“支持なし”を分母から除くと、支持率は下のように換算できる。
自民
63.8%
民主
14.9%
公明
9.5%
維新の党
5.4%
共産
4.6%
次世代の党
0.3%
社民
0.8%
生活の党
0.5%
元気にする会
0.0%
新党改革
0.2%
自民
403人
56.2%
民主
130人
18.1%
公明
55人
7.7%
維新の党
51人
7.1%
共産
32人
4.5%
次世代の党
8人
1.1%
社民
5人
0.7%
生活の党
5人
0.7%
元気にする会
7人
1.0%
新党改革
2人
0.3%
その他
19人
2.6%
合計
717人
100%
(各会派は主要政党名に集約している)
換算支持率と政党(会派)別衆参議員数は、傾向として整合する。矛盾はない。日本カトリック司教協議会会長・岡田武夫大司教は、日本共産党の機関紙上で共産党への支持を表明した。つまり国民の4~5%が支持する立場に身を置き、過半数が支持する自民党・政府与党に敵対することを表明したのである。これは国民の過半数への宣教の意志を放擲したものである。尤も、この方々にはもともと「宣教」の意志が無いのであろう。あればもっともっと神経を使うはずである。私がカトリック教会へ通い始めたのは35年ほど前であるが、神父様方は、政治的発言を一切しなかった。現在のようにカトリック教会の政治的立場が露わであれば、私は受洗の前に教会から離れたであろう。
カトリック信徒全体の政治的傾向は、上の政党支持率・衆参議員シェアに近いと私は判断する。
反論できぬ信徒に、司教・神父の立場で一方的に政治的立場を語ることは、信徒に強いストレスを与える「パワーハラスメント」である。職権濫用である。因みに私は、小さい会社ではあるが数十年、社長の立場にある。私は部下に対して、政治の話は一切しない。一流の芸能人やスポーツ選手も、現役時代、政治的発言や活動をしていないと思う。長嶋茂雄や王貞治が政治的な何かを語ったことがあるだろうか。野球ファンの中にも色々な立場の人がいる。すべての人に配慮する故に、彼らは語らないのである。美空ひばりの政治的言動を知らない。彼らに政治的見解が無いとは思わない。語らないのである。嗜み、というのだ。
私は、共産党の支持率が4,5%である故に支持するなと言っているのではない。自民党を支持せよと言っているのでもない。そういうところからは超然としているべきだと申し上げている。宣教者として、ごく当然の心遣いである。宣教は、自分が気持ち良く政治的主張をすることとは整合しない。
2.神道への敵視今年も7月13日から16日、靖国神社では「みたままつり」が行われた。例年30万人が参拝する。昭和22年に始められ東京の夏の風物詩として定着したこの行事は、何故かあまり報道されない。去年までは参道両サイドにずらっと出店があって、酒類も当然売られていた。年々若者の数が増え、場所をわきまえない行いが見えるようになって、今年から出店は廃止された。参道両脇に並んだ店と、店前で立ち止まる人がなくなったので、非常に歩きやすくなった。私は神社の良い決断であったと思う。
司教様方はおそらく知らないだろうが、(見れば腰を抜かすかも知れない)、若者の多さである。そして子供連れの若い夫婦の多さである。更には外国人の多さである。
昨年ご一緒した畏友・河野定男氏から、今年、こんな感想を頂いた。野村さんと靖国神社の「みたままつり」に参加して一年になりますね。あのときの印象では、すごい人出に驚いたことです。「みたままつり」は3-4日続く祭りと記憶しますが、その人出の合計人数は境内だけで行われる祭りとしては、多分全国一だとおもいます。
野放図になり過ぎて「露店」が取りやめだそうですが、そんな野放図があったとしても、 一番奥にある拝殿に参拝する人の数は、全国的に有名な京都の祇園祭で八坂神社にお祭りの間に参拝する人より多いのではないかと思います。
靖国神社はすでに民衆の社でもあるのです。集まる人々の、表情は柔らかい。楽しんでいる、幸福な顔である。
靖国の神職は必ず言う。英霊が願っているのは、皆様の安寧である。皆様の平和な生活が、英霊の願いである。
「祭り」は“慰霊”であって、うつし世の人々が楽しく平安であることこそ、みたまへの慰めである。それ故に、3.11大震災直後も、靖国はみたままつりを“自粛”しなかった。
繰り返すが、靖国神社の神職が常に語ることは、「御英霊の願いは、皆様方の安寧である」ということである。この世にある人々の平和としあわせが、みたまへの何よりの慰霊である、ということである。私は遺族としては勿論、カトリック信徒であることを明言して何度か昇殿参拝した。聖フランシスコの「平和のための祈り」を奏上するのを常としたが、神職は共に祈りの姿勢をとった。
春秋の「例大祭」でも、「永代神楽祭」(私の兄は9月30日)でも、神職は常にこの言葉を語る。「世の平和が、亡くなった方々への最大の慰霊である」と。
春秋の例大祭では、「鎮魂頌」が歌われる。詞は折口信夫、信時潔作曲。
その中心部にある、現し世の数の苦しみ
たゝかひにますものあらめやこれが靖国の祈りなのである。戦争鼓舞にほど遠い。
私は、批判する場合は出来るだけその対象を調べる。それが「誠実」というものである。私は、司教様方は靖国を全く知らないと思う。いずれにせよ日本の司教団ほど、根拠を示さずに他を批判して平気な人々を他に知らない。今年の、「戦後70年司教団メッセージ」でも、1986年9月26日の白柳誠一東京大司教(当時)の、
「わたしたちは、この戦争に関わったものとして、アジア・太平洋地域の2千万を越える人々の死に責任をもっています。」発言を確認踏襲している。しかし白柳発言当時から現在まで、“2千万”の根拠について資料が提示されたことは無い。日本共産党が全く同じ“2千万”を語っている。共産党はその根拠らしきものを示しているが、驚くほどいい加減なものである。(別な場所で詳論したので、ここでは繰り返さない)
「正定事件」もそうで、根拠を教えて下さい、という私たちの、ごく当たり前のお願いに対して、池長潤大司教は、その求めそのものを非常識で失礼なことだと、取り合って下さらなかった。根拠を示さず人を責めることは、(つまり証拠なく人を断罪することは)、私たちの常識には無い。それの出来る人は、特異な神経の持主と思う。
靖国神社に戻るが、靖国はおそらく、司教様方の頭にあるものと違うのである。
多くの国民に(おそらく外国人にも)親しまれているので、それを敵視することは、宣教の障害である、ということだ。靖国は、行きたい人が行けば良いし、行きたくない人は行かなければ良い。カトリック教会がとやかく言う必要はない。放っておけばよいのである。
今年の「みたままつり」での写真を付ける。
外国人も多い。
首相の靖国参拝を、賛成の人も反対の人もいるであろう。私は、首相は必ず靖国参拝しなければならぬとは思わない。行きたくない人に行って貰う必要はない。ただカトリック教会が首相の靖国参拝に抗議することは、首相の参拝を望む多くの人の、心を閉ざすことになる。私自身、兄が靖国に祀られた遺族である。故人であるが著名な高位聖職者の兄君も、靖国に祀られている。首相の靖国参拝を望む人は、想像であるが、政党支持率に比例するように思う。ここで司教団は、宣教ターゲットの半数を切り捨てている。政治で半分、靖国で半分である。自ら市場を棄てているのである。
更に、伊勢神宮参拝にまで抗議するとなると、これはもう国民のほとんど全体にそっぽを向かれることになる。
私は、谷大二司教がさいたま教区長を失脚したとき、上を含めた一連の愚かな言動が原因かと思った。しかしそうではなさそうである。そうであるならば、谷司教お一人では済まなかったはずである。スケープゴートだったなら、まったく効果はなかったことになる。
日本のカトリック教会(司教団)は、神道を否定している。
(谷大二司教は、信教の自由の中に神道は含まれない、と言った。神道以外の宗教の、神道からの自由であると。これほどあからさまに他宗教を否定している宗教指導者を、カトリックの司教以外に私は知らない)
靖国神社を敵視し、伊勢神宮まで否定する。それは日本人の大部分(全体とは言わない)の心を否定することである。
共産党を支持し神道を否定して、日本で「宣教」が出来ると思っているのだろうか。本当に宣教を願うなら、慎むべき言動が多すぎる。それがどれほど日本人の心をカトリック教会に対して閉ざしているか。気づいて欲しい。
以上
[以下、付記]
神道がキリスト教と競合しない“別な”ものであることは、外国人(カトリック信徒)の目から見た下記、4,5項のリンク先をご参照頂きたい。オリヴィエ・ジェルマントマは別な場所で神道を、「ドグマ無き信」と語っている。本質を突いた見解であると思う。
外国から宣教師として派遣された方々は、日本の宗教を大切になさった。神道に対しても勿論そうである。GHQによる靖国解体計画から靖国神社を守ったのは、パトリック・バーン神父、ブルーノ・ビッテル神父たちであったことは、よく知られている。(志村辰弥神父 『教会秘話』、 朝日ソノラマ 『マッカーサーの涙』)
教皇庁からは二年続いて“神道信徒”への「新年挨拶」が届いている。教皇庁の神道への態度は、日本の司教団とは異なる。
「2014年 バチカンの枢機卿、神道に新年あいさつ」
「2015年 カトリック教会から神道への新年のご挨拶」サンマリノ共和国において昨年、「サンマリノ神社」が創建された。サンマリノはカトリック国であり、宮司のフランチェスコ・ブリガンテ氏もカトリック信徒であるが、矛盾を感じないと語り、建設に際しても妨害は一切無かったという。
サンマリノ共和国 マンリオ・カデロ駐日大使
「世界最古の共和国から、世界最古の君主国の皆さんへ」
「サンマリノ神社建立成って」
サンマリノ神社 フランチェスコ・ブリガンテ宮司
「神道の精神をヨーロッパへ」
サンマリノ神社参拝記