教会の正当防衛権(自衛権)の教えと
「戦後70年司教団メッセージ」
 河野 定男
夙川教会信徒
2015.08.08
 

1.はじめに

  現在(平成27年6月20日の時点)開かれている通常国会の最大の焦点は、政府・与党が提出している集団的自衛権の限定行使を容認する安全保障関連法案が可決成立するかどうかであることは、云うまでもない。6月18日の読売新聞の社説によれば、17日の国会で行われた党首討論において、民主党の岡田代表は、安全保障関連法案ついて、「憲法に合致しているとは言えず、違憲だ」と断じたという。これに対し安倍首相は、法案は「憲法の範囲内にある」と反論し、「国際状況に目をつぶって、国民のいのちを守る責任を放棄してはならない」とも強調したそうである。読売新聞は安倍首相の立場を支持する論調となっているのだが、岡田代表が言うように、いま議論されている安全保障関連法案が「違憲だ」とする立場があっても不思議ではない。なにしろ日本国憲法9条を素人が、だれからの教えも聞かず先入観なしに読めば、自衛権(集団的自衛権及び個別的自衛権)そのものも認められていないと解釈しても不思議でないような文面になっているからだ。
  わたしの関心の根底にあるのは、この安全保障関連法案に対して政府・与党の立場を支持するかどうかではなく、カトリック教会は自衛権(正当防衛権)たいして、どのような立場なのか、そして日本の教会は、それをどのように信徒に教えて来たかを、振り返って検証してみることである。


2.2014年7月3日の常任司教委員会の抗議声明

  わたしがこのような関心を持つに至ったのは、安倍内閣が2014年7月に集団自衛権行使容認を閣議決定した直後の7月3日に日本カトリック司教協議会(司教団)の常任司教委員会が「集団自衛権行使容認の閣議決定についての抗議声明」を出したことによる。わたしは、この声明が出されたのを知って、正直いって「エッ、なぜ?」と驚きの念を禁じえなかった。常任司教委員会といえば、司教団声明につぐ権威ある日本のカトリック教会を公式に代表する権威ある機関と理解しているからだ。
  その司教委員会が出した抗議声明は「わたしたちカトリック教会は、現代世界の状況の中で、軍備増強や武力行使によって安全保障(平和)(カッコ内筆者)が確保できるとする考えは誤っていると確信しています。それは国家間相互の不信を助長し、平和を傷つける危険な考えです。」と記しているが、この司教委員会の主張は正しく、そのとおりである。この記述は、第二バチカン公会議の「現代世界憲章」の81項を下敷きにしていると思われる。この81項は世界の軍拡競争に警告を発している項目で、いわゆる抑止力が平和維持にもっとも効果があるという考え方によって世界が動いており、それが一定の効果があるという現実をはっきりと直視したうえで「人々は、この抑止の方法をいかように評価するにせよ、多くの国が行っている軍拡競争は平和を確保するための安全な道ではなく、それから生じるいわゆる力の均衡も、確実で真実な平和ではないことを確信すべきである。それは戦争の原因を取り除くどころか徐々に増大するよう脅かす。・・・」と述べているからである。
  司教委員会の言う「軍備増強や武力行使によって安全保障が確保できるとする考えは誤っている」ことは究極的な意味、つまり軍備増強と武力行使だけでは安全保障(平和)を確保することはできないという意味で、真実であるが、「(閣議決定された)集団的自衛権行使の容認は、軍備増強と武力行使についての歯止めを失わせるもの」(カッコ内筆者)などと、宗教家がどうして言えるのだろうか。これは司教委員会の政治的解釈であって聖職者の本来の任務からはずれた発言ではなかろうか。もしカトリック教会の教え(カトリックの信仰原理)に基づくものであるなら、その根拠を福音や公会議文書などに従って示してほしい。


3.2015年2月25日の戦後70年司教団メッセージ

  この集団的自衛権の限定的行使の容認が、軍備増強と武力行使の歯止めを失わせるという司教委員会の考え方は、そのまま2015年2月25日付の「戦後70年司教団メッセージ 平和を実現する人は幸い~今こそ武力によらない平和を」(以降「メッセージ」と略)に引き継がれている。その第4項「歴史認識と集団的自衛権行使容認などの問題」において「・・特定秘密保護法や集団的自衛権行使容認によって事実上、憲法9条を変え、海外で武力行使できるようにする今の政治の流れ・・」と集団的自衛権容認が憲法9条の事実上の変更であるからいけないという認識を示している。
  メッセージは第2項「戦争放棄への決意」で司教団は1945年までの日本が行った戦争をすべて日本の侵略行為と断定し、中国やアジア諸国および日本国民にもたらした戦禍の反省に立って、1946年に平和憲法(日本国憲法)が公布され、そのもとで戦後70年、アジア諸国と信頼・友好関係を築いてきたとしている(この司教団の歴史認識については、ここではコメントしない)。
  そして教会自体(世界のカトリック教会-普遍教会)も戦後、軍拡競争や武力による紛争解決に反対する姿勢を鮮明にしていることが、1963年のヨハネ23世の回勅「地上の平和」67項、1965年の「現代世界憲章」81項、1981年のヨハネ・パウロ2世の広島での平和アピールなどによって示されていると強調し、カトリック教会は「はっきりとした戦争に対する拒否」を表明していると指摘している。この指摘そのものは正しく、信徒はこのことを尊重し、重く受け取るべきであろう。カトリック教会が戦争には断固反対であることは、「現代世界憲章」の79項から82項にもはっきりと示されている。
  続けてメッセージは「以上の歴史的経緯を踏まえるならば、わたしたち日本司教団が今、日本国憲法の不戦の理念を支持し、尊重するのは当然のことです。」と結論づけている。どうして、ここで日本国憲法が出てくるのかいささか不思議な感がする。司教団は“憲法9条教”の教徒であることを自ら信仰告白しているのだろうか。メッセージの注5を見ると、日本国憲法の不戦の理念とは憲法の前文の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようとした。」の部分と、憲法9条の全文(憲法第二章 戦争の放棄)のことを指している。
  わたしは、憲法前文のこの部分と第9条を合わせ読むと、冒頭に述べたように憲法9条は正当防衛権(自衛権)そのものも認められていないと解釈する(つまり自衛隊保持は憲法違反)のが正しいのではないかという感が深まるのである。これは必ずしも素人の浅はかな解釈ではないようである。憲法制定当初の政府自身が憲法9条は自衛権そのものを認めていないという見解だったのである。1946年6月に開かれた現日本国憲法の制定を審議する第90回帝国議会で、当時の吉田茂首相はそのように明言したと云われている。2015年7月9日付の産経新聞のコラム“阿比留瑠比の極言御免”は次のように記している。
  「共産党は現在、『安全保障環境の変化だけ振りかざして憲法解釈を百八十度変えることは立憲主義に反する』(井上哲士参院国対委員長)と政府・与党を批判している。だが、共産党自身が国際環境や時代の変化に合わせて柔軟に憲法解釈を変更してきたのだ。そもそも、憲法9条をめぐっては、政府解釈の一大転換がなされている。吉田茂首相(当時)21年6月の衆院本会議で、『侵略された国が自国をまもるための戦争は正しい戦争』と主張する野坂氏に対し、こう明言していた。『国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくのごときを認むることが有害であると思う。ご意見のごときは有害無益の議論と考える』 つまり政府は当初、憲法解釈上、自衛戦争そのものも否定していたのだ。それが警察予備隊(昭25年創設)、保安隊(27年設置)、自衛隊(29年発足)・・・と国際環境の変化に基づく現実社会の要請を受ける中で、明らかに変わっていったのである。(論説委員兼政治部編集委員)」
  忘れてはならないのは、政府は国際環境の変化と現実社会の要請によって憲法9条の解釈を変えてきたという事実である。特に1954年7月の自衛隊創設に伴って政府の憲法解釈は大きく転換し、同年の12月の国会で時の大村清一防衛庁長官は「国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない」と述べたという(2014年7月3日 産経新聞「集団的自衛権―第4部閣議決定 上 」)。この憲法解釈はその後も維持され、自衛隊を違憲と主張し続けてきた日本社会党さえも1994年同党出身の村山富一首相が第130回国会での所信表明演説にて「自衛隊合憲」、「日米安保堅持」と明言したことによって憲法9条の解釈は現実社会の要請から時の政府によって転換されることがより鮮明になったのである。この度の安倍内閣の集団的自衛権容認は、このような流れの一つと考えるのが妥当と思う。集団的自衛権容認という解釈変更の支持、不支持の議論は国民の間で、また国会で大いにされるべきだが、国連憲章は51条で加盟国が「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を有することを明文化しているのであるから、政府が国際環境の変化に応じて集団的自衛権行使容認を表明すること自体は常識で判断すれば、何の不思議もない。
  以上の憲法9条解釈の歴史的経緯を司教団はどのように受け止めているのだろうか。司教団が支持する日本国憲法の不戦の理念(憲法9条と憲法前文)とは、具体的にどのような解釈に基づいているのかを明確に説明する責務があると思う。憲法制定当初の政府のように憲法9条は自衛権そのものを認めない立場なのか、それとも自衛隊と日米安保までは憲法の不戦の理念に合致するが今回の集団自衛権の限定的行使容認は合致しないから抗議するという立場なのか。後者の立場であるなら、なぜそうなのかを、カトリック教会の教えに従ってはっきりと信徒に説明する義務がある。


4.「カトリック教会のカテキズム」の公布と日本司教団の「カトリック教会の教え」

  1992年10月に当時の教皇ヨハネ・パウロ2世は第2バチカン公会議開催30周年を記念し使徒憲章「ゆだねられた信仰の遺産」を発令し、公会議後に新しく編纂された「カトリック教会のカテキズム」を正式に公布した。使徒憲章によれば、これは公会議閉会20周年を記念して、1985年に開催された臨時世界代表司教会議(シドノス)において、司教たちが、それぞれの国で作成される教義・道徳に対する要理書の参考書として、信仰および道徳に関するカトリック教理を網羅する概説書を作成してほしいという要望から生まれたものである。この要望に応え、1986年にヨハネ・パウロ2世はラッツィンガー枢機卿(後の教皇ベネディクト16世)を長とする編纂委員会を発足させ、6年を要して編纂された概説書が「カトリック教会のカテキズム」である。この1992年に公布された「カテキズム」は暫定版であり原文はフランス語で書かれていたが、その後、若干の修正(注)を経て1997年にラテン語を原文とする規範版が発刊された。(注:“「カトリック教会のカテキズム」日本語版発刊にあたって”によれば修正は80数箇所)
  日本語版の「カトリック教会のカテキズム」はこの規範版を基にしていることもあって発刊されたのは2002年7月のことであった。残念なことだが、日本語版カテキズムは、早期出版が求められているとして、原本にはついている巻末のテーマ別索引を省いて出版された(2002年1月の常任司教委員会の決定)ためにたいへん使い勝手が悪いものとなってしまった(初版出版以来、13年を経た現在でも索引のついた改訂版は出版されていない)。
  日本の司教団は、2003年4月に新要理書「カトリック教会の教え」を刊行したが、これは「ローマ聖座が全世界のための普遍的要理書として『カトリック教会のカテキズム』(1992年)を公表するに際し、これを基準として各国の教会に適用した要理書を編纂するよう勧告した教皇の意志にこたえる」(「カトリック教会の教え」序)要理書として作成されたものである。
  「カトリック教会の教え」の序に「現在発行されている日本語の要理書は、教区または個人編纂のもの、あるいは翻訳ものなど多数ありますが、日本司教団公認の要理書として使用されてきたのは、事実上、『カトリック要理』(改訂版、カトリック中央協議会発行、サンパウロ刊)のみで、1936年(昭和11年)に『公教要理』として発行され、1960年に書名を『カトリック要理』に変更し、1972年(昭和47年)、第2バチカン公会議の教えに基づいて補完され今日(注:2003年)至っているわけです。」と記されているから、戦前戦後約80年を通じて日本司教団が直接編集した要理書(カテキズム)は四つあることになるが、最初の三つ(1936年の「公教要理」、1960年の「カトリック要理」、1972年の「改定版カトリック要理」)は問答形式の文庫本(A6版)のごく簡単な冊子であるのに対し、2003年の「教会の教え」はA5版で付録・索引を除く本文だけで、469頁もある一大書物になっている(ちなみに日本語版「カトリック教会のカテキズム」はA5版で本文と注で830頁である)。すなわち、「カトリック教会の教え」は日本司教団が史上はじめてカトリック教会の教えの全般を自らの責任において、信徒ならびに一般読者に対して解説した画期的な要理書である。その構成はローマ聖座公布の「カテキズム」にならって四部構成になっている。

    「カトリック教会の教え」       「カトリック教会のカテキズム」
 第一部 キリスト者の信仰        第一編 信仰宣言
 第二部 典礼と秘跡           第二編 キリスト教の神秘を祝う
 第三部 キリスト者の倫理        第三編 キリストと一致して生きる
 第四部 キリスト者の祈り        第四編 キリスト教の祈り


5.日本の要理書は自衛権(正当防衛権)や平和の問題をどう教えているか

イ)1936年の「公教要理」
  この要理書は、信ずべき事、守るべき事、聖寵を受ける方法、の三部で構成されていて、問答形式で、合計510個の設問と、その回答が
あるだけで、回答以外には注釈や補足説明は一切ない。
  第二部の守るべき事は、神(天主)の十戒の解説が主体となっていて、正当防衛権に関わることは「第5戒汝殺すなかれ」のところに出ている。設問251に次のように説明されている。
  問:他人の生命を害することが罪にならない場合がありますか。
  答:正当防衛、正しい戦争、正当な裁判による死刑執行の場合などには、他人の生命を害しても、罪にはなりません。
  これだけだが、正当防衛は認められることは明瞭に理解できる。
  また、「正しい戦争」というものがあり得るという立場を、1936年当時の教会ははっきりと支持していたことが判る。同様の考え方は1905年に教皇ピオ10世の命により作成されたと云われる「聖ピオ十世公教要理詳解」(日本語版1973年精道教育促進協会発行)にも「人の生命を奪うことが正当であるのは、正しい戦争で戦うとき、国家の命令により死刑を執行するとき、また不当な侵略者に対してやむを得ず正当防衛するときなどです。」(設問415)と説明されている。
  なお、国家に対する国民の義務については「国家と国民は盛衰を共にするものでありますから、国民たるものは愛国の至誠を致し、国憲国法に遵い、兵役、納税などの義務を尽くさねばなりません。」(設問246)と教えている。

ロ)1960年の「カトリック要理」
  「カトリック要理」の構成も「公教要理」と同様、三部からなるが、表題が、「神と人間の救い」、「徳とおきて」、「秘跡と祈り」とそれぞれ改称されている。「公教要理」では510項の問答から成っているが、「カトリック要理」では、設問数が327個に減って、主な問答の回答部分のところに、細字で、聖書からの引用等による解説が施されている。
  正当防衛に関しては、直接的な問答では取り上げられていないが、設問192の「ひとの生命をそこなう罪にはどういうものがありますか」の細字解説の末尾のところで、次のように記されている。「人間の生命またはこれに相当する貞潔、財産などを守るための正当防衛は許されます」
  なお、「公教要理」には記載されていた「正しい戦争」は「カトリック要理」では姿を消している。20世紀前半の人類が経験した二つの大戦から、大量破壊兵器による現代戦争では、「正しい戦争」の概念は殆ど通用しないという現実をカトリック教会が学んだ結果と推定される。
  また、国民の義務に関しては、設問189で「国家の一員としての義務は何ですか。」「国家の一員としての義務は、国を愛し、国ために祈り、国法に従い、公益に努力することです。選挙権を正しく行使することは国民の大切な義務の一つです。」と教えている。「公教要理」にはあった兵役の義務は、戦後の戦争放棄を理念として掲げた日本国憲法のもとで作成された「カトリック要理」では省かれている。

ハ)1972年の「カトリック要理 改訂版」
  「カトリック要理 改訂版」もやはり「カトリック要理」、「公教要理」と同様3部構成であるが第1部、第2部の表題がそれぞれ「神と、キリストによる人間の救い」、「キリスト信者の道徳」に改められ、設問数を改訂以前の327から148へと半数以下に減らし、細字の解説部分を大幅に増やし、第2バチカン公会議に基づく教えを多く取り入れて、かなり詳しく解説している。
  正当防衛に関しては改訂以前の「カトリック要理」と全く同じ説明であるが、国民の義務については、大きな変化が見られる。国民の義務は「公教要理」、1960年の「カトリック要理」では、十戒の第4のおきて「なんじ、父母を敬うべし」の項で取り上げられているが、「改訂版」では別に「社会におけるキリスト信者」という「課」(29課)を設け次のように説明している。

設問94 社会においてキリスト信者はどのような義務をもっていますか。

キリスト信者は、社会正義をまもり、促進し、祖国を愛して市民としての務めを果たし、できるかぎり社会の発展と世界の平和に寄与しなければなりません。

  ここで要理書として初めて「世界の平和」が取り上げられているのである。その解説で、第2バチカン公会議の「現代世界憲章」78項の「隣人に対する愛から生まれる地上の平和は、父なる神から来るキリストの平和の写しであり、結果である。・・・したがって、すべてのキリスト信者は『愛に根ざして真理を語り』(エフェゾ4:15)、平和を求め、また打ち立てるために、平和を愛する人々と協力するよう強く求められている。」の部分を引用して「平和」の重要さを説いている。その他に同憲章82項、88項、90項から引用して青少年への平和愛好精神の教育の必要性、国際秩序建設への協力などを説いている。

以上の三つの要理書のうち、戦前の「公教要理」には、正しい戦争で人の生命を害しても罪にはならないと教えているのであるから、国が軍事力を有し、場合によってはそれを行使することがあることを前提としているが、戦後の二つの「カトリック要理」では正当防衛は許されるとだけ記して、それ以上の説明はないので、国(政府)に正当防衛権があるのかどうかは、要理書の文面からは判断しがたい。

)2003年の「カトリック教会の教え」
  この要理書は先にも触れたように本文496頁からなる大著であるにも関わらず、教会の正当防衛に関する教えを正面からは取り上げていない。同書の事項索引によると、「正当防衛」という用語が使われているのは全巻を通じて一か所だけで次のような文脈で出てくるだけである(同書403頁)。
「教会も過去において正戦論を唱えていましたが、現代の科学兵器や核戦争の危機を目前にして、教皇ヨハネ23世の回勅「パーチェム・イン・テリス」における提唱から、その様な論理(=正戦論のことか?)(カッコ内筆者)はカトリックの平和論にふさわしくないとされています。つまり現代の戦争行為は正当防衛の範囲をこえて、無差別の破壊と殺戮、地球環境の破壊をもたらすからです。」(下線筆者)
  ここでは一定の範囲で国家に正当防衛は認められていることを匂わす文節とはなってはいるが、個人と国家(政府)に正当防衛の権利があることを説明したものではない。「カトリック教会の教え」が、この箇所以外には正当防衛について全く触れていないかといえば、そうではなく同書349頁の「死刑制度の廃止に向けて」という項目の中で「現代では死刑制度の存在理由が問われています。正当な自己防衛によって自分の生命の保全のために、攻撃者が殺されることは倫理的に容認されます。死刑の場合にも、・・・公的な裁判によって殺されるべきか否かが判定されます。・・」(下線筆者)と記されている。正当防衛の問題は、本来は人間の生命の尊重ということに関連して説明されるべきなのに、「カトリック教会の教え」はなぜかこの問題を正面から説こうとせず、ついでの説明としてしか正当防衛の問題を扱っていないのである。
  「カトリック教会のカテキズム」は「人間のいのちの尊重」という表題の下に「正当防衛」を五つの項(2263-2267)に亘って説いている。「個人および社会の正当防衛は認められます」と明確に説き、それが十戒の「殺すなかれ」のおきての例外として認められるのではないと教えている(2263項)。それは、「自分自身に対する愛というものが、倫理の原則です。したがって自分の生きる権利を他の人の攻撃から守ることは正しいことです。自分のいのちを守るために戦う者は、たとえ攻撃者をやむなく殺すことがあったとしても、殺人の罪科を負うことはありません。」(2264項)という理由に基づいている。
  その上で、正当防衛は権利であると共に、他人の生命に責任ある者にとっては重大な義務でもあり、「合法的な権威を持つ者には、その責任上、自分の責任下にある市民共同体を侵犯者から守るためには武力さえも行使する権利がある」と説明している(2265項)。ここで「合法的権威を持つ者」とは政府のことを、「市民共同体」とは国民のことを指していると解釈すれば意味がはっきりする。また、2308項では第2バチカン公会議の「現代世界憲章」79項を引用して「戦争の危険が存在し、しかも十分な力と権威を持つ国際的権力が存在しない間は、平和的解決のあらゆる手段を講じた上であれば、政府に対して正当防衛権を拒否できない」と説明して、政府(国家)に正当防衛権があることを明確にしている。つまり、国家には、軍事力によって正当防衛権を行使する権利がある(その行使には厳密な条件があるが)のである。
  以上のようなことは司教団の編纂した「カトリック教会の教え」では一切説明されていない。ただ、先に引用した「現代の戦争行為は正当防衛の範囲をこえて、無差別の破壊と殺戮、地球環境の破壊をもたらすからです」という説明に続けて「ただし、祖国防衛のために兵役に従事することは、必ずしも平和維持に反するとはいえません(「現代世界憲章」79参照)」(同書403頁)という、取ってつけたような文言が記されている。この文言は、国家にも正当防衛権(祖国防衛の権利と義務)があり、国民を侵略者から守るためには、軍事力の行使も許されているという教会の本来の教えを、上記のような表現を使って、日本の司教団も認めていないわけではないということを示したものと思われる(わたしには、アリバイつくりの言い訳のように聞こえる)。しかし、この文言の参照箇所として挙げている「現代世界憲章」79項の当該部分は「祖国への奉仕に専念している者は、自分が諸国民の安全と自由のための奉仕者であると考えるべきである。この任務に正しく従事している間、彼らは真に平和に寄与している」となっており、「カトリック教会の教え」の文言とは大きく異なっている。「カトリック教会のカテキズム」2310項の方も、同様に「現代世界憲章」79を参照しているが、「職業軍人として祖国の防衛に従事する人々は、国民の安全と自由とを守るための奉仕者です。自分の任務を正しく果たすとき、共通善ならびに平和維持に真に貢献するのです。」となっている。
  「カトリック教会の教え」の「祖国防衛のために兵役に従事することは、必ずしも平和維持に反するとはいえません」という文言は、「現代世界憲章」79の意図的な曲解ではなかろうか。司教団はこの文言を「祖国防衛のために兵役に従事することは、平和維持に真に貢献しています」と訂正すべきである。
  平和については、「カトリック教会の教え」は「平和」は神の本質であり、イエスの福音の神髄は、ゆるしと和解、復讐心の放棄、敵への愛などにあることを、まず最初に教え、「平和は単なる戦争の不在や敵対勢力の均衡保持の状態ではない」ことを指摘し、「現代世界憲章」78項を引用して、「平和とは、人間社会の創立者である神によって社会に刻みこまれ、つねにより完全な正義を求める人間が実現しなければならない秩序の実りです。・・・平和は永久に獲得されたものではなく、たえず建設すべきものです」と説いている(同書402頁)。その上で、平和を築きあげるには、平和教育が重要であること強調して、「この教育は平和を愛好し、隣人も心の底では平和を求めているという信頼をもって、互いに回心の道を歩むことを求めます」と解説している(403頁)。
  国民の義務に対しては。「政治共同体への協力」という項目(394-396頁)の中で解説している。新約聖書の1ペトロ2章13-17節に基づいて国民は国家の権威者に従う義務がある事、自分の祖国を愛し平和な生活を送るためには、正しく選挙権を行使する必要がある事、パウロの教え(ローマ7:13)に注目を促して納税の義務がる事などを教えている。この他に信徒の固有の役割として直接政治に参与して議員になって「祖国愛と忠実を自覚し、公権が正しく行使され、国法が道徳律と共通善に一致するように、その意見を浸透させる」(第2バチカン公会議「信徒使徒職に関する教令」14)ことを奨励している。
  「カトリック教会の教え」の平和や国民の義務に関する説明は総じて充実しているが、「カトリック教会のカテキズム」では国民の義務として、納税、選挙権の行使に加えて、国防の義務を挙げている(2240項)。


6.洗礼志願者や一般信徒向けの問答形式の要約書は正当防衛をどのように教えているか

  「カトリック教会のカテキズム」および「カトリック教会の教え」はどちらも分厚な書物で、洗礼志願者の入門講座用や、一般信徒のための信仰教育用のテキストとしては不向きである。これら分厚な書物の信仰内容を簡潔にまとめた「要約」の作成が要望されていたが、ローマ聖座は2005年6月に教皇ベネディクト16世によって問答形式による「カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)」を公布した(日本語訳の出版は2010年2月)。
  その後、2010年にウィーン大司教のショーンボーン枢機卿の指導の下に若者向けのカテキズム要約書である「YOUCAT」(日本語訳は2013年6月)が発刊された。この要訳書には教皇ベネディクト16世の序文(若者たちへの手紙)が載せられており、準公式の要約書といえるように思う。
  また、「カトリック教会のカテキズム」(1992年のフランス語版)が発刊された2年後の1994年にドミニコ会(イタリア)が「カトリックの教え―カトリック教会のカテキズムのまとめ」を発刊したが、その日本語訳は早くも同年7月に出版され、2004年に改訂版が出ている。この本は新書版で200頁程の簡便にまとめた小冊子であり、多くの日本の教会で入門講座のテキストとして使用されている。
  日本司教団の「カトリック教会の教え」の方は、これに基づく簡便な要約書が発刊されていないため、入門講座や一般信徒の勉強用のテキストとしてあまり使われていないようである。
  簡便化された上記の問答形式の要約書は、どれも正当防衛に関する問答を設けて説明している。最も小さな冊子であるドミニコ会編の「カトリックの教え」でも、正当防衛はゆるされますか、という設問のもとに「殺人の禁止は、不当な侵害者の攻撃を封じる権利を否定するものではありません。正当防衛は、他人のいのち、または共通善を防衛する責任のある者には重大な義務となります」(設問336)と明確な説明がなされている。「カトリック教会のカテキズム要約」、「YOUCAT」でも設問の立て方はそれぞれ異なるが、同じ内容の説明がなされている(前者:設問467、後者:設問380)。どの要約書でも他人のいのちに対して責任を負う者にとっては、正当防衛は重大な義務であることを記載していることは、特に重要である。
  簡便な要約書のすべてにこのことが説明されているのに、日本の教会の公式要理書である分厚な書物の「カトリック教会の教え」には全く説明されていないことは、少々異常ではなかろうか。


7.カトリック教会は集団的自衛権(正当防衛権)も認めている

旧約聖書 コヘレトの言葉4章9-12節

ひとりよりふたりが良い。 
共に労苦すれば、その報いは良い。
倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。
倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
更に、ふたりで寝れば温かいが
ひとりでどうして暖まれようか。
ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。
三つよりの糸はきれにくい。

  1959年に日本の最高裁は「主権国家として有する固有の自衛権」を認めた。この時の最高裁長官は熱心なカトリック信者であった田中耕太郎である。彼は国の自衛権を認めた砂川事件判決の補足意見で「自衛はすなわち『他衛』、他衛はすなわち自衛という関係にある。自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国は義務を負担している。」と述べ、自衛権には集団的自衛権も当然含まれることを示唆している(2015年6月18日読売新聞)。
  先に触れたように、国連憲章51条は加盟国には「個別的又は集団的自衛の固有の権利」があることを認めているが、これが国際的な常識で、カトリック教会もこの立場である。
  国家の存在理由は何か、それは根本的には国民の共通善を実現又は推進ことであると云える。共通善という用語はカトリック教会でよく使われるが、教会の社会教説の重要な概念の一つで、その定義は「共通善は集団と個々の成員とが、より豊かに、より容易に自己完成を達成できるような社会生活の諸条件の総体」(現代世界憲章26)である。共通善の推進の主体は、国家に限られたものではなく、それぞれの集団がそれぞれの共通善を実現しようと努力するが、今日、共通善は世界的なひろがりを持っており、全人類にかかわる権利と義務を含む国際的な側面を考慮しなければなないものとなっている。
  教会は、国家などが実現すべき共通善には基本となる本質的要素が三つあると説いている(「カトリック教会のカテキズム」1906項)。第一は個人の尊重であり、公権、すなわち国家は個人の基本的人権を尊重しなければならない。正しい良心に従って行動する権利、プライバシーを守る権利、宗教の分野をも含めて正当な自由を享有する権利などを行使しできる諸条件を整えることである(同書1907項)。第二に社会的安寧と発展を実現することである。政府は国民が人間らしい生活を送るために必要なもの(衣食住、職業、健康、教育、教養、家庭、適正な報道等)を享受できるように図らなければならない(同書1908項)。そして第三が平和の問題である。同書1909項は次のように説明している。
  「第三に、(国や国際社会が実現すべき)共通善には、平和、すなわち、正しい秩序の持続や保全という内容が含まれています。したがって、権威者は適正な手段を用いて、社会とその構成員との安全を図らなければなりません。(社会とその構成員の安全を図るという)共通善こそが、個人および集団の合法的防衛権の土台になるものです」(カッコ内と下線は筆者)。ここで教会は、社会とその構成員(すなわち国家と国民)の安全を図るためには集団的自衛権も必要であることを説いているのである。
  さらに、若者向けの要理書である「YOUCAT」は設問398で「キリスト者は、平和主義でなければならいの?」という問いかけのもとに次ぎのように教えている。
  細字で記されている解説部分で、教会は戦争に断固反対していること、キリスト者は戦争を避けるためにあらゆる努力をすべきであること、経済や社会における不正義を無くす努力をして平和のために尽力すべきことを説いた上で、上記問いかけに直接答える部分では、「教会は、平和を求めて努力するけれど、過激な平和主義を説くことはしない。つまり、個人であろうと、国や同盟国単位でも、武器を用いて自衛する基本的権利は否定されえない。戦争は最後の手段として行われるときのみ、倫理的に正当化されるんだ。」と記している(下線は筆者)。
  このように教会は、はっきりと正当防衛権(自衛権)には集団的自衛権も含まれていることを教えているのである。それなのに、なぜ日本の司教団は安倍内閣による集団的自衛権の限定的行使容認の決定に反対するのか、反対するカトリック的な根拠は全くないでのではなかろうか。


8.解せない司教団メッセージ第2項の表題 ―― 結語に代えて

  「戦後70年司教団メッセージ」全体の表題は「平和を実現する人は幸い~今こそ武力によらない平和を」という山上の垂訓の真福八端(マタイ5:3-10)から採った立派なものである。メッセージの内容全体から観て、中心となっているのは、「2.戦争放棄への決意」の項であろう。ここで戦争放棄という用語が使われているのは、第9条だけで構成されている日本国憲法の「第二章 戦争の放棄」を念頭に置いたものと推察される。果たして戦争放棄は「平和を実現する人は幸い」というキリストの言葉の意味を伝えるにふさわしい言葉なのだろうか。カトリック教会は、戦争の回避、平和の実現のために人類はあらゆる努力するよう繰り返し教えているが、戦争放棄をしなさいとは決して教えていない。
  ここで、先にも引用した【4.の2)の項】「現代世界憲章」の文言を敢えて再度引用しておく。

「平和とは、人間社会の創立者である神によって社会の中に刻み込まれ、つねにより完全な正義を求めて人間が実行に移さなければならない秩序の成果である。実際、人間の共通善は基本的には永遠法によって支配されるが、共通善が具体的に要求することがらは時の経過とともにたえず変動する。したがって、平和は永久的に獲得されたものではなく、たえず建設されるべきものである。そのうえ人間の意志は弱く、罪によって傷つけられているため、平和獲得のためには、各自がたえず激情を抑えることと、正当な権力による警戒が必要である」(78項)(下線は筆者)。

  以上のことを踏まえるならば、メッセージ第2項の結語である「戦争放棄は、キリスト者にとってキリストの福音そのものからの要請であり、宗教者にとしていのちを尊重する立場からの切なる願いであり、人類にとっての手放すことのできない理想なのです。」という文言の主語(戦争放棄)は間違っているのではないか、わたしは敢えて「間違っている」と断じておく。この文言の主語は「平和の建設」「平和の実現」「平和の構築」などであるべきである。なぜなら「平和」は神の本質でもあり、イエスの福音の神髄であるからだ(「カトリック教会の教え」402頁参照)
  なぜ、司教団はこのような間違いを犯したのだろうか。それは、日本司教団があまりにも過度に日本国憲法第9条にこだわった結果ではないかと、わたしは考えている。

以上

PDFファイルへ
表紙へ